この世の理を知る小箱は、悪役令嬢の私には答えてくれません
水仙の護符の事件から、まだ日も浅い頃のことです。
女神の鏡は以前よりも頻繁に点検されるようになりました。
その日、点検に立ち会っていた宝物庫付き魔導士エピメウスは、鏡面に映った私を見たそうです。
そこにいるはずのない私を、女神の鏡は映していた。
エピメウスは私と魔道具に関する過去の記録を遡りました。そこから、彼は一つの疑問を抱きました。王宮の魔道具は、なぜローヴェル公爵令嬢を見つけるのか。
王宮宝物庫、最奥封印棚。
冥王の小箱、そう伝えられる魔道具。
『開けた者は、世界の理を知る』ただし、人の身で知ってよい理ではないため、決して開けてはならない。
開けてはいけないと書いてあるのなら、開けなければよろしいのです。少なくとも私はそう思います。
冥王の小箱は、厳重に封じられていました。
魔導士エピメウスは、その封印を解きました。
蓋が開いた瞬間、宝物庫の警鐘が鳴りました。
魔導士たちが駆けつけた時、蓋はすでに閉じられていました。
エピメウスは箱の前に立ち尽くし、こう言いました。
「わかりませんでした」
小箱を包んでいた白い封印布には、黒い染みが一筋だけ残っていたそうです。
そして、その直後。
宝物庫の封印が乱れました。
いくつかの魔道具が、外へ出た。
私が最初に知らされたのは、そこまででした。
王宮宝物庫から魔道具が出た。それだけで、十分すぎるほど嫌な知らせです。
翌日、私は王宮へ呼ばれました。
会議室には、王妃殿下、エリオット殿下、宝物庫長がいらっしゃいました。
「ネレイス。急に呼び立ててごめんなさい」
王妃殿下がそうおっしゃった後、宝物庫長が頭を下げました。
「このたびは、管理不行き届きで大変申し訳ございません。ですが、ローヴェル公爵令嬢にもご迷惑をおかけする可能性がございまして……」
「可能性、ですか」
「はい。現時点で断定はできませんが、かなり高いものと見ております」
私は扇を持つ指先に力を込めました。
「承知いたしました。お話を伺います」
宝物庫長は、もう一度深く頭を下げました。
「外へ出た魔道具は、いくつだ」
エリオット殿下が尋ねました。
「五点です」
「五点」
王妃殿下が静かに繰り返されました。
「封印が効かなかったのですか」
「いいえ。効いたからこそ、五点で済みました」
五点で済んだ。そう言わなければならない状況なのだと分かっていても、慣れたくない表現です。
私が黙っていると、隣の殿下がわずかにこちらを見ました。私は扇の陰で、ほんの少しだけ目を伏せました。殿下の視線が、すぐ前へ戻ります。
「女神の鏡が反応したと聞いた」
「はい。鏡の光のおかげで、乱れた封印のいくつかが安定しました」
「鏡も外へ出たのか」
「いいえ。封印も箱も破られておりません」
「封印の内側から反応した、ということね」
王妃殿下が確認なさいました。
「はい」
宝物庫長は短く答えました。
女神の鏡は、封じられていてもこちらへ手を伸ばす。いえ、鏡ですから手はないはずなのですが。私は余計なことを口にしないよう、扇の骨をそっとなぞりました。
「五点の詳細は分かっているの?」
「四点までは分かっております」
「四点までは」
「月桂樹の徽章、薔薇の杯、糸杉の針、芥子の指輪です」
私は扇を持つ手を止めました。
「いずれも、小型の魔道具なのですね」
「はい。人の手に収まる形をしております」
宝物庫長は、目録を確認しながら続けました。
「月桂樹の徽章は、身につけた者の身体能力と集中力を一時的に高めるもの。薔薇の杯は、使用者がその時もっとも必要としている飲み物を満たすもの。糸杉の針は、儀礼や盟約、弔いなどを記録布へ縫い残すもの。芥子の指輪は、過ちの直前へ短い時間を巻き戻し、自らを戒めるためのものです」
王妃殿下は、目録から目を離しました。
「どれも、使い道はあるのね」
「はい。人形や水仙の護符と同じく、本来の用途は確認できております」
宝物庫長は、そこで一度言葉を切りました。
「ただ、残る一点は違います」
空気が、わずかに重くなりました。
「名称も形も、用途も分かりません」
「記録は」
殿下が尋ねました。
「読めません」
「欠けているのか」
