↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第一部 Ⅴ欧州派兵工作編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

104/118

第百三話 風の出所 

 軍務局長室外の窓際に、真崎は立っていた。


 手にしているのは、宮本の陳情書である。もう三度読み返した。恩給の等級はまだ決まらず、書類は行き場のないまま真崎の机に留め置かれている。

 部屋の奥、書きかけの起案書を三段に積んだ机の向こうで、田中が万年筆を走らせていた。紙の隙間に、湯呑みが一つ据わっている。局長室にいるのは、その二人だけだった。


 田中に「大人しゅうしとけ」と言われてから、日が変わっていた。

 何をもって「しばらく」とするのか、見当はつかなかった。

 懐には、護身符だけがあった。乃木の遺書の重みは、まだ戻ってこない。


 壁際の暖房が、ときおり小さく蒸気を吐いた。窓は結露で白く曇り、その向こうに、三宅坂の曇天がぼんやりと透けている。


 廊下の奥から郷田中佐が早歩きで迫ってきた。何か書類を持っている。

 郷田扉は、真崎には目もくれず、局長室にノックもなしに入っていた。封の切り口が、几帳面な性分に似合わず斜めに裂けていた。急いで開けた跡だった。

「田中閣下」

 田中は万年筆を置き、湯呑みを脇へ寄せた。「なんじゃ」

「霞が関から、これが」郷田は紙を机に置いた。「内密にとの断り書き付きです。……いや、懇願と言うべきかもしれません」


 田中は、それを取り上げて読んだ。目の動きが、途中で止まった。そして、ふっと鼻で笑った。

「――外務省からか」

「はい」郷田は頷いた。「イギリス大使より、欧州戦線への『一個師団』派遣の正式な要請があったとのこと。外務省としては、外交上、是が非でもこの要請に応じたい。ついては陸軍省に至急、派兵の検討と準備をお願いしたい……そういう照会です。あの傲慢な加藤外相からの、事実上の白旗です」


 真崎は、陳情書を読む手を止めた。窓際から、机の上の一枚へ目を落とす。

 絶対の壁だったはずの内閣が、自ら扉を開けて頭を下げてきたのだ。


「この数字を知る者が」郷田は続けた。「この部屋の外におります。閣下」

 そそくさと局長室から出て行き、郷田は、窓際の真崎に向き直った。

「真崎、ちょっと中に入れ」その目は、問い詰めるというより、暗がりの底を覗き込むような色を帯びていた。


「真崎。貴様、裏で何を動かした」郷田の声が、微かに震えていた。「外相が提出の直前に第五号を引っ込めた。間髪入れずに、イギリスから一個師団の要請が来た。……順番が良すぎる」


 真崎は、目を逸らさなかった。

 答えられなかったのは、隠していたからではない。自分の描いた絵図が、いつの間にか、はるかに巨大で容赦ない慣性力になっていたからだった。ロンドンの秋月。上海の老人。そして、名も知らぬ誰か。同じ側にいるはずの手が、自分の頭越しに盤を組み替え、もう誰にも止められない慣性で回りはじめている。

