エゴと傲慢と視野狭窄の壁
その街は白く大きな壁に囲まれていた。
高さは2.5メートルから3.5メートルほどで、その壁はまるでその中にいる住民達を、閉じ込めているかのような印象を与える。しかし、その壁を造ったのは住人達自身で、決して彼らは閉じ込められている訳ではない。そしてその壁は、周囲の地域と自分達を区分けする為に、その特別性を主張するかのように、押しつけがましく、まるでその顕示欲を象徴するかの如く成立をしたものでもあった。その街に住む住人達は、いわゆる富裕層と呼ばれる人間達ばかり。そこは、彼らが協力して創り上げた、特殊な自治区なのだ。
この街は、周囲の住民達から、正式名称ではなく“壁の街”という通称で呼ばれている。
イギリスには、マンチェスターという名の都市がある。この街は元は人口の少ない田舎だったものが、産業革命の影響により急速に発展をし、成立をした巨大な都市だ。そして驚く事に、この街のその急成長は、ほぼ自然発生的に起こったのだ。その為、地方政府など存在せず、だからもちろん都市計画などもなかった。しかし、それでもマンチェスターには貧民街が生まれ、富裕層が住む高級住宅地が生まれ、それらを区分けする境界が生まれた。
これは“自己組織化現象”が、この街に起こった為だと言われている。統制者など存在しなくても、個々の相互作用によって、勝手に組織化が起こる現象。
“壁の街”の成立は、このマンチェスターのケースとは異なる(何しろ、自治体があるのだから)。しかし、それでもその視点を拡張するのであれば、あるアナロジーがそこにある事は否定し切れないだろう。
金融資本論。
その論文の中で、著者である経済学者ヒルファーディングは、金融経済は、資産を持っていれば持っている程有利になることを説いた。そしてその言葉通り、実際に金融経済においてその現象は起こったのだ。銀行などの金融機関は、だから巨大化する傾向にあり、個人でも同様だ。
資産を持てば持つほど有利になるのなら、資産を持った者はより金持ちになり、資産は一部へと集中するはずだ。つまりは、スーパーリッチが誕生するのだ。その為、金融経済が盛んなアメリカでは、所得格差が異常なまでに広がり、発展途上国並みになってしまった。もちろん、深刻な社会問題になっている。
もし、あなたが株やその他の金融取引に手を出そうとしているのであれば、この点をじっくりとよく考えてみるべきだろう。あなたに充分な資産がないのなら、その条件だけで、既にあなたは金融ビジネスにおいて不利だという事になる。資産を持った者はより金持ちになるが、逆に資産を持たない者はより貧乏になるからだ。
このスーパーリッチが誕生する理屈は、実は“自己組織化現象”の一つだと表現できる。そしてこの街は、その自己組織化現象によって誕生したスーパーリッチ達が、自分達の為に創り出した富裕層専門の自治区なのだ。自己組織化現象によって生まれたという意味では、マンチェスターの高級住宅地と同じだろう。
彼らがそんな自治区を創り出したのは、税の使われ方について不満があったからだった。彼らの中には、「膨大な額の税金を納めているのは自分達であるにも拘らず、その税金のほとんどが貧困層の為に使われている」という意識があったのだ。
これは公共福祉の問題点としてよく知られているものの一つで、モラルハザードと関連して語られる事が多い。国が行う公共福祉は税金を使って行われるが、その公共福祉を受ける者が、税を多く支払っているとは限らない。そこに不公平が生まれているというのだ。下手すれば、努力して苦労し働いている者達が損をして、楽をして生きている者達が得をするという事態すら起こり得る。いや、これは、実際にある程度は、確実に起こっているのだが。
この不公平を是正する為、一部の富裕層が「自分達が支払った税金が、自分達の為に使われる自治区」を創り上げた。そしてそれがこの“壁の街”なのだ。その理由を知った上でこの街の壁を見てみると、その富裕層の人間達の意識を象徴しているかのように思えてくるから不思議だ。
一見、彼らの主張は、いかにももっともらしく聞こえる。だが、彼らは木ばかりを観て、森を観てはいない。つまり、視野が狭くなってしまっている。社会全体を視野に入れた場合、その考えには、いくつもの問題点があった。
そしてそれは、この街に、否、この地域全体に、歪な問題を引き起こそうともしていたのだった。
その少年は、内側にある壁際の道を歩いていた。白くて大きな壁。壁にある微かな繋ぎ目の線を、そっと指でなぞる。退屈。メランコリック。部屋に閉じこもっていると、暗い気分に耐え切れそうになかったので、彼は外を散歩をしていたのだ。
彼が壁際を歩いていたのは、或いはこの壁の外に出たいという願望の現れだったのかもしれない。
彼の両親は、この壁の中でも特に裕福な資産家だった。しかも、皆のリーダー的位置にいて、発言力も強い。ただし、その一方でプライドが高過ぎるところがあり、自分の気に食わない相手には、容赦なく制裁を加えるというような一面もあった。その点を恐れて、彼の友人になりたがる子供は少ない。それでいつも彼は孤独だったのだ。
少年の名はT.Sといった。
空を見上げる。それほど青くはなかったが、薄い青の存在をわずかながらにでも感じられる広く大きな白い空は、彼の憂鬱な気分を少しだけ癒してくれた。
やがてしばらく壁沿いの道を進むと、笛の音が聞こえて来た。聞き覚えのあるメロディ。彼はその音に驚くと、辺りを見回した。音が何処から響いて来るのか探しているのだ。しばらく辺りをうろつくと、彼はそれが壁の向こうから響いて来ていることに気が付いた。それで壁の向こうを覗こうと、今度は高い場所がないかと辺りを見回した。すると、近くに公園があり、大きなジャングルジムがあるのを見つけた。それに登れば、壁の向こう側を覗けそうだった。
彼がジャングルジムに登ると、安そうなアパートがあり、その二階で女の子が一人、笛を吹いている姿が目に入った。
「メージー・メージー!」