「欠けているというより、読ませないようにされております」
私は、扇の陰で小さく息を吸いました。聞きたくないことほど、聞かないわけにはいかない時があります。
「読ませないように、ということは」
私は宝物庫長を見ました。
「隠す必要があると判断された魔道具なのですね」
「その可能性が高いと考えております」
「女神の鏡と同じ類いのものですか」
宝物庫長の表情が、わずかに強張りました。
王妃殿下も、目録から顔を上げられます。
「同じ類い、とはどのような意味合いで……」
「人が使うための道具ではなく、人がそれに試されるようなもの、という意味です」
女神の鏡は、美しさを映すと言われています。けれど、あの鏡は人間の都合で使えるものではありません。選ぶのは鏡です。映すのも鏡です。
「……その可能性はございます」
宝物庫長は、慎重に答えました。
「また、封印棚の配置から見ても、女神の鏡と同等に扱われていた可能性がございます」
女神の鏡と同等。その言葉だけで、十分に嫌な予感がしました。
「対になるもの、ということか」
殿下が静かに尋ねました。
宝物庫長は、すぐには答えませんでした。
「伝承の一部には、そう読める記述がございます。ただし、確かな用途は不明です。鏡が何かを映すものなら、もう一方は何かを見るものだと記されていた断片があるだけです」
見るもの。私は、思わず扇を握り締めました。それ以上の感想は、口にしませんでした。
「エピメウスは、なぜ小箱を開けた」
殿下の声は低くなりました。
「本人は、確かめたかった、と申しております」
「何を」
「王宮の魔道具が、なぜローヴェル公爵令嬢の周囲で目を覚ますのかを」
室内の空気が冷えました。
「彼は、ローヴェル公爵令嬢を原因と見ているのですか」
王妃殿下が静かに尋ねられました。
宝物庫長は、すぐには答えませんでした。
「原因、というより……答えに近い存在だと考えていたようです」
「答え」
王妃殿下の声が、少しだけ低くなりました。
「人を答えと呼ぶのは、あまり好ましい言い方ではありませんね」
「申し訳ございません」
「あなたが謝ることではないわ。続けて」
宝物庫長は、深く息を整えました。
「エピメウスは、女神の鏡以降の記録を何度も読み返しておりました」
「鏡の記録を」
「はい。そこにいないはずのローヴェル公爵令嬢を女神の鏡が映した。その事実に、彼は強く囚われたようです」
宝物庫長は、深く息を整えました。
「そして、エピメウスはそこに別の意味を見たようです」
「別の意味」
「魔道具が、ローヴェル公爵令嬢を目印にしているのではないか、と」
目印。それは、あまり愉快な言葉ではありませんでした。
「そして、魔道具に触れれば」
宝物庫長は、言いにくそうに言葉を切りました。
「ローヴェル公爵令嬢に近づけるのではないか、と」
私は扇を持つ指先を止めました。
「それは研究ではなく、崇拝に近いわね」
王妃殿下が言いました。静かな物言いでした。
「恐れながら、本人にその自覚はないかと」
「自覚の有無は問題ではありません」
王妃殿下は、私を見ました。それから、殿下へ視線を移されました。
「人を見ているようで、別のものを見ている。人の意思ではなく、自分が与えた意味を見ている。それはとても厄介です」
殿下は、何もおっしゃいませんでした。ただ、その横顔が硬くなりました。
「ネレイス」
「はい」
「不快でしょう」
王妃殿下の問いは、命令でも確認でもありませんでした。逃げ道を残した声でした。
私は少しだけ息を吸いました。
「……はい」
素直にそう答えると、殿下の視線がこちらへ向きました。心配そうな目でした。
私は扇の陰で、ほんの少しだけ目を伏せました。大丈夫です、と言いたかったのかもしれません。
けれど、今はあまり上手に言える気がしませんでした。
「エピメウスは、私を見ているのではないのですね」
私は言いました。
「私の向こうにある何かを見ている」
宝物庫長は、苦しそうにうなずきました。
「そのように考えております」
「私は、神像でも祭壇でもありません」
声は、思ったより静かにでもはっきりと出ました。
「魔道具に触れれば私に近づける、などと思われても困ります」
「当然だ」
殿下が言いました。短い声でした。けれど、その一言だけで、胸の奥に溜まっていた冷たさが少しだけ薄れました。
「彼は今も、ローヴェル公爵令嬢に会いたいと申しております」
宝物庫長が続けました。
「理由は」
殿下の声が低く響きました。
「確かめたい、と」
「会う必要はない」
殿下は即座に言いました。
王妃殿下は、私を見ました。
「ネレイス。あなたが会う必要はありません」
はっきりとした声でした。
「彼があなたを答えのように扱っているのなら、なおさらです」
王妃殿下は、私を守ろうとしてくださっている。それは分かりました。けれど、会わなければ、エピメウスは私を「まだ確かめていない答え」として見続けるでしょう。
それは嫌です。
「お会いします」
「ネレイス」
王妃殿下の声には、心配がありました。
「ただし、殿下もご一緒に」
「もちろんだ」
エリオット殿下は即答なさいました。
聴聞室は、王宮の奥にありました。
白い壁。細い窓。飾りのない卓。
エピメウスは、卓の向こうに座っていました。髪も衣服も整っています。ただ、指先だけが時折震えていました。
「ローヴェル公爵令嬢」
彼は私を見ました。乱れた目ではありません。むしろ、静かすぎるほど澄んだ目でした。
「女神の鏡は、確かにあなたを映しました」
エピメウスは、静かに言いました。
「あなたがその場にいなかったにもかかわらず、です」
「それは、鏡がそうしたのです」
「分かっています」
彼は、すぐにうなずきました。
「だからこそ、私は知りたくなりました」
その声には、熱がありました。けれど、騒がしい熱ではありません。長く押し込めていたものが、ようやく言葉になったような熱です。
「器のない人間が魔道具に触れれば、身を滅ぼします。私たちは、それを知識としても、経験としても知っています」
私は、黙って彼を見ました。
「人が魔道具を扱っているつもりでも、いつの間にか魔道具に扱われる側になる」
エピメウスの指先が、かすかに震えました。
「ですが、あなたは壊れていない」
その言葉に、殿下の気配が鋭くなりました。
「女神の鏡に映され、他の魔道具にも関わった。それでも、あなたはここにいる」
エピメウスは、私を見ていました。人を見ている目ではありません。けれど、ただの観察対象を見る目とも違いました。長く探していた書物の失われた頁を、ようやく見つけたような目でした。
「むしろ、その在り方は美しい」
室内の空気が、さらに冷えました。
「それは、褒め言葉のつもりですか」
「褒め言葉ではありません」
エピメウスは、すぐに答えました。けれど、その声には熱がありました。
「敬意です」
「敬意」
「はい。魔道具は、時に人を壊します。歪ませます。願いを拾い、欲を増やし、本人でさえ気づかないところまで暴いてしまう。けれど、あなたは壊れなかった。歪みきらなかった。魔道具に見つけられて、なお、ご自分の形を保っている」
彼の指先が、卓の上で震えました。
「その在り方が、美しいのです」
私は扇を握り直しました。
「私は、崇められるために巻き込まれたわけではございません」
「分かっています」
「本当にお分かりですか」
エピメウスは、一度だけ黙りました。その沈黙で、あまり分かっていないことが分かりました。
「あなたは、私が目録でしか追えなかった魔道具の中心に立っておられる」
「立ちたくて立ったのではありません」
「それでも、立っておられる」
静かな声でした。だからこそ、熱が抜けていませんでした。
「私は禁忌を犯しました。冥王の小箱を開けた。人が知り得てはいけないことを、知ろうと思ってしまった」
その声には、後悔がありました。けれど、後悔だけではありませんでした。
「器のない人間が魔道具に触れれば、身を滅ぼす。私は、そう記録に書いてきました。そう教えられてきましたし、そう判断してきました」
エピメウスは、自分の指先を見ました。
「私は、そちら側ではないつもりでおりました」
室内が静まりました。
「魔道具を扱う者であり、記録する者であり、封じる者であると。欲に触れて歪む者たちとは違うのだと」
彼は、短く息を吐きました。「けれど、違いませんでした」
