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海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第一章 帝都の亀裂編

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第六話 異端児たち

 豊後水道で三十六センチ砲の咆哮を聞いていた秋月慧と同様、真崎勇気もまた、己の足場が静かに崩れ始めていることに、まだ気づいていなかった。


 大正三年(一九一四年)六月半ば。


 帝都・東京の心臓部、三宅坂にそびえる帝国陸軍参謀本部は、深夜の静寂に包まれていた。石造りの巨大な建物の底、人目を避けた薄暗い地下廊下には、ひんやりとした湿り気と、長年蓄積された書類の黴臭い匂いがおりのように沈殿している。


 カツン、と乾いた軍靴の音が闇を叩く。


 資料室の片隅、電圧の揺らぎでジリジリと瞬く煤けた電球の下に、一人の男が立っていた。陸軍大学校を恩賜で卒業した「天保銭てんぽうせん組」のエリートでありながら、その冷徹すぎる合理性と英国仕込みの国際感覚ゆえに、組織内では一種の「便利な異端児」として扱われている。柏木丈二かしわぎじょうじ大尉である。


「……遅かったな、真崎」


 柏木は影の中から声だけを投げた。


「すまない。上官らの目を盗むのに手間取った。お前こそ、よく参謀本部の暗号室からこんな機密を抜けたな」

「こいつを抜くのには、流石に骨が折れたぞ」


 闇の中から姿を現した真崎勇気大尉が歩み寄ると、柏木は無造作に折り畳まれた数枚の紙束を差し出した。本来ならば焼却炉に放り込まれ、灰にされるべき海外電報の生写しであった。


 柏木は火のついていない煙草を指先で弄びながら、数時間前の出来事を脳裏に蘇らせていた。


   *


 深夜の参謀本部、暗号室。

 石造りの厚い壁は夜の冷気をたっぷりと吸い込み、気密性の高さゆえに、室内には特有の重苦しい空気が立ち込めている。


「よぉ、柏木。こんな夜更けに何の用だ。軍務局の坊ちゃんには縁のない場所だぞ」


 当直将校が欠伸を噛み殺しながら顔を上げた。陸大時代の同期である。


「急ぎの調べ物だ。神林局長が明日の予算折衝で欧州の最新データをお求めでな」


 柏木は神林少将の決裁印が押された「特命調査書」を提示した。エリート特有の尊大さと同期への砕けた態度を絶妙に配合した、完璧な芝居であった。


「ちっ、相変わらず人使いの荒い親父殿だな。必要な綴りはあそこの棚だ。勝手に見ていけ」


 同期が再び書類に目を落としたのを確認すると、柏木は目的の棚へと歩みを進めた。

 表向きは兵器調達に関する統計資料を開きながら、彼の視線は素早く、そして正確に、別の分厚いファイル――「欧州情勢・特秘電信綴」へと伸びた。

 カーボン複写紙の油分と、インク特有の酸気さんきが鼻を突く。

 柏木は綴りの脇に置かれた屑籠から、丸められた使用済みのカーボン紙を素早く拾い上げ、皺を伸ばした。

 白熱電球の光に透かす。

 タイプライターが打ち抜いた白抜けの文字が、反転した鏡文字となって浮かび上がった。

 英国留学時代、暗号解読の演習で散々慣れた読み方であった。


――サライェヴォ。皇太子の訪問予定。セルビア民族主義者の不穏な動向。異常なまでの警戒態勢。


 断片的な単語が、柏木の脳内でひとつの巨大な「破滅の絵図面」として組み上がっていく。


 カーボン紙を素早く折り畳み、軍服の内懐へと滑り込ませた、まさにその直後であった。


 カツン、カツン、チャリ……。


 背後の廊下から、鉄鋲てつびょうが石畳を叩く重い足音と、軍刀の金具が擦れ合う音が近づいてきた。


「……柏木大尉。こんな深夜に、他局の人間がここで何をしている」


 背中越しに掛けられた、氷のように冷たく威圧的な声。暗号室長・東島とうじま大佐である。

 柏木の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど跳ね上がった。軍服の背中を、一瞬にして熱い脂汗が流れ落ちる。


(バレたか……ッ)