T.Sはその姿を認めると、そう大きな声を上げた。T.Sからメージー・メージーと呼ばれたその女の子は、T.Sを一瞥すると、まるでそれに気付いていないかのように、彼の事を無視し、また笛の続きを吹き始めた。
「メージー・メージー! 僕だよ。T.Sだよ。忘れちゃったの?」
その彼女の反応に、T.Sはそう狼狽えたような声を上げる。すると、軽くため息を漏らしてから、メージー・メージーはいかにも彼を馬鹿にした口調でこう口を開いた。
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえているわよ、T.S。まったく、相変わらずに、情けないんだから」
実はT.Sとメージー・メージーは友人同士だったのだ。メージー・メージーは、かつてはこの壁の街の中で暮らしており、気の強い彼女は、T.Sの親の権力をまったく気にせず、彼と付き合っていた。
メージー・メージーは、T.Sに対していつも上から目線で接していた。もっとも、裕福な家庭で甘やかされ、贅沢な暮らしをしていた彼女は、その生まれついての性格も影響して、誰に対しても高慢に接するのが常だったのだが。
「久しぶりだね、メージー・メージー。僕はずっと君に会いたかったんだ」
T.Sがそう言う。
メージー・メージーは性格に問題がある所為で、多少なりとも周囲から嫌われていた。そんな彼女の事をすんなり受け入れられていたのはT.Sくらいで、しかも彼には彼女にやや依存しているような傾向すらもあった。親の所為で、誰からも一歩引かれる態度を執られるT.Sにとって、メージー・メージーの存在は救いだったのかもしれない。
「あら? そうなの。あたしは別にどっちでも良かったけど」
そう答えた彼女の顔には、微かに安心したような雰囲気があった。壁の街を追い出され、以前とは比較にならないくらい安いアパートで暮らしていても、T.Sの彼女に対する態度がまったく変わっていない事に彼女は安堵をしていたのだが、それにT.Sはまったく気が付いていなかった。もっとも、まだ精神が未発達な彼に、それを察しろというのは酷なのかもしれないが。
「こんなに近くに暮らしていたのなら、教えてくれれば良かったのに」
T.Sは、はしゃいだ様子でそう言う。もちろんメージー・メージーは、T.Sに同情されるのが嫌でそれを教えなかったのだが。
「だから、T.S。あたしは別にどっちでも良いって言ったでしょう?」
できるだけ、嬉しそうにしている事を悟られないようにしながら、メージー・メージーはそう言う。照れ隠しもあったが、“T.Sの同情”を自分が恐れていた事を、彼に悟られるのを避ける為でもあった。
それからT.Sとメージー・メージーは、しばらくぶりのお喋りを楽しんだ。とてもくだらない話をする。テレビのアニメの事とか、天気の事とか、学校の授業がとても退屈だというような事とか。夕方になるまで二人は会話を楽しみ、T.Sがもう帰らなくてはいけない時分になると、彼はこう言った。
「ねぇ、また明日も来て良いかな? 僕は君ともっと話がしたいんだ」
メージー・メージーはその彼の言葉を聞いて嬉しそうにしたが、既に夕刻で薄暗くなっていた所為でその顔が見えず、彼にはそれが分からなかった。
「あなたがそう言うなら、別に話し相手になってあげてもいいわよ」
そう彼女は返す。T.Sはその言葉を聞くと嬉しそうにしながら、家に戻って行った。
メージー・メージーの父親は、金融コンサルタント業を営んでおり、巨万の富を操って、資産の倍増に成功したという実績を残していた。最も仕事が好調だったその時期に、メージー家はこの“壁の街”に移り住み、それでメージー・メージーとT.Sは知り合い、友人同士になったのだ。
外の世界では、周囲の子供達よりも上の立場でいられたメージー・メージーだが、この壁の街ではそうはいかなかった。それが孤立の大きな要因にもなったのだがしかし、先にも書いた通り、T.Sだけは彼女の性格をあまり問題にしなかった。だからこそ二人は、仲が良くなったのだろう。
が、しばらくすると、メージー・メージーの両親は仕事で大きな失敗をしてしまう。ある取引で、巨額の損失を出してしまったのだ。それにより収入が激減すると、この街に居続けるだけの税や生活費を支払えなくなり、彼らは街の外への引っ越しを余儀なくされた。彼らが街の直ぐ傍に居続けたのは、仕事の関係上、壁の街から遠く離れる訳にはいかないという事情があったからだった。
メージー家の凋落を、人々はT.Sに対してメージー・メージーが高慢に接した所為だと噂し合った。T.Sの両親が制裁を加えたのだろうと。もちろん、これは単なる噂で事実ではない。もっとも、メージー家がT.Sの両親の支援を得られなかった事くらいには、影響を与えていたのだろうが。
その噂を聞いたT.Sは、メージー・メージーに対して申し訳なく思ったが、その彼の態度を敏感に察した彼女は、そんな彼に対して怒りをぶつけた。
「馬鹿じゃないの! T.S。親なんて、まったく関係ないわよ。そんなんだから、あなたはいつまで経っても情けないままなのよ。あなたが親のした事の責任まで執る必要なんて、まるでないじゃない。あなたと親は違うんだから」
その発言は、自分の事を完全に棚に上げていたが、それでもT.Sは、メージー・メージーが自分を恨んでないと知って喜んだ。ただ、だからこそ彼女が引越し先を教えてくれなかった事に、彼はショックを受けていたのだが。
実際、T.Sがメージー・メージーに対して罪悪感を覚える必要はまったくなかったのかもしれない。
実はここ最近、この街の人口は縮小する傾向にあったのだ。そして、街を出るのは、より安定性のない立場の人間達の場合が多く、メージー・メージーの両親のような金融コンサルタント・トレーダーもそこには含まれていた。つまり、メージー家が、この街の外に出る事になるのは、社会の大きな流れとして、高い確率で起こる事だったのだ。