 その感触に、真崎自身が追いついていなかった。言葉にできるものが、何もなかった。


「都合がいいなんてもんじゃない」郷田は口の端を歪めた。「誰かが、国家の外交ごと、丸ごとひっくり返した」

「郷田中佐。私は、目の前にある仕事をこなしていっただけです」

「そうだろうな」郷田は言った。「貴様はいつも、仕事を淡々としているだけだ。それでいて、最後はなぜか貴様の読み通りに世の中が動く」


 郷田は、そこで口を閉じた。

 覗こうとした穴の底が、己の想像を絶する深さだと悟った顔だった。これ以上踏み込めば、自分も呑まれる。老練な軍人の直感が、そう告げていた。


 田中は、湯呑みの縁を指先でなぞっていた。しばらく、誰も口を開かなかった。

「郷田」田中が、ようやく言った。「お前の言うことは、正しい」


 郷田は、口を閉じたままだった。だが目までは伏せなかった。

「一個師団も、三十六隻も、この部屋で拵えた数字じゃ」田中は続けた。「お前も、ソロバンを弾いた側やろう」

 郷田は、それには答えなかった。答えないことが、答えだった。

「じゃがな」田中は続けた。「余計なことを今言うと、この話は死ぬ」


 田中は、照会の紙を持ち上げた。

「加藤が折れた。これで、陸軍省の一存ではのうなった。外務省からの要請として、正々堂々と閣議に出せる。これ以上の大義名分はない。……大義なんてものは、いつだって血生臭いもんじゃ」

 田中は、万年筆を取った。

「外務省への返答は、こう書け。イギリスおよび外務省からの正式な要請であるならば、陸軍省として直ちに検討に入る。それだけじゃ」


「陸軍省として、ですか」郷田が言った。「大臣のお名前で、よろしいのですか」

「大臣には、わしから話す。今日中じゃ」田中は言った。「岡閣下は、もともと欧州派兵に乗り気じゃった。確認すれば、証跡になる。否定すれば、嘘になる。どっちも要らん」


 郷田は、それ以上何も言わなかった。紙を受け取り、一礼して、逃げるように部屋を出て行った。真崎の背後にある闇を、もう覗こうとはしなかった。


 田中は、真崎を見た。

「真崎」

「はい」

「お前は、まだ動くな」田中は言った。「今度こそ、本当に何もするな。よいな」

 真崎は、頭を下げた。答えは、持っていなかった。


   *


 同日。はるか南の地、上海の仏租界。

 霞飛路(ジョッフル)の奥にある高杉の拠点で、黒石が電文の束を繰っていた。帝都の柏木から、届いたばかりのものだった。


「――外相が第五号を削除。直後に、イギリス大使から一個師団の派兵要請、とのことです」黒石が、低い声で読み上げた。「霞が関も三宅坂も、ひっくり返りました。高杉先生の、読み通りです」


 ソファに深く腰掛けていた高杉が、微かに喉を鳴らした。

「ロンドンの秋月も、帝都の柏木も、よく働いた」高杉は、煙管を灰皿に軽く叩きつけた。「真崎の引いた不格好な絵図も、使い道次第で極上の爆薬になるというわけじゃ」


「ようやっと……」高杉は、窓の外の淀んだ空を見上げた。「ようやっと、盤面を整えることができたようじゃな」

 その目に、勝ち誇るような色はなかった。長く病んだ体で、一つずつ石を積んできた男の顔だった。積み上げたものが崩れる前に、次を積まねばならない。それだけを考えている顔だった。


「これから、いかがなされますか」

「まだじゃ」高杉は煙管に新たな葉を詰めた。「加藤が納得したところで、まだ終わらん。本番は、船が海に出た後よ。……欧州の海は、深いぞ」


 高杉の口角が、不敵に吊り上がった。上海の路地裏から吹き込む生暖かい風が、男の白髪を揺らしていた。


   *


 同じ屋根の下、一階の配膳室では、郵便の仕分けが終わりかけていた。


 東京からの船便が、午後に届いたばかりだった。アゥロラは卓の上に封筒を並べ、行き先ごとに三つの束に分けていく。上海に留め置くもの。北京へ回すもの。そして、満州へ転送するもの。

 三つ目の束は、いつも薄い。今日は、一通だけだった。


「ディアナ」アゥロラは、その一通を指でつまんで持ち上げた。「これ、ユウキ様から」

「見れば分かります」


 ディアナは振り返らなかった。棚の白布を、角を揃えて重ねている。

「宛名、愛玲さんだよ」

「知っています」

「ご自分で書いてる。代筆じゃなくて」アゥロラは封筒を灯りにかざした。「ねえ、これ、恋文かな」


 白布を重ねる手が、止まった。

「私信を、詮索するものではありません」

「詮索してないよ。見てるだけ」アