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海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第一部 Ⅴ欧州派兵工作編

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第八十話 値は指先にて

「冴子、こっちよ」


 声がした。奥の座敷だった。


 暖簾をくぐると、咲夜はすでに座っていた。

 茶が二つ並んでいる。冴子のぶんまで頼んであった。

「あら。もうついてたのね」

「大切なお客様を待たせるわけにはいきません」

 咲夜は立たなかった。笑わなかった。ただそう言った。


   *


「外務省の中国担当、ご存知ですか」


 咲夜は茶を置かずに言った。


「担当官のお名前まではご存知でない?」

「知らない」

「そうですか。ならまず概要だけ」

 咲夜は指を一本立てた。

「年末から休みなし。出勤は夜明け前、帰宅は深夜。先月は北京に十日」


 一息ついた。


「口癖は『間に合わん』だそうです。愛人がたいそう怒っておりましたよ」

「愛人から聞いたの」

「私の大切な情報網ですわ」


 冴子は黙った。


「詳しく聞きたければ、出勤時刻から出張先まで全部ございます。物証付きで」

 咲夜は指を二本立てた。

 冴子は一瞬だけ考えた。


「買う」

 封筒を出した。咲夜は受け取った。袂に入れた。薄い紙の束を差し出した。


「もう一つ」

 咲夜が続けた。

「中国向けに、大きな要求書を起草しているようです。そのメモ書きの写しがあります」

「写し」

「担当の方が自宅で作業していたものです。知人が書き写してまいりました」

「……その知人が」

「字は達者な方ではありませんが」


 咲夜は指を七本立てた。

 冴子は考えなかった。


「買う」


 もう一枚、封筒を出した。咲夜は受け取った。袂に入れた。厚い紙の束を差し出した。

 冴子は受け取った。厚かった。


 少し間があった。


「ねえ」と冴子は言った。「あなたもカラダを売ってるの」

「売っている意識はありませんわ」


 咲夜は茶を一口飲んだ。


「私を守ってくださる殿方の元に身を寄せてるだけ」

「物は考えようね」


 咲夜は冴子を見た。


「あなた、資金はどこで得てるの」

「幸い、良い家の生まれでお金には困りませんの」

「あなたの歳だと嫁入りしろとか言われませんの?」

「あなたまでやめて」


 冴子は言った。


「毎日のように言われてるわ。縁談は何度も失敗して」

「お父様が軍人ばかり連れてくるのが悪いのよ」

「あらあら」


 一拍あった。


「冴子、あなた嫁入りしたいとは思うの」

「……したいわ。本当に良い殿方なら」

「そう」


 咲夜は冴子を真っ直ぐに見た。


「ならこだわりを捨てなさい」


 一拍あった。


「コーヒーに角砂糖をたっぷり入れる殿方は嫌、と言っていたわね

「ええ、絶対にイヤ」

「その方があなたを一生守る存在かもしれませんのよ」


 咲夜は立ち上がった。


「こだわりや条件で足切りするとは、そういうことですのよ」

「……結婚なんて」


 冴子は言いかけた。続かなかった。


「あなたのような骨のある淑女を手なづけられる男など、そういないのですから」


 笑わなかった。扉を開けた。閉めた。


   *


 一人になった。


 厚い紙の束を広げた。墨の跡が不揃いだった。

 急いで写したのか。所々に欠落がある。読み飛ばした箇所は空白になっていた。


 読める部分を追った。


 山東省。旅順。大連。南満州鉄道。


 父の書斎で何度か耳にした地名だ。しかし次の頁で、知らない言葉が出てきた。


「政治顧問ノ採用ニ関スル件」

「警察ノ合同ニ関スル件」


 冴子は一度、紙から目を離した。


 窓の外に赤坂の冬の路地が見えた。人力車が一台、坂を下っていく。

 (……お父様が気にするのはこういうことか)

 意味は半分しかわからない。しかし不味いことだけはわかった。

 紙の束を畳んだ。懐に入れた。

 冷めた茶を一口飲んだ。


 (あの女、本当に面白い。あんな風に生きてみたいと少し思った)


   *


 その夜、冴子は眠れなかった。

 懐から出した紙の束を、寝室の机に隠した。本の間に挟み、その上に別の本を重ねた。それでも気になって、何度も起き上がって確かめた。

 階下で物音がした。父の書斎の扉が閉まる音だった。足音が遠ざかっていく。

 冴子は本の山をもう一度見つめた。


 (お父様の書斎にあるものと、私のここにあるものが、繋がっていたら——)