トレーダーの類の仕事上の実績が、本人達の実力に因るのか、それとも単なる偶然かといった点は、議論の対象となっている。事象が無数にあるのならば、その実力を保証できるが、取引の数はそれほど多くはない。そして事象が少ないのなら、幸運の結果として偶然に巨万の富を稼ぐという事も起こり得る。その為なのか、驚く程優秀な実績を残しているトレーダーが、それまでに稼いだ額を上回る損失を出す事もあるのだ。
そして、そう考えたなら、こう問いかける事ができるだろう。
「実力主義の観点からいって、偶然に得た実績に基づき手に入れたその富は、果たして妥当だと言う事ができるのだろうのか?」
もちろん、これを本人達に訊いたなら、「リスクを負って、仕事をしているのだから、当然、利益を得る権利がある」とそう主張するだろう。
これはそれがギャンブルならば、正当な主張になるだろうが、“労働の対価としての報酬”を考えるのなら、少々苦しくなる。早い話が、多くのトレーダーの発想は、そもそもが労働からはかけ離れているのだ。
“労働”とは生産活動。そして、ギャンブルは何も生産をしない。だからギャンブルを労働と言う訳にはいかない。生産活動は経済の根幹だから、もしこれが崩れれば、社会が根底からおかしくなってしまう。もちろん、金融取引の全てがギャンブルという訳ではないがしかし、ギャンブルの要素があまりに大きくなり過ぎれば、それは社会を不安定な場所に変えてしまう。
しかも、中には“リスクを負わないギャンブラー”の存在もあるのだ。
夕闇の中。
メージー・メージーと別れた後、T.Sが壁沿いの道を家に戻る為に歩いていると、不意に「ねぇ、あなた」と呼びかけられた。しかも、声は頭の上から響いて来ている。驚いて彼が上を見ると、そこには薄い茶色の紙袋を被ったセーラー服姿の、女子高生らしき人間の姿があった。壁の上に座っている。その右肩には、何故か蛙を乗せていた。蛙は緑色をしており、アマガエルのようだったが、それにしては少し大き過ぎのように思えた。T.Sが戸惑っていると、その謎の女子高生はこう口を開いた。
「さっき、見ていたのだけど、あなたは壁の外の女の子と友達なの?」
T.Sはそれには返さず、代わりにこう問いかけた。
「あなたは、何?」
すると、その謎の女子高生はこう返した。
「わたし? わたしは女子高生よ。謎の女子高生、田中かえる」
“田中かえる?”
そう返されても、当然、何も分からない。しかしT.Sはそれは追及せず、今度はこう尋ねた。
「どうやって壁の上に登ったの?」
壁の高さは3メートルはあり、軽く見渡した限りでは、壁の上に登るのに都合が良い足場は何処にもなさそうだったのだ。
「あら、そんなの簡単よ。ジャンプしたの」
「ジャンプ? ジャンプで登れるの? こんなに高いのに」
「登れるわよ。だって、わたしは蛙だから、足がとても強いのよ。そんな事よりも、わたしの質問に答えてよ……
あなたは壁の外の女の子と友達なの?」
――ケロケロ
田中かえるは、言い終えると蛙のような声でそう鳴いた…… とT.Sは思ったのだが、それはどうやら彼女の肩に乗っている蛙が鳴いただけのようだった。
まだT.Sは戸惑っていたが、その質問にこう答えた。
「うん。友達だよ。メージー・メージーは前はこの壁の街に住んでいて、その時に友達になったんだ」
その言葉に、田中かえるは喜びを感じたようだった。
「へぇ……、面白い」
と、そう言う。
――ケロケロ。また、蛙が鳴いた。
「何が面白いの?」
T.Sはそう尋ねたが、田中かえるは、その質問を無視してこう言う。
「ねぇ、あなた……。とっても為になることを教えてあげる。この街は、いえ、この辺り一帯の社会は、この街を中心にしてとても歪んでいるのよ。わたしは、その“歪み”に惹かれてこの街にやって来た」
T.Sはその言葉に眉を顰めた。
「歪みって? どうも、田中さんの言う事は、よく分からない」
「単純な話よ。ほとんど、考えるまでもないくらいに単純な話。この街には、たくさんの大金持ちが住んでいるでしょう? もう吃驚仰天するくらいの金持ちがたくさん。でも、本当にそれだけのお金を貰える程の価値のある仕事をしていると言える人が、果たして何人いるのかしら? わたしは一人もいないって思うのよね」
まだ若く、知識をあまり身に付けていないT.Sには、その彼女の言葉の意味は分からなかった。それで
「どうして?」
と、そう訊く。田中かえるはこう答えた。
「その人が仕事を成功させる為には、それを支える為の膨大な数のスタッフがいなければいけなかったからよ。しかも、もしかしたら、そのスタッフ達さえいたなら、その人自身は必要なかった可能性もある。別に他のある程度の能力を持った人なら、いくらでもその人の代わりになったのかもしれない。
なのに、貰っている報酬は、何千億という額にまで達する。一般の社員との格差は、実に百倍以上。少しばかり不公平が過ぎるのじゃないかしら?
ところが、ここに住む人達は、当然のその理屈を無視している。そして、その理屈を無視したまま、自分達が支払っている税金が、自分達の為に使われていない事は不当だと訴え、こんな街まで創り上げてしまった」
T.Sはその田中かえるの説明に、曖昧に「うん」と頷いた。田中かえるは少し微笑むように首を動かすと、こう言った。
「少し難しかったかしらね? でも、大体は分かったでしょう?」
――ケロケロ。
蛙が鳴いた。
T.Sは何も返さなかったが、その表情は彼女の言葉を肯定していた。田中かえるは、更に続ける。
「収入の妥当性に関しては、もっと面白い話もあるのよ。あなたのお父さんは、確か銀行の経営にも関わっていたわよね? 銀行の人間達が、下手すれば“リスクのないギャンブラー”になってしまっているかもしれないって話を知っている?」
T.Sはその言葉に頭を横に振った。知らなかったからだ。
「銀行には、たくさんの人がお金を預けている。だから、もし潰れたりしたら一大事。社会はパニックに陥り、機能が麻痺してしまう可能性すらある。だから、潰してしまう訳にはいかない。
では、もし潰れそうになったなら、どうするか?
なんと、多くのケースで、国から支援が入るのよ。だから、銀行は例え大きな失敗をしても、大丈夫って事になっちゃうの。つまり、安全が保証されているようなもの。もちろん、従業員の報酬は、その失敗の影響を受けはするだろうけど、致命的な程ではない。
ところが、反対に成功をしたら、“それは自分達の手柄だ”と主張して大金を貰う訳よ。これって、おかしな話だと思わない? 安全を保証されている時点で、公務員みたいなものなんだから、本来は報酬は抑えるべき。少なくとも上層部の人間には、この考えを適応させなくちゃ駄目よ」
田中かえるが、それだけの事を語り終えると、T.Sは何か自分が責められているかのような気分になって、すっかり委縮してしまっていた。その彼の様子を認めると、彼女は軽くため息を漏らしてから、こう言った。
「別にあなたを責めている訳じゃないわよ。ただ、もしわたしの言う事を少しでも理解できたなら、自分でもちゃんと調べて勉強をしておいてね、T.S。
今日はこの辺りで終わりにするわ」
蛙が鳴く。
――ケロケロ。
田中かえるが言い終えると、T.Sは慌てたように声を上げた。
「ちょっと待って。田中さんは、一体、何者なの? どうして、僕を知っていたの?」
田中かえるはそれにこう返す。
「わたしの事は、ネットでググってみて。それで見つけられるはずだから。あなたの事を知っていたのは簡単。あなたが、この街ではとても有名な家の子共だからよ。
それじゃあ、ね、T.S」
そう言うと、田中かえるは大きく跳ねて、壁の向こうに消えていってしまった。
「田中かえるぅ?」
T.Sがメージー・メージーに、昨日会った“謎の女子高生、田中かえる”の話をするなり、彼女はそんな、いかにも馬鹿にした感じの声を上げた。
「うん。昨日会った女子高生は、自分をそう名乗ったんだ。なんか、“田中かえる”は、妖怪みたいなのらしいのだけど」
田中かえるに言われた通り、T.Sは家に帰ると彼女についてインターネットで調べてみたのだ。すると、“田中かえる”に関する、たくさんの種類の怪談が出て来て、しかもその中に出てくる“田中かえる”と呼ばれる存在は、複数あり、一定しなかったのだった。
蛙のような顔をした女子高生も、“田中かえる”だし、蛙を引き連れた女子高生も“田中かえる”で、蛙のような鳴き声で鳴く女子高生だって“田中かえる”だった。
どうやら『女子高生』と『蛙』と『正体不明』という特性さえあれば、ほぼ何でも“田中かえる”になってしまうらしい。そしてそれ以外は、何も分からなかった。これでは、調べる前とあまり変わりがない。少なくとも、T.Sにとって有効な情報はほとんどなかった。分かったのは、“田中かえる”が、怪奇現象にまつわるものという事だけだ。
「馬鹿じゃないの。そんなの誰かのイタズラに決まっているじゃない。大体、私とあなたが友達だからって何だと言うのよ?」
そうメージー・メージーが言うのを聞くと、T.Sは困ったような表情を浮かべてこう返した。
「それはそうだけど、僕にはイタズラだとは思えなかったんだ。イタズラをする意味もないし」
それを聞くと、メージー・メージーは肩を竦める。
「くだらないわ」
「……うん」と、T.Sは返す。
メージー・メージーは、昨日と同じ様にアパートにいて、そしてT.Sが行くまで、昨日と同じ様に笛を吹いていた。
T.Sはそんな彼女の事を少しだけ心配していた。メージー・メージーが笛を吹く時は、大体は寂しがっている事が多かったからだ。もしかしたら、彼女は壁の外に出ても孤独なのかもしれない。それで、T.Sはそう思う。それからまた昨日のように、彼らはお喋りを楽しんだ。その時、メージー・メージーの様子を、初めてT.Sは少しおかしいと感じたのだった。
T.Sの心配通り、メージー・メージーは壁の中にいる頃よりも、壁の外に出てからの方が、ずっと孤独になってしまっていた。いや、もっとはっきり言うのなら、彼女は酷く嫌われていたのだ。壁の外に出たと言っても、周囲の人間達に比べれば、彼女の家は随分と裕福な方だったから妬みもあるし、壁の外の人間達の多くは、壁の中の人間達を“自分達から富を搾取している卑怯者達”とそう思っていたからだ。もっとも、メージー・メージーが孤独なのは、彼女の性格も原因の一つではあったのだが。そして、その辛さの中にあったからこそ、メージー・メージーは、T.Sとの時間をより楽しく感じていたのかもしれなかった。
帰り道。
昨日と同じ様に、T.Sは声をかけられた。「T.S。わたしよ」と。また声は彼の頭上から響いて来た。もちろん、それは田中かえるだった。
――ケロケロ、ケロロ。
蛙が鳴く。
彼女は昨日と同じ様に、壁の上に腰掛けていた。
「今日も、彼女とのお喋りを楽しんでいたのね、T.S。無理もないわ。あなたはとても孤独だものね。
でも、気付いているかしら?
メージー・メージーって女の子。彼女の方が、よっぽどあなたよりも辛い立場にいるわよ」
元気のない様子で、それにT.Sはこう答える。目を伏せながら。
「うん。何となく、そうなんじゃないかって思ってた」
「彼女を心配しているの? あなたは優しいわね、T.S」
それを聞くと、彼は顔を上げながら、田中かえるにこう尋ねた。
「だけど、どうしてメージー・メージーは、あんなに辛そうにしているのだろう? きっと、彼女は孤独だと思うんだ」
そのT.Sの疑問を聞くと、田中かえるは軽くため息を漏らした。それから、こう続ける。
「あなたには、それが分からないのね。でもそれは当然の事なのよ。だって、この壁の街の住人達は、壁の外の人達を犠牲にして、贅沢な暮らしをしているのだもの。彼女は恨まれて当然なの。例え、彼女が何にも悪くなくたってね」
「それは、前の話? この街の人達が、お金を貰い過ぎているっていう」
「そうね。それもある。でも、それだけじゃないわ。この街の住人達はね、“通貨の循環”を阻害してしまっているの。そして、それで歪みを大きくしているわ」
そう言い終えると、田中かえるは大きく辺りを見回した。そしてそれからこう続ける。
「お金っていうのが、循環して成立しているものだって事は分かる? あなたが何かを買えば、それは社会を大きく巡って、再びあなたの元に返って来る。だからこそ、収入ってものは常にあるの。お金が循環をしているからこそ、なくならない」
T.Sはそれに大きく頷いた。
「いいわ。なら、もし、そのお金の流れを止めてしまったなら、何が起こるかしら? 例えば、貯金を誰かがたくさんし過ぎてしまうだとかね」
T.Sはそれにこう答える。
「もしかして、お金が循環しなくなって、自分の所に返って来なくなるの?」
「その通りよ。この街の人達は、自分達が支払った税が、貧困層の為に使われる事を拒絶してしまった。ところが、税を通して貧困層の為に使われるお金は、“通貨の循環”を起こす役割も果たしていたのよ。
それを失えば、社会全体の歪みを大きくしてしまうのは、簡単に分かるわよね?」
T.Sはそれに何も返せなかったが、それでも彼女の言う事は理解できていた。確かに、そんな歪みが大きくなっていけば、何が起こるか分からない。
――ケロ、ケロ。
蛙が鳴く。
田中かえるは続けた。
「メージー・メージーって子の親が、仕事に失敗をしてしまったのは、だからでもあるのよ。“通貨の循環”が失われてしまった事が遠因になっている。それに気付かないで、この“歪み”を放置して大きくしてしまうと、もっと酷い事が起こる。不景気が更に酷くなり、やがては……」
そこまでを言うと一度切り、田中かえるは空を見上げた。
「だから、何とか止めないといけないのよ」
と、それからそう言う。
それを聞いた時、T.Sの頭には、二つの疑問が浮かんでいた。そのうちの一つを、口に出した。
「どうして、田中さんは、そんな事をしようと思っているの?」
――ケロケロ。と、蛙が鳴いた後で、田中かえるはそれに答えた。
「わたしの事は調べたでしょう? わたしは妖怪現象の一種。そして、ある種の怪異は、人々の歪みを修正するように沸くのよ。だからわたしは、この街に惹かれてやって来た。いえ、もしかしたら、この街で沸いたのかもしれないわ」
その言葉の意味を、T.Sは理解できなかった。しかし、それ以上は何も言わない。そして、もう一つの疑問も口にはしなかった。それを分かっているのかどうか、田中かえるはそれから、
「今日はこれくらいにしておくわ。またね、T.S。わたしの言葉が気になるのなら、確り勉強をしておくのよ」
と、そう言ってまた壁の向こうに消えていってしまう。
T.Sは不安に思っていたのだ。どうして、彼女が自分の元に現れるのか……。そして、その理由を何となく察してもいた。
それからもT.Sは、メージー・メージーに会いに行き続けた。メージー・メージーは大体はいつもアパートにいて、明らかに彼が来るのを待っていた。
T.Sは彼女とのお喋りで、できる限り将来の事や生活の事といった現実的な話題を避けた。それまでもくだらない話ばかりをしていたが、今は意図的にそれを避けるようにしていたのだ。しかしそれは、彼が現状を認識し始めている事の裏返しでもあった。
田中かえるは、あれから一度も彼の前に現れてはいなかったが、T.Sは田中かえるから言われた通り、少しずつ社会や経済の仕組みについて勉強をするようにしていた。そして、自分の父親や母親がしている事の意味を理解し始めていた。
T.Sは、彼の両親のパソコンのパスワードを知っていた。こっそりと、キーボードを叩くところを見ていたからだが。だから、両親が公にはしたくない秘密も知る事ができた。彼には自分の両親や、その仲間がしている事が正しいことのようには思えなかった。しかしそれでも彼には、それを誰にも伝える事ができなかった。彼の両親にはもちろん、同じ年代の子供達にも、学校の先生にも、そしてメージー・メージーにも。
それを語る事は、両親に歯向かう事を意味していたからだ。そして、両親に歯向かうには、彼は両親に依存し過ぎてしまっていた。彼にとって両親は絶対者で、彼は自分をその一部であるにようにすら感じていた。しかも、両親にとって余計でしかない、小さな腫瘍のような存在だと。
彼はただただ自分の胸の内に、その思いと事実を閉じ込めていた。そしてそれは、無自覚の内に、彼を責め苛んでいたのだった。
「何か、辛い事でもあるの?」
ある日、T.Sはメージー・メージーからそう言われた。その言葉に、彼はとても驚いてしまった。「別にないよ」と、慌てて言う。しかし、その声は上ずっていた。
「そう」
とメージー・メージーは返したが、それから何を思ったか、T.Sに向けてこんな事を言ったのだった。
「T.S。前にも言ったけど、自分の親の事なんて、はっきり言って、何にも気にする必要はないのよ?
