↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第一部 Ⅴ欧州派兵工作編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

111/119

第百十話 三十六隻

 真崎は、愛玲の手紙を畳んで護身符の隣に入れた。

 同じ懐に入れて、悪い理屈はなかった。


 大磯(おおいそ)で汽車を降りた。


 東小磯の家は、一年前と何も変わっていなかった。庭に黒松が三本。根元に、羽根が散っている。使用人らしき老爺が、朝の獲物を拾って勝手口へ消えていくところだった。


 村田経芳(むらたつねよし)は、縁側で猟銃の脱包を確かめていた。七十七になっている。


「船が出ます」

「聞いた」村田は銃架に銃を置いた。「三十六隻じゃそうだな」

「はい」

「少ない」


 真崎は、返す言葉を持たなかった。

 少ない、と言われて、初めてそうかもしれないと思った。


「少ないが、無いよりはいい」村田は縁側に腰を下ろした。「無いところから三十六まで持っていったのは、貴様か」

「――多くの方の手が」

「そういう答え方をするようになったか」


 村田は笑わなかった。褒めたのか、貶(けな)したのか、真崎には分からなかった。


「一つ、ご報告がございます」真崎は言った。「乃木大将の書き付けを、手放しました」

 村田の指が、縁側の板を一度叩いた。


「誰に」

「山縣閣下です」


 庭で、風が松を鳴らした。

 村田は、しばらく相模湾の方を見ていた。この老人が黙る時は長い、ということを、真崎は一年前に覚えていた。


「山縣か」村田は言った。「……焼かれはせん」

「なぜ、そう言えます」

「あれは、捨てられん男じゃ」村田は言った。「捨てられんから、棚の奥にしまう。三年でも、三十年でもしまっておく。……そういう男が、この国の上には多すぎる」


 村田は、そこで初めて真崎の顔を見た。

「取り返そうと思うな。取り返しても、貴様には棚が無い」

「――は」

「棚を持て、と言うておる」


 真崎は、その言葉の意味を、その場では受け取れなかった。受け取れないまま、記憶した。


 村田は立ち上がり、家の中へ入っていった。戻ってきた時、手ぶらだった。


「あの拳銃は」

「持っております」

「持っていけ」村田は言った。「返しはせん。あれは貴様が買うたものじゃ。……わしは、人の物を貰う齢(よわい)ではない」


 おいとましようとすると、村田は縁側から声をかけた。


「撃ったばかりのがある」

「は」

「椋鳥(むくどり)じゃ。食っていけ」

「――汽車が」

「一羽くらい、すぐ焼ける」


 真崎は、椋鳥を一羽食べてから、汽車に乗った。

 一年前もそうだった。この老人は、乃木大将の遺書を前にしても、朝飯の心配をする。


   *


 広島の呉(くれ)には、翌々日に着いた。

 地中海へ発つまでに、あと数日あった。


 港の裏手の坂を登る。長屋のような家が肩を寄せて並んでいる一角に、真崎の家はあった。屋根が低く、間口が狭い。工廠に人を吐き出すためだけに建った町である。

 冴子は、その道を、着物の裾を持ち上げもせずに登ってきた。持ち上げれば楽だということに気づいていないのか、気づいていて持ち上げないのか、真崎には判断がつかなかった。


 母のヨシは、土間に立っていた。


「大きゅうなったのう」

「二十年前から、この背です」

「そうかいの」


 母は、それから冴子を見た。長く見た。

 冴子は三つ指をついて、名乗り、頭を下げた。所作は完璧だった。自宅でだらんとしている女と、同じ人間の動きとは思えなかった。


「ようおいでんさった」母は言った。「なんもありませんが」


 その日は、それだけだった。


   *


 兄の常吉(つねきち)が、夕方に帰ってきた。


 呉海軍工廠に勤めている。手が、洗っても落ちない色をしていた。

 弟が陸軍で少佐になり、中将の娘を連れてきたことについて、兄は何も言わなかった。飯を食い、酒を一合だけ飲み、明日も朝が早い、と言って寝た。


 この家には、継ぐものが何も無かった。

 子は六人いる。上から順に奉公へ出て、学校へ行ったのは真崎だけだった。母は昔から宇品(うじな)の港で働いている。広島の海の玄関口である。父がいた頃から働いていて、いなくなった後も、同じ岸壁で同じ荷を担いだ。