その声は、先ほどまでより低く聞こえました。
「知りたいという欲に触れた時、私は箱を開けた。器のない人間と同じでした」
私は、黙って彼を見ました。そこにあるのは、確かに後悔でした。
「ですが」
彼は顔を上げました。
「もし、それが許される方がいるのだとしたら」
私は、その先を聞きたくありませんでした。言葉は止まりません。
「すでに魔道具に認められたあなただけではないかと」
「エピメウス」
殿下の声が低く落ちました。
「言葉を慎め」
「慎んでおります」
エピメウスは答えました。
「私は、ただ、知りたいのです。あなたは、何を見たのですか」
私は息を止めました。
「女神の鏡は、あなたに何を映したのですか」
「何も。少なくとも、あなたが望むような答えは、何も」
エピメウスの表情が、わずかに揺れました。
「私は答えでも、手掛かりでもありません。ローヴェル家の娘で、王太子殿下の婚約者で、魔道具とはできるだけ距離を置いて生きたい人間です」
「……はい」
「女神の鏡が私を映したとしても、それを私そのものにしないでくださいませ」
エピメウスは黙りました。完全に納得した顔ではありませんでした。
そこで殿下が、私の横へ一歩進みました。私を隠すのではなく、隣に立つ位置です。それだけで、少し息がしやすくなりました。
エピメウスは、ぽつりと呟きました。
「やはり、わからない」
それは失望ではありませんでした。わからないまま、なお知りたいと願っている声でした。
エリオット殿下は私を馬車寄せまで送ってくださることになりました。
「今日はこのまま屋敷へ戻った方がいい」
「殿下。私はそこまで弱ってはおりません」
「分かっている。だが、弱っていない人間も休んだ方がいい時はある」
そう言われると、反論しづらいものがあります。
王宮の回廊を歩いていると、前方でメティア様がこちらに気づきました。
「ネレイス様。殿下」
メティア様は丁寧に礼をしました。
「メティア嬢。王宮に来ていたのか」
「はい。父の使いで、王宮記録室へ参っておりました」
「アステリア侯爵家も照合に入っているのか」
「一部だけですが」
メティア様はそう答えると、私を見て眉を下げました。
「ネレイス様。お疲れではありませんか」
「……ええ。少しだけ」
「では、あちらでお話ししませんか。人の通りも少ないですし、座れますわ」
殿下は私を見ました。
「休もう」
「はい」
私が座ると、殿下はすぐ隣ではなく、斜め前に立たれました。近すぎず、離れすぎず、他の者から私を隠すような位置です。今回は、その距離がありがたく感じられました。
「先ほど、聴聞室へ行かれたと聞きました」
メティア様が静かに言いました。
「ええ」
「顔色が、いつもよりお悪いように見えたので」
メティア様は、そこで言葉を迷いました。
「すみません。余計なことでしたら」
「余計ではありません」
私がそう答えると、メティア様はほっとしたように微笑みました。
「よかったです」
その声があまりに素直で、胸の力が抜けました。
「ありがとう、メティア様」
「いいえ。そう言っていただけて安心しました」
殿下は何もおっしゃいませんでした。
「メティア嬢」
「はい、殿下」
「アステリア侯爵家も、今回の照合に入っているのか」
「はい。父の指示で、記録室の文書照合を手伝っております」
アステリア侯爵家は、代々、王宮の記録と儀礼監察の一部を預かる家です。王太子妃教育の中でも、その名は何度も聞いていました。式典記録。宝物庫文書。王宮内の出入りや儀礼上の不備。表に出ることは少なくとも、王宮の秩序を保つために欠かせない家。
「今回も、記録の食い違いを?」
私が尋ねると、メティア様はうなずきました。
「はい。詳しい封印や魔導式までは魔導士の領分ですが、人や物の動き、文書同士の齟齬を追うのは、我が家の仕事でもあります」
「では、魔道具そのものというより、記録の流れから見ておられるのですね」
「ええ」
メティア様は静かに答えました。
「だからこそ、気づけることもございます」
殿下が尋ねられました。
「五点の照合について、何か追加で分かっていることは」
「五点のうち一点は、やはり記録が読めません。読めないというより、読ませないようにされているのだと思います」