 しかし柏木は一切の動揺を肉体の外に出さなかった。靴の踵を鳴らして完璧な角度で振り返り、淀みなく敬礼してみせた。


「はっ。神林軍務局長の特命により、欧州各国の兵站データを抽出しておりました」


 先ほど同期に見せた決裁書を、少しの震えもない手で提示する。

 東島は鋭い眼光で柏木を頭の先から足元までねめ回し、次いで決裁書の印章を確認した。沈黙が、永遠のように長く感じられた。


 やがて、東島の顔から険が抜けた。


「……なるほど。局長の特命とは、夜遅くまでご苦労だな。励め」

「はっ。お気遣い痛み入ります」


 ハブネイルの足音が廊下の奥へ完全に消え去るまで、柏木は微動だにしなかった。

 静寂が戻った瞬間、長く息を吐き出し、噴き出した冷や汗を手の甲で拭った。


   *


「――まあ、エリートの肩書きも使いようというわけだ」


 柏木はニヒルに笑い、薄暗い地下廊下で真崎にその紙束を押し付けた。


「真崎、罠だ」


 柏木は電報には目もくれず、先にそう切り出した。


「お前が国防方針会議で大がかりな上申を企てていること、郷田はとっくに知っている。泳がせて、会議の場で自爆させ、合法的に三宅坂から追放する腹積もりだ。ここで上申書を投げれば、確実に抹殺される」

「承知の上だ」


 真崎は即答した。

 柏木は短く息を吐き、しばらく沈黙した後、顎で紙束をしゃくった。


「……なら、それを読んでおけ。公式の週報には絶対に載らない、欧州の真実だ。世界がどこへ向かっているか、その目で確かめろ」


 真崎はカンテラの光を頼りに、電報の写しの文字を追った。

 バルカン半島の小都市サライェヴォ周辺における、セルビア民族主義者たちの不穏な動向。オーストリア当局の過敏なまでの警戒態勢。そして六月二十八日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントのサライェヴォ訪問予定――。


 読み進めるうちに、真崎の手が、微かに震えた。


 余談だが、当時の列強は互いの首に「同盟」という名の鉄の鎖を巻き付け合っていた。ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」に対し、英仏露の「三国協商」。どこか一国が攻撃されれば自動的に全陣営が参戦せざるを得ない「自動報復のからくり」であった。さらにバルカン半島では、ロシアが後押しする「汎スラブ主義」と、オーストリアが掲げる「汎ゲルマン主義」が真っ向から衝突していた。「はん」とは、ギリシャ語で「すべて」を意味する接頭語『Pan』に当てた漢字である。だが当時の帝国主義列強にとって、この言葉は剥き出しの領土的野心を包み隠すための、都合のよい包装紙に過ぎなかった。後年に「ベル・エポック(古き良き時代)」と回顧されるこの爛熟らんじゅくした繁栄の底で、緻密にして巨大な時限爆弾の秒針が、不気味に刻まれ続けていたのである。


「……柏木。お前、なぜ俺にこれを渡す」


 柏木はしばらく沈黙した。


「さあな。ただ……」


 火のついていない煙草を、指の間でくるりと回す。


「目指す方向が同じ気がしているだけだ」

「俺を動かそうとしているのか」

「お前は動かされるような男じゃない」


 真崎は柏木の横顔を見た。


「柏木。お前、この電報の話だけじゃなく、何か知っているな」

「よせ」


 柏木は短く、しかし明確に遮った。


「今夜はその話じゃない」


 真崎は電報の写しを懐にねじ込み、暗闇の中の友を見据えた。


「……たとえ罠であろうと、俺はこの火中の栗を拾う」


 その言葉には、青白い炎のような熱情と、悲壮な覚悟が宿っていた。


   *


 自室に戻った真崎は、灯火を最小限に絞り、机に向かった。

 広げられたのは、幾度も書き直し、推敲を重ねてきた『上申書』である。

 そこには「白兵主義の即時廃棄」「野砲・機関銃の圧倒的な増強」「工業力を基盤とした兵站網の再構築」――現在の陸軍の精神的柱を根底から否定する、文字通りの「異端の書」が記されていた。


 これを提出すれば、もはや左遷どころでは済まない。軍籍を剥奪され、社会的に抹殺される可能性すらある。


 だが、真崎のペンは止まらなかった。

 大磯で村田経芳が説いた弾道の真理。そして、乃木希典が血を吐く思いで遺した隠し遺書。それらすべての声に、今夜の電報が、巨大な現実の重さを与えた。


(世界が変わってしまう前に、この眠れる獅子を物理的に叩き起こさねばならない。たとえ、その獅子に噛み殺されることになろうとも――)


 窓の外、東の空が白み始めていた。

 三宅坂の森を抜ける朝風はまだ冷たいが、それは確実に、鉄と硝煙の時代の匂いを運んできていた。


 真崎勇気は、完成した上申書の末尾に、強く、深く、自らの署名を記した。

 夜明けの光が、決意を固めた若き将校の横顔を、冷徹に、白く照らし出していた。


   *


 翌朝。

 暗号室長・東島大佐は、執務室の電話を取り上げ、軍務局長・神林毅一郎かんばやしきいちろう少将の直通番号を静かに回した。


 その会話の内容は、どこにも記録されなかった。


本日もお読みいただき、ありがとうございます。

明日も同じく3回(07:00/12:00/19:40)更新予定です。

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