 兄はそのまま工廠に残り、母と暮らしている。下に妹のスエが一人いて、嫁に行った。


 残った方の手が、船を造っている。出た方の弟が、その船を海の向こうへ出す紙を書いた。


 真崎は、そのことを兄に言わなかった。言っても、たぶん「そうか」で終わる。


   *


 仏壇は、居間の隅にあった。


 位牌は一つだけである。明治三十七年八月。父は、旅順で死んだ。


 後方の守備の召集だった。四十を過ぎていた。宇品から発つ朝、真崎は岸壁で見送っている。父は最後に一度だけ振り返った。あの目を、真崎はまだ覚えている。

 第一回の総攻撃である。永久堡塁と機関銃の前へ、歩兵が走らされた。銃剣を付けて、走った。走らせた者がいて、走った者が死んだ。父はその中にいた。


 報せは、士官学校の教室に届いた。

 真崎は二十三で、内地にいた。安全な机の前で、名を読み上げられるのを聞いた。


 その三月後に、二〇三高地が始まる。

 郷田中佐が小松と堀内を失ったのは、そちらである。同じ囲みの、違う場所だった。


 真崎は線香を上げて、しばらく座っていた。


 一年前、三宅坂の地下で、旅順の弾薬消費の帳簿を繰った。数字が合わなかった。合わない数字の裏から、乃木大将の字が出てきた。

 あの夜、最初に思ったのは、父のことだった。


 この一年、自分が三宅坂で言い続けてきたことは、全部この位牌の前で言えることばかりだった。機関銃の前で走るな。弾を惜しむな。兵の命を数えろ。

 言い続けて、上官に楯突いて、上海へやられて、帰ってきて、船を三十六隻出させた。


 それでも、その三十六隻には兵が乗る。

 乗せるのは、自分である。


 真崎は、位牌に向かって何も報告しなかった。

 報告できることが、まだ一つも無かった。


   *


 冴子は、台所に立った。


 母が止めたが、立った。

 竈(かまど)の火が起きなかった。二度、失敗した。


 三度目に、母が横から手を出した。


「こうやるんじゃ」


 細い焚きつけを下に、太いのを後から載せる。真ん中に、指が一本通るほどの隙間を空けて組む。手が、説明より先に動いていた。

「風が通らんと、火は起きん。詰めすぎるんじゃ、みんな」

「……はい」

「もう一遍、やってみんさい」


 四度目に、火が起きた。

 起きた時、冴子は本気で嬉しそうな顔をした。それから、その顔を引っ込めた。引っ込めるのが、少し遅かった。


 母は、それを見て何も言わなかった。黙って、隣で大根を切り始めた。


 夜、真崎が井戸端で顔を洗っていると、母が出てきた。


「あんた」

「はい」

「あの人を、一人にしんさんな」


 真崎は、手を止めた。

「留守のあいだは、東京におります。神林の家に」

「そういうことを言うとるんじゃないわ」


 母は、それだけ言って引っ込んだ。


 真崎は、井戸の水をもう一度すくった。冷たかった。

 この家の水は、昔から硬い。満州の井戸の水が硬い、と書いてきた人がいた。同じ硬さだろうかと、真崎は関係のないことを考えた。


 翌朝、冴子は東京へ帰ることになっていた。


 広島の駅である。上りの汽車と、宇品行きの支線は、同じ駅から出て、反対の方へ行く。


 冴子は、包みを差し出した。

 真崎が受け取ると、思ったより軽かった。


「開けても」

「どうぞ」


 封筒の束だった。

 厚みは、指二本ほどある。数えなかったが、五十は下らないだろうと思った。


 どれも、表に宛名が書いてある。同じ字で、同じ丁寧さで、東京市赤坂区――真崎冴子(まさきさえこ)、と。


 中は、空だった。全部、空だった。


 真崎は、その束をしばらく見ていた。

 自分の姓を、この人の字で見るのは初めてだった。それが五十枚あった。


「――これは」

「宛名を書くのは、面倒ですのよ」冴子は言った。「船の上では、なおのことでしょう」


 それだけだった。書け、とは言わなかった。待っている、とも言わなかった。

 ただ、宛名を五十枚書いて、持ってきた。