「誰に」
「そこまでは、まだ」
まだ。その言葉が、たいへん嫌な響きを持って聞こえました。
その時、回廊の先に立っていた若い近衛騎士が、こちらへ歩いてきました。
目立つ方ではありません。けれど、こちらへ向かいながらも、廊下を行き交う人の動きや窓辺の影まで、自然に視界へ入れているように見えました。
「殿下」
騎士は一礼しました。
「アルギス。報告を」
殿下が促すと、騎士は落ち着いた声で答えました。
「東回廊の確認が終わりました。現在残っている不自然な落とし物はありません。針や指輪に類するものも見つかっておりません」
「人の動きは」
「警鐘の直後、予定外に東回廊を通った者が三名。持ち物の確認は、現在進めています」
「続けてくれ」
「承知しました」
そこでアルギス様は、メティア様へ視線を移しました。
「メティア。朝から記録室にいたんだろう。休んだか」
「少しだけ。アルギスこそ、東回廊をずっと確認していたのでしょう」
「慣れている」
「慣れている方ほど、無理をなさいます」
「それは君もだ」
「では、お互いにあとで休みましょう」
「ああ。約束する」
「私も約束します」
短いやり取りでしたが、互いをよく知っている方同士の親しさが見られました。
殿下が、ほんの少し私の方を見ました。私も、ほんの少し殿下を見ました。
アルギス様が、私へ向き直りました。
「ご挨拶が遅れました。レイヴァン辺境伯家次男、アルギス・レイヴァンと申します。現在は近衛騎士を務めております」
「ローヴェル公爵家のネレイスです」
私が礼を返すと、メティア様が少し恥ずかしそうに微笑みました。
「アルギスは、私の婚約者です」
「まあ」
「まだ内々に近い話ですので、大きくはお伝えしておりませんが」
「それは、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
メティア様は、恥ずかしそうにしながらも、まっすぐに受け止めました。
アルギス様も、深く礼をします。
「ありがとうございます」
殿下は、二人を見て穏やかにうなずかれました。
「レイヴァン辺境伯家の次男が、いずれアステリア侯爵家へ入ることになる。そう聞いている」
「はい」
メティア様が答えました。
「私は一人娘ですので。父も母も、アルギスが来てくださることをとても喜んでおります」
「私はまだ、何もしていない」
アルギス様が静かに言いました。
メティア様は、すぐに首を横に振りました。
「そんなことありません。もう十分、支えていただいています」
「君は、そういうことを人前でも言うな」
「本当のことですもの」
メティア様は不思議そうに首を傾げました。
アルギス様は一瞬だけ視線を逸らし、それから諦めたように笑いました。
「……ありがとう」
その声は、先ほどまで部下へ指示を出していた近衛騎士のものではありませんでした。
メティア様は嬉しそうに微笑みます。
殿下の声が、いつもの王太子殿下のものに戻りました。
「アルギス。引き続き確認を頼む」
「承知しました」
「メティア嬢。君も無理はしないように」
「ありがとうございます、殿下」
メティア様は丁寧に礼をしました。
それから、アルギス様とメティア様は私たちから少し離れ、東回廊の通行記録について小声で確認を始めていました。内容は仕事のはずです。けれど、とても自然でした。互いを信頼していることを、わざわざ言葉にしなくてもわかるような。
私は小さく息を吐きました。
「ネレイス」
殿下が静かに呼ばれました。
「はい」
「先ほどの二人を見て、どう思った」
「メティア様とアルギス様ですか」
「ああ」
私は考えました。
「婚約者同士というものは、互いをよく見ているのだと思いました」
殿下は黙りました。否定ではなく、続きを待つ沈黙でした。
「メティア様は、アルギス様がご自分を下げる言葉を許しませんでした。アルギス様は、メティア様が無理をなさっていないか見ておられました」
「そうだな」
「どちらも、相手を弱いものとして扱っているわけではないのですね」
殿下は、歩みを緩めました。
「君は、私が君を弱いものとして扱っていると思うか」
「いいえ。殿下は、私が弱いから守るのではないと思います」
「では、なぜだと思う」
「……婚約者だから、でしょうか」
殿下は私を見ました。
「そうだ」
短い返事でした。けれど、思ったより深く響きました。
「婚約者だから、守りたい。心配もする。君が大丈夫だと言っても、顔色が悪ければ気づきたい」
「それは、難しいです」
「難しい?」
「大丈夫ではないと認めるのは、なかなか難しいものです」
殿下は、そこで笑いました。
「わかる」
「殿下もですか」
「私も、王太子だから大丈夫だと言うことはある」
「それは、あまり信用してはいけない大丈夫ですね」
「君に言われるとは思わなかった」
殿下の声が、軽くなりました。私も、息がしやすくなりました。
「では、こうしませんか。どちらかが大丈夫だと言った時、相手が本当にそうは見えないと思ったら、一度だけ止める」
「一度だけ?」
「はい。一度は、素直に聞く努力をします」
「努力」
「実行すると言い切る自信は、まだありません」
「正直でよろしい」
「殿下もです」
「私もか」
「はい。殿下も、私が止めた時は一度だけ聞いてくださいませ」
殿下は黙り、それからうなずきました。
「分かった。約束しよう」
「約束です」
そう答えると、殿下の表情がさらにやわらぎました。
馬車寄せに着く前、殿下が足を止めました。
「ネレイス」
「はい」
「今回のことで、君が答えのように扱われたのは不快だったと思う」
私は一度、瞬きをしました。
「……はい」
「私も不快だった」
殿下の声は静かでした。怒りを押し殺した静けさではなく、慎重に言葉を選んでいる静けさです。
「君は謎ではない。鍵でもない。王宮の魔道具を理解するための道具でもない」
「はい」
「だが、鏡が君を映した以上、また誰かが君をそう見ようとするかもしれない」
「そうですね」
「その時は、私も止める。メティア嬢も、アルギスも力になってくれるだろう」
「はい」
「だから、一人で受け止めようとしないでほしい」
私は、すぐには答えられませんでした。一人で受け止めようとしていたつもりはありません。けれど、そう見えたのなら、きっとそういうところがあったのでしょう。
「努力します」
「また努力か」
「実行すると言い切る自信は、まだありませんので」
殿下は笑いました。
「では、私も努力する」
「殿下が?」
「君が一人で抱え込んでいると決めつけないように」
「ありがとうございます」
「ああ」
馬車寄せには、ローヴェル家の馬車が用意されていました。
殿下は扉の前で足を止め、私の手を取りました。いつものように、礼儀正しい所作です。けれど、今日は指先が離れるまでの時間が、いつもより長く感じられました。
「帰ったら休むように」
「はい」
「本当に」
「はい」
「一度だけ止める約束だ」
「今が一度目ですか」
「そうだ」
私は思わず笑ってしまいました。
「分かりました。休みます」
「よろしい」
婚約者というものは、思っていたよりも難しいものです。けれど、思っていたよりも悪くないものなのかもしれません。
冥王の小箱は再び封印されました。伝承の横には、新しい記録が加えられたと聞きました。
人の身にて開くべからず。見えぬ者は、己の器を知るのみ。
たいへん厳かな追記ですが、抑止力になるのかは疑問です。
エピメウスは、封印布管理室へ移されました。
白い布に封印式を縫い込み、古い銀糸を抜き、新しい糸を通し、染みや焦げを記録する。かつては魔道具を管理し、未解読記録を読み漁っていた手が、今は読まれないように布を重ねている。
知りたいと願った人が、知を封じるために働いている。
その夜も、私は自室の鏡の前に立ちました。
鏡には、いつも通りの私が映っています。
箱の中には希望が残る。その話が本当なら、今回残された希望とは、散った魔道具を一つずつ見つけ出せるかもしれない、という可能性なのでしょう。
私は鏡の前で、できるだけ見苦しくないように背筋を伸ばしました。
小箱は、何も答えてくれなかったわけではないのかもしれません。
開けてしまったものは、開ける前には戻りません。ならせめて、次に何かが開いた時には。
一人で覗き込まずに済むことを、希望と呼んでおきます。