どれだけ親が金持ちだからって、どうでも良いのよ、そんなの。あなたは、あなたがしたいようにすれば良い。もしも、あなたがそれを正しいと思うのならね」
その突然のメージー・メージーの言葉に、T.Sは驚くのと同時に、とても感動していた。彼女だけは、自分を理解してくれていると、そんな事すらも思っていた。
メージー・メージーは、その性格の所為であまりそうは思われないが、人の気持ちを敏感に察する能力も持ち合わせていたのだ。相手がT.Sならば、その能力は充分に発揮される。直感的に、T.Sのおかしな様子を見抜いた彼女は、それでそんな事を言ったのだろう。
しかし、そのメージー・メージーの言葉を受けても、T.Sはやはり、両親が間違っている事を言えはしなかったのだった。彼にとって、両親はそれだけ絶対的な存在なのだ。
「うん。ありがとう」
T.Sはその時、メージー・メージーにそんな言葉しか返せなかった。
「――しばらく見ていたのだけど」
帰り道。久しぶりに、田中かえるが現れた。ケロケロと、蛙が鳴く。
「あなたは、あなたの両親が間違っている事を知っても、やっぱり何もできないのね。でも、それを責めるのは酷なのかしら?」
T.Sは彼女の言葉に何も返せない。彼女はいつも通りに壁の上に座っていた。紙袋を被った顔に目はなかったが、それでもT.Sはじっと見つめられているように感じていた。彼女の肩の上に乗った蛙が鳴く。
――ケロロ、ケロ、ケロ。
田中かえるは続けた。
「ダブルビハインド。あなたが、今、それに苦しんでいるのは知っているわ。でも、申し訳ないけれど、わたしは今から、あなたのそれをより強くする」
それを聞いて、T.Sは少しだけその場から逃げ出す事を考えた。しかし、足は動かなかった。或いは、その苦しみを受け入れる事こそが、自分の罰だと思っているのかもしれなかった。その時、田中かえるの肩の上に乗った蛙に蔑まれているかのようにT.Sは感じていた。彼女は言う。
「市場原理と、医療は相性が悪いという話を知っている? 普通、価格が上がれば、商品の需要は下がるわよね。ところが、医療ではこれが起こり難い。当たり前の話だけど、商品の価格が上がっても病気は治らないから、需要は高いままなのね。しかも、医療資源は“人材”という要素が大きいから、急には供給量も増えない。だから、市場原理を活用すると、医療価格は高騰し、そのまま高止まりしてしまう危険性が大きくなる。
そして今、この壁の街の人達は、医療への税の投入量を減らしてしまっている。もちろん、自分達の支払った税を、自分達の為に使う為にね。すると、当然、国からの支援が減り、医療は市場原理で動かざるを得なくなる。それで医療価格が高騰しているのよ。ここまでの話は良い?」
田中かえるがそう言うと、T.Sは大きく頷いた。
「しかも、話はまだこれだけじゃない。商品価格っていうのは、需要と供給のバランスだけで成り立っている訳ではないの。そこに“コスト”の概念も入れなくちゃ駄目。仮に需要が低くても、コストがかかるのなら、その商品の価格は高くなってしまう。専門的な商品の価格が、高い傾向にあるのはだからね。早い話が、スケールメリットを活かせなくなるって事なのだけど。
そして、医療を受けられる人の数を減らすと、これと同じ事が起こってしまう。スケールメリットが活かせなくなって、より医療価格が高くなってしまうのね。つまり、それでどんどん貧困層は、医療を受けられなくなっていってしまうのよ」
T.Sはその田中かえるの説明に頷きながらも、同時に少し悩んでいた。どうして、彼女が今、そんな説明をするのかが分からなかったからだ。何かしら意図があるはず。田中かえるは更に続けた。
「そして、その受けられなくなる医療は、何も“治療”だけじゃない。“予防”にだって関わって来る。予防が疎かになれば、医療に対する需要は更に高くなる。病気に罹る人が増えるからね。例えば、伝染病だとかは、その好例かしら」
その説明を受けても、T.Sには田中かえるの言いたい事がやっぱり分からなかった。彼女はそこで珍しく立ち上がった。壁を何回か、足の裏で蹴りながら言う。
「この壁のそっち側とこっち側。もし伝染病が拡がれば、この壁を境界線にして、地獄と天国になるわよ。壁の外側には、伝染病に苦しむ地獄ができて、壁の内側には、そんな心配のいらない天国ができる。
さて、T.S。あなたの立場で、それが起こると、果たして、どうなるかしら? 例えば、彼女の事とかね」
そう言い終えるなり田中かえるは、T.Sの返答を待たずに、壁の向こう側に消え去ってしまった。
――ケロケロ。
姿が見えなくなってから、そんな蛙の鳴き声を聞いた気がしたが、それはT.Sの気の所為だったのかもしれない。
何とも言えない嫌な思いの残滓が、その時、T.Sに残った。
それから、田中かえるの言葉がまるで予言であったかのように、新種のインフルエンザが流行をした。予防接種が行われた上に特効薬もあった為、壁の街の住人達にとって、それはほとんど脅威にはならなかったが、壁の外ではそれは深刻な社会問題になっていた。彼らの多くは予防接種が高過ぎて受けられなかったし、特効薬もやはり高過ぎたからだ。
つまり、田中かえるの予想が当たってしまった事になる。壁を境にして、地獄と天国になったのだ。
元々、健康状態も良いとは言えない人間達は、インフルエンザに罹ると、その所為で重態に陥る場合も少なくなかった。中には死んでしまう人もいた。
T.Sはインフルエンザが流行すると、毎日、メージー・メージーの許を訪ねた。もちろん、彼女の身が心配だったからだ。それは田中かえるが自分に語った事を気にしていたからなのだが、メージー・メージーには分かるはずもない。
「T.S。あなた、少し気にし過ぎよ」
それでメージー・メージーから、そんな事を言われてしまった。
「例え、インフルエンザになったって、それで死ぬとは限らないし、そもそも、あなたが毎日顔を見せたからって、わたしがインフルエンザにならない訳でも、治るわけでもないでしょう?
