09「ヒキコモゴモル」
「うはぁっ!! ……はぁ、はぁ」
被っていた布団を跳ね上げる。
体中にじっとりと汗をかいていた。耳穴が蒸すのが不快で、左手でヘッドフォンをむしり取る。
無理な体勢でいたせいか右腕が痺れていた。
そんな些細な痛みが、ヒロに生きているという実感を与えてくれた。
蟲の音が聞こえる庭には、案外に気持ちの良い風が通っている事を知った。
既に夜は更けていた。
ともかくも携帯電話を探す事にした。それからの事は、後でまた考えればいい。
それは思考停止なのかもしれない。
だが、今までの様に立ち止まっているよりも、ずっといい。願わくば、それが前に進む原動力になればとも、思う。
きっと、それが俺の贖罪なのだろう。
「ここかな。えっと、どれどれ?」
自室の真下に、母親の育てていた鑑賞花の鉢植えがあり、その一つが無くなっていた。
しゃがむと地面にその残骸と思しき腐葉土や葉が散らばっているのがわかった。
「明日、この事も謝らないといけないな。……痛っ!」
手探りで携帯電話を探していたら、指先に鋭い痛み。
棘が刺さったらしい。
指先に玉のような血が浮かび、仕方なくリビングへと戻る。サンダルを脱いで上がろうとしたが、
「……親父」
そこには寝巻の父親がいた。
明かりのついたダイニングにヒロとその父親の姿があった。
二人ともに気まずい表情を崩さないままで、ヒロの指に父親が絆創膏を巻き付けている。
テーブルの上には消毒液とカットバン、それと画面にひびの入った携帯電話があった。
沈黙が辛く、ヒロが携帯に手を伸ばした。
「割れているだけで、壊れてはいない。安心しなさい」
「そう。……って!?」
「……悪かったな、気がついてやれなかった。でも、もう心配することはない」
「まさか、勝手に俺のっ」
言葉をさえぎるように、父親が真面目な目でヒロを見つめた。
「今までの金を返す気は無いが、代わりに、もうお前を巻き込むことはしないと約束してもらった。……確かに勝手だな。すまない」
「そんなの……あいつがそんな簡単に」
「彼は大人の本気というものをしっかり理解しているよ。補導と逮捕の違いを説明したらすぐに納得した。実にあっさりした男だった」
「今までの苦労が、そんな事で? ありえないよっ!」
癇癪を起してテーブルの上の物をなぎ倒すヒロを、静かに父親が見守る。そして、ヒロが落ち着いたタイミングで口を開いた。
「だから、もう大丈夫だ。お前の話を聞いてやれなくて、本当にすまなかった」
「ううっ、親父……、うっ、くうっ、ぐぐ、うぁぁぁあああっ!」
目頭に溢れた涙が決壊し、ぼたぼたと懐を濡らしていく。
安心感と情けなさが次々に押し寄せ、食いしばる歯から嗚咽が止まらない。
本当に泣けるっていいものだな。そう思った。
久方ぶりの爽快な朝。
と言いつつ、少し寝過ぎたようだ。急いで学生服に着替えたヒロは鞄を手にリビングへ向かった。
テーブルの上には、母親からの書置きがあった。
「パパから話は聞きました。夜にまた、ゆっくり話して下さい」との事。
ヒロのために用意してあったシリアルは時間が無いので冷蔵庫に戻し、代わりに浄水器のついた蛇口から水道水をコップに汲み、ごくごくと喉に流し込んだ。
『ゴミ野郎がゴミ出しって、似合いすぎてうざい』『お前が燃やされろって、あははっ』
「…………」
『そうだな、そこ。その泥水を飲んだら、虐めるのは辞めてやる』
『おおっ! 本当に舐めたっ!』『うわぁー、さすがにちょっと引くわ。悪いけど近寄んないでくんね、ヒロ』
急に泥の苦さが食道に伝わり、拒絶した胃が胃液と共に台所のシンクを汚す。
その苦しさに涙目になりつつも、水で洗い流す。
遅刻寸前なのだ。急がなくては。
靴をはき、ドアノブに手をかけた瞬間、体が動かなくなった。
『あのさ、そういうネチネチした性格、ずっと嫌いだったんだわぁ。みんなもそうだし』
『裏切られたみたいで腹が立つ』
震えが、足元から全身へと伝播していった。
次に気がついた時には、四つん這いになっていた。いつのまにか再び胃液を垂れ流す自分の姿に驚く。
と同時に、自分の犯した罪に耐えきれないでいる事に気がついた。
「友達、だったんだな……」
二度と戻らない失った信頼。
誰もいない家の中で、今度は遠慮することなく泣き崩れた。
第一章完結になります。
読んで頂いてありがとうございました。
爽快感の無い作品ですみません。第二章からはサスペンス風味の勧善懲悪になるはずですので、ご期待ください。