 真崎は、束を内ポケットに入れた。護身符と、満州から来た二枚の隣だった。

 入れてしまってから、その並びのことを一瞬考えた。考えて、やめた。


「私からも、一つ」


 真崎は、外套の内から折った紙を出した。宿で、昨夜のうちに書いたものである。

 原本は陸軍省の棚の奥にあり、写しは小田原の棚の奥にある。どちらも、もう自分の手には戻らない。だから、覚えている分だけを書いた。書けたのは、六行だった。


 冴子は、その紙を広げた。ホームの朝の光の下だった。


 ――徒(いたずら)ニ兵ノ命ヲ散ラシタル己ノ無能ヲ、死ヲ以テ謝ス。


 冴子の指が、その一行の上で止まった。


「……これ」

「乃木大将の字です」真崎は言った。「私が覚えている分だけですが」


 冴子は顔を上げなかった。

「持っていて構いませんの」

「私が持っていると、また誰かに渡すことになります」


 冴子は、紙を畳んだ。畳んで、袂に入れた。

 入れてから、袂の上を一度、手で押さえた。


 この人が袂に手を入れるところを、真崎は何度か見ていた。いつも、何も持っていない手が出てきた。

 今朝は、出てこなかった。


「では」冴子は言った。「行ってらっしゃいませ」

「はい」


「――四年ですって?」

「辞令には、そう書いてあります」真崎は言った。「ですが、田中局長は別のことを言われました。一年で目処をつける。延びても、もう一年だと」


 冴子は、顔を上げた。


「紙には、なりませんの」

「なりません」真崎は言った。「紙にすると、四年が四年のまま動かんようになるそうです」


 冴子は、少し黙った。


「では、口約束ですわね」

「はい」真崎は言った。「ですが、あの人は、できないことを言わない人です」


 真崎は、そこで一つ足した。足すべきだと、遅れて気づいたからである。

「一年で、帰ります」


「……それでも、紙は四年ですわ」冴子は言った。「四年になったら、わたくし三十三ですのよ。いま二十九。……恐ろしい」

「そうですか」


 冴子が、真崎の腕を軽く叩いた。強くはなかった。手の甲が一度当たっただけである。


「そうですか、とお答えになる方は初めてですわ」

「――すまん。すまん」


 二度言ってから、真崎は、自分が敬語を忘れていることに気づいた。

 冴子は、気づいたことに気づいたようだった。何も言わなかった。


 上りの汽笛が鳴った。


 冴子は帽子のつばに指をかけて、頭を下げた。

 それから、振り返らずに改札の方へ歩いていった。人混みに紛れるまで、一度も振り返らなかった。


 真崎は、その方向をしばらく見ていた。

 反対側の番線に、宇品行きが入ってきていた。


 宇品の港は、三月の下旬でもまだ冷えた。


 陸軍運輸部の桟橋に、船が並んでいた。

 真崎は、埠頭の端から数えた。数えなくても分かっていたが、数えた。


 三十六隻。


 青島(チンタオ)で十二隻が毎月一個師団分を揚げ続けた実績。地中海は一往復に三月、青島のちょうど三倍。ゆえに三倍の三十六。

 三宅坂の地下で帳簿を繰りながら弾いた数字が、いま、目の前で浮いている。鉄で、木で、煙を吐いて、浮いている。


 紙は、こうなるのか、と真崎は思った。


 一年前、あの地下書庫には十年間誰も来なかった。貸出記録の欄は、ずっと空白だった。そこから一枚剥がした紙が、いま、瀬戸内の海に三十六隻分の影を落としている。


 乗船は、朝から続いていた。


 兵が縦列でタラップを上っていく。背嚢。小銃。飯盒。工兵の中隊は、井戸を掘る道具を積んでいた。

 真崎は積荷の控えを受け取り、埠頭の風の中で目を通した。


 控えは、合っていた。

 合っていたが、末尾に一行あった。


 ――軍需品、五十箱。


 品名がない。積地は上海。荷主の欄は、商社の名が一つ書いてあるだけだった。


「これは」

 真崎は運輸部の下士官に聞いた。下士官は控えを覗き込み、それから首を傾げた。


「上から回ってきた分であります」

「上、というのは」

「自分には、そこまでは」


 真崎は、その一行をもう一度見た。

 五十箱。行き先は書いてある。地中海である。中身が書いていない。


 この一年、行き先の書かれていない金額を見た。行き先の書かれていない木箱の話も聞いた。今度は、行き先だけがあって、中身がない。


 真崎は控えを返した。返す時、指が少し止まった。


 止めても、船は出る。今から止めれば、止めたのは自分だということになる。

 その計算が終わるまでに、三つ数えなかった。


 小田原の庭で、同じ速さで黙ることを決めた夜のことを、真崎は思い出した。

 あの時と違ったのは、背筋が寒くならなかったことだった。慣れたのだ、と思った。


 出航は、正午だった。


 汽笛が鳴った。一隻が鳴らすと、次が鳴った。三十六隻が順に鳴らし終えるまで、しばらくかかった。


 真崎は甲板に立っていた。

 懐に手を当てる。護身符。満州から来た二枚。空の封筒が五十枚。

 一月前、この懐には何も無かった。乃木の字を手放して、空になった懐が頼りなかったことを、真崎は覚えている。


 いまは、重い。中身のあるものは、一つも入っていないのに、重い。


 岸が離れた。

 宇品の桟橋に、見送りの人影が並んでいる。誰が誰だか、もう分からない距離だった。田中は来なかった。来られる立場ではない。三月二十五日に総選挙があり、五月に議会が開く。あの人は、東京でそれを一人で持ちこたえることになっている。


 承諾が取れなければ、内閣は倒れる。倒れれば、この船の兵の、次の飯と次の弾を払う根拠が消える。

 片道の切符である。若槻礼次郎は、そう言った。脅しではない、とも言った。


 真崎は、岸に背を向けた。


 瀬戸内を抜けるまで、島がいくつも過ぎていった。


 夕方、船倉の点検に降りた。

 積荷は、控えの通りに並んでいた。番号順に、隙間なく。


 一番奥に、木箱が積んであった。

 五十。数えるまでもなかった。


 どれも、同じ大きさだった。焼印は無い。品名も無い。上海の湿気を吸った木の匂いだけが、そこにあった。


 真崎は、その前にしばらく立っていた。


 手を触れれば、分かるかもしれなかった。重さで、中身の見当はつく。

 触れなかった。


 ――本番は、船が海に出た後よ。


 誰の声だったのか、真崎は知らない。

 知らないまま、船倉の梯子を上がった。


 甲板に出ると、日が沈むところだった。


 陸は、もう細い線になっていた。

 三十六隻が、順に一列へ入っていく。前の船の航跡を、次の船が踏んでいく。踏まれた跡は、すぐに消えた。


 真崎は西を見た。

 この先に、地中海がある。四十日。それから、一年。あるいは四年。


 懐の中で、五十枚の空の封筒が、風に押されて紙の音を立てた。


 書くことは、まだ何も無かった。



――第一部 軍神の遺書 完





















第一部「軍神の遺書」、これにて完結です。


110話までお読みいただき、ありがとうございます。

もし1話から通しでお読みくださった方がいらっしゃるなら……本当に、本当にありがとうございます。


日本陸海軍は、いよいよ欧州大戦の現地へ向かうことになります。

ここから先は、史実と大きく変わってきます。


第一部はおおよそ謀略七、戦闘三の配分だったかと思いますが、第二部では戦闘の比重が増していく見込みです。


この物語は四部構成で考えており、昭和十六年(1941年)十二月八日を目指して進み続けます。

作中の現在は大正四年の春ですから、あと二十六年。

そこへたどり着くまでの長い道のりに、どうかお付き合いいただけますと幸いです。


※第二部は、少し時間をおきまして1~2週間後くらいから投稿開始します。


ページ下部の【ブックマークに追加】や、【評価(★)】を入れていただけますと、今後の執筆においてこれ以上ない励みとなります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。