インフルエンザは、あなたの所為じゃないし、あなたではどうにもできないのよ。どれだけ親が凄くたって、あなたはただの子共なんだから」
メージー・メージーからそう言われて、T.Sは、その時思わず表情を少し歪めてしまった。そして、“違うんだ、何にもできない訳じゃないんだよ、メージー・メージー”と、心の中で呟く。
“僕には、できる事があるんだ”
その時、メージー・メージーはT.Sの様子が少しおかしい事に気が付いたが、何も言いはしなかった。
次の日。
メージー・メージーが毛布を被って動かないでいる姿を、T.Sは見つけてしまった。いつも通りに彼女に会いに行き、公園のジャングルジムの上からアパートの二階を見て、いくら呼びかけても返答がないので必死に彼女の姿を探して、そして、部屋の奥にいる彼女のそんな姿を発見したのだ。
「メージー・メージー!」
彼は大声でそう叫んだが、彼女からの返答な何もなかった。動きもしない。それで彼の頭は、軽いパニックに陥った。壁を乗り越えられるような足場が近くにない事を確認すると、壁沿いの道を全速力で走り始める。もちろん、壁の街の外へ出て、メージー・メージーの許へ行こうとしているのだ。
しかし、その途中だった。
「待ちなさい」
そう頭上から声がしたのだ。それは田中かえるの声だった。それを無視して、T.Sは走り続けようとしたが、すると田中かえるは彼の目の前に降りて来て、彼の行く先を塞いでしまった。
「待ちなさいと、言ったでしょう?」
田中かえるを、こんなに近くで見るのは初めての事だった。T.Sは文句を言うように、こう叫ぶ。
「どいて! 早くしないと、メージー・メージーが死んじゃう!」
それを聞くと、田中かえるは大きくため息を漏らした。
「インフルエンザに罹ったとしても、死ぬとは限らないし、それに、あなたが行ったところで、何もできないでしょう?
それよりも、あなたには自分のやれる事があるのじゃないの?」
その彼女の言葉に、T.Sは止まった。
「あなたは、ただ単に、それから逃げ出そうとしているだけじゃないの? 本当は、あのメージー・メージーって女の子の事を救おうとしているのじゃなくって」
田中かえるがそう言うと、ケロケロと肩の上の蛙が鳴いた。蛙が蔑むように自分を見ていると、T.Sは感じた。
「それは……」
言いかけて、彼はやめる。明らかに、怯えている。
「もっと、言ってあげましょうか?」
田中かえるは更に続ける。
――ケロケロ。
蛙が鳴いた。
「あなたは、メージー・メージーに蔑まれるのを恐れているわよね。インフルエンザでたくさんの人が死んだ。それを救えていたのに、あなたは無視をした。その事を彼女が知ったら、彼女は自分を嫌うのじゃないか? 彼女に嫌われるくらいなら、このまま何もしないでいよう。
違う?」
それにT.Sは何も返せなかった。やはり蛙が自分を蔑んでいると、そう彼は思った。蛙が鳴く。
――ケロケロ。
田中かえるがまた口を開く。
「彼女が自分を嫌いになるくらいなら、死んでしまってもいい。本当は、そんな事を思っているのじゃない?」
「違う!」
田中かえるにそう言われて、初めてT.Sはそう返せた。
「確かに彼女から嫌われるのは怖いけど、その為に死んで欲しいなんてこれっぽっちも思っていない!
例え、彼女が僕を嫌いになったって、僕は彼女を救いたいと、心の底から思っている!」
その言葉を聞くと、田中かえるは黙ったまま、すっと指の先をT.Sの後ろに向けた。T.Sが行こうとしていたのとは反対方向だ。その方向には、彼の家があった。そしてそれから彼女はこう言う。
「なら、やるべき事をやりなさいな。口では何とでも言えるわ。ちゃんと、行動で証明しないとね
……T.S」
次の瞬間、T.Sは走り出していた。自分の家に向かって。何故か、田中かえるからそう言われた途端、メージー・メージーが自分を叱ったような気がしたからだ。
『本当に、あなたは情けないわね、T.S。いつまで経っても親の事ばかり気にして。親の意思なんて、本当はどうでも良いのよ。我侭とかじゃなくて、あなたが本当に正しいと思う事があるのなら、あなたのしたいようにしなさいな』
――ケロケロ。
蛙の鳴く声が聞こえた気がしたが、恐らくは気の所為だった。
T.Sは思っていた。
“僕は確かに贅沢な暮らしをしているけど、それは僕が偉いからじゃない。親が金持ちなだけだ。それは決して誇れるものじゃない。でも、そんな立場にいる僕だからこそできる事もある。例え、それが僕の力じゃなくても。僕自身じゃなくても”
T.Sは必死に走った。
……暗い部屋。パソコン画面の頼りない光が、微かにそこを照らしている。そこはT.Sの父親の部屋で、彼は自分の父親をその部屋の中で待っていた。夕刻を過ぎると、彼の父親が姿を見せた。父親は部屋に入って来るなり、その異変に警戒をしたが、そこにT.Sの姿を認めて安心をした。そして「何をやっているんだ? T.S。勝手にパソコンを立ち上げて。悪戯は止めなさい」と、そう言う。
しかし、それから自分のパソコン画面に何が映っているのかを確認して、驚愕した表情を浮かべた。
「どうやって、パスワードを知ったんだ?」
そう言いながら、慌てて開いていたファイルを父親は閉じる。
「今更、隠しても手遅れだよ、パパ」
その父親の様子を受けて、T.Sは淡々とそう言った。
「もう、そのファイルの中身は、ネット上にアップしちゃったから」
それを聞いて、彼の父親は恐怖する表情を浮かべた。何かを言おうとする。しかし、それを手で制すると、T.Sはこう続ける。
「でも、まだ大丈夫。ネット上にアップしてはいるけど、公開してはいないから。“まだ”、だけどね」
それを聞き終えると、父親はゆっくりとこう言った。
「T.S。悪ふざけは止めなさい。お前はこんな事ができる子共じゃないはずだ」
それにT.Sは頷く。
「そうだね。その通り。確かにパパの言う通り、僕はとても情けない子共だ。今だって怖くて汗が止まらないんだ。少し手も震えている」
そう言いながら、T.Sは自分の震えている手を父親に見せた。
「だから、パパ達の秘密を知っても、今まで何もできなかったんだ。まさか、こんな悪い事をしていただなんて。でも、もう限界だよ」
父親はそのT.Sの言葉に激しく反応をした。大きく頭を振って手を何かを受け止めるように動かしながら、こう言う。
「T.S。それはお前の勘違いだ。パパは何も悪い事はしていない。お前は、まだ何も分からない子共じゃないか!?」
T.Sはそれに淡々と返す。
「パパ。僕だって、ちゃんと勉強をしているんだよ。だから、そこで何が行われているかくらい分かる。
これは銀行の取引の記録だよね。しかも、相手はマフィア。当然、貸したお金は返って来ていない。いや、返って来ない事が分かった上で貸したお金だ。それは、そのまま不良債権になって、そしてその損失分は、国が税金から支払っている。
つまり、国が銀行を保護する事を利用して、パパ達は詐欺をやったんだ。これは、国民の税金を、自分達の懐に入れているのと同じだよね。当然、パパもお金を受け取っているはずだ。これじゃ、自分達の税金を自分達の為にって言うのも白々しいよ。パパは、国から、つまり国民の皆から、金をくすねているくせに」
そのT.Sの言葉を聞くと、父親は苛立たしげに口を開いた。
「違う。お前は何も分かっていないんだ」
しかし、なんとかT.Sを説得する言葉を考えようとしても、何も思い浮かびはしない。
「お前は、パパのお蔭で暮らせているんだぞ? それを分かっているのか?」
それでようやくそれだけの事を言った。T.Sはそれを聞くと、自嘲的に笑った。
「分かっているよ。パパには感謝している。でも今はそれは関係ないんだ。今は。ね、取引しようよ、パパ」
「取引ぃ?」
「そう。もしも、この取引に応じなければ、あのファイルの内容は、ネット上に公開される事になる。タイマーをセットしていてね。そういう投稿ができるサイトがあるんだ。きっと、それを見たら雑誌記者が大喜びするよ」
「お前は、親を脅す気でいるのか?」
「そうだよ、パパ。ほら、早く決めてよ、取引に応じるのかどうか……」
そのT.Sの質問を受けると、父親は大きく息を吐き出した。それで自分を落ち着けると、こう口を開く。
「分かった。取り敢えず、話を聞こうか……」
T.Sはそれを聞くと安心した表情を浮かべた。
「今、インフルエンザが流行っているのは知っているよね?」
そして、そう取引の内容を説明し始めるのだった。
次の日、あるニュースが巷間で話題になっていた。
『壁の街の住人達が、医療分野に巨額支援する事を決定した!』
これは“自分達の税金を自分達の為に”という彼らのスローガンに特例を設けた事を意味していた。医療については、国民全員の為に金を使う事にしたのだ。当然、今流行しているインフルエンザにも、早急に対応する事になる。この決定は、医療の普及という意味でも喜ばしい事実だが、貧困層と富裕層の格差をなくす意味でも重要だった。これにより多くの人が、救われる事になるだろう。
T.Sは壁の外の道を歩いていた。手にはインフルエンザの特効薬を持っている。父親にお願いをして、メージー・メージーの為に、取り寄せてもらったのだ。
T.Sが壁の外の道を歩くのは、随分と久しぶりの事だった。かなり汚いという印象を持っていたのだが、今はそれほど汚いとは感じなかった。むしろ開放的にすら思える。
やがてT.Sはメージー・メージーのアパートにまで辿り着いた。壁の外から、彼女の家を訪ねるのはもちろん初めて。少し緊張して呼び鈴を鳴らす。彼女は病気だから、きっと、彼女の父親か母親が出るはず。そんな風に思っていたのだが、戸が開いて中から現れたのは、なんとメージー・メージー本人だった。
「あら? T.S、こんにちは。珍しいわね、表から来るなんて」
彼女はまったく平気な様子で、そんな事を言う。その彼女の様子に、T.Sは目を白黒させた。
「え? どういう事? メージー・メージーはインフルエンザに罹っていたのじゃなかったの?」
すると、メージー・メージーは澄ました表情で、こんな事を言った。
「あら? 誰が病気だと言ったの? わたし、昨日は、ただ寝ていただけよ。勝手に勘違いしないでよ」
そしてそれから少しの間の後で、メージー・メージーはこう続ける。
「T.S。あなたの方こそ、わたしは病気じゃないかって思っていたのよ。酷い顔をしていたもの。元気になっているみたいで良かったじゃない」
そう言った彼女の表情は、悪戯っぽく微笑んでいた。
どうやら彼女の方が一枚上手だと、それでT.Sはそう思ったのだった。
T.Sの持って来た特効薬は、インフルエンザにかかっている彼女の知り合いの為に使われる事になった。
メージー・メージーにも少しは交友関係がある事を知って、T.Sは安心をするのと同時に、少しだけ悔しがったのだけど、その事は内緒にしようと思っていた。もっとも、彼女には、既にバレテしまっているのかもしれなかったが。
舞台となっている社会の文化は、敢えてわりと滅茶苦茶にしました。
感性に従ったというか……。
作中で、医療に市場原理を活用する事の問題点を書きましたが、国と医療が結びついた場合も、様々な問題を引き起こしていますんで、注意してください。薬害エイズ問題や、薬害肝炎問題などが顕著な例ですが。
主な参考文献は、
「偶然の科学 著者・ダンカン・ワッツ 早川書房」
です。
実は他にもあるのですが、メモするのを忘れていて、既にタイトルが分からないという… ごめんなさい。