 考えが先に進まなかった。蝋燭を消した。

 窓の外で、犬が一度だけ吠えた。それきり、夜は静かだった。


   *


 翌日、東京駅。

 午前八時発の列車に、神林毅一郎(かんばやしきいちろう)は娘を伴っていた。


「青島(チンタオ)の祝勝会に、女連れで行く軍人もそういないだろうがな」毅一郎は座席に腰を下ろしながら言った。「お前が行きたいと言ったんだ」


「箱根の温泉に浸かれると思えば、祝勝会くらい我慢します」


 冴子は懐の感触を確かめた。厚い紙の束が、まだそこにある。


 国府津までの車窓は、見慣れた田畑の景色だった。冴子は窓に頭をもたせ、目を閉じる真似をした。実際は閉じていない。睫毛の隙間から、父の手元を見ていた。

 毅一郎は鞄から書類を取り出し、目を通していた。表紙には何も書かれていない。中身は見えない。父がこの一月、書斎にこもる時間が増えたことを、冴子は知っている。だが何を抱えているのかは、知らない。


「お父様」

「うん」

「お仕事、お忙しいの」

「いつものことだ」


 毅一郎は書類を閉じた。それだけだった。続きは語らなかった。


 (あなたが気にしているものと、私が懐に入れているものは——同じものかしら)


 冴子は窓の外に視線を戻した。富士山が、雲の合間に白く見えた。


  *


 車内販売が回ってきた。毅一郎は何も言わずに、栗饅頭を二つ買った。一つを冴子に渡す。


「お父様、覚えてらしたの」

「お前は子供の頃から、汽車に乗ると必ず栗のものをせがんだ」

「もうそんな歳ではありませんわ」

「歳は関係なかろう」


 毅一郎は饅頭を一口で頬張った。頬に粉がついた。冴子は黙ってそれを見ていた。指摘するのも野暮な気がした。

 饅頭は温かかった。懐の紙の束は、まだ冷たいままだった。


 国府津(こうづ)で乗り換えた。

 小田原電気鉄道の電車は、木造の車体を軋ませながら、酒匂の松林を抜けていった。窓から塩気を含んだ風が入る。

 湯本に着くと、その先に線路はなかった。山道を登る馬車だけが、宮之下まで人を運ぶ。


「歩いた方が早いんじゃないか」毅一郎が苦笑した。

「お父様、その歳で言うことではありませんわ」


 馭者が二頭の馬に鞭を入れた。馬車が揺れながら、坂を登り始めた。

 冴子は懐に手を当てた。山道の振動が、紙の束の存在を何度も確かめさせた。

 樅の木立の向こうに、湯気の立つ屋根が見えてきた。


「着いたぞ」


 馬車が止まった。

 富士屋ホテルの玄関に、灯りが点っていた。


 玄関を入ると、暖炉の匂いがした。薪が爆ぜる音と、誰かの笑い声が遠くから聞こえる。

 毅一郎はフロントに歩いていった。冴子はロビーで一人、コートを脱ぎながら辺りを見回した。


 軍人らしい男たちが、グラスを手に固まって立っている。青島の祝勝会を待つ顔だ。誰もが上気して、声が大きい。


「——だから言ったろう、要塞砲より野戦重砲の方が」

「いやいや、現場じゃそうはいかんのですよ閣下」


 誰かが笑った。誰かがグラスを掲げた。冴子には半分も理解できない話だったが、彼らが上機嫌であることだけは伝わってきた。


 その輪の少し外側に、見覚えのない外国人が一人いた。コートを着たまま、暖炉の前で煙草を吸っている。

 将官の一人が、軽く頭を下げながら声をかけた。「これはこれは、ヴォルコフ殿。本日はロシア大使館からも」

「お招きいただき、光栄です」外国人は流暢な日本語で答えた。「青島での日本軍の勝利、心よりお祝い申し上げます」


 冴子は聞こえないふりをして、すれ違った。

(ヴォルコフ……ロシア人か)


 冴子は足を止めなかった。男も視線を上げなかった。それだけだった。

 毅一郎が戻ってきた。「部屋の用意ができたそうだ」と言った。冴子は頷いた。

 懐の紙の束が、また少し重く感じられた。


 窓の外はもう暮れていた。山の稜線が、最後の明るさを残してすぐに消えた。

 部屋に案内される間も、冴子は何度かロビーを振り返った。外国人の姿は、もう見当たらなかった。

少しだけ解説を。


大正四年当時、東京から箱根・宮之下へ行くには、東京駅から国府津まで鉄道、そこから小田原電気鉄道の路面電車で湯本まで、そして湯本から宮之下は馬車という乗り換えが必要でした。箱根登山鉄道の開業は1919年、まだ存在していません。

冴子と毅一郎が踏んだ最後の山道は、当時の旅人にとって当たり前の不便さでした。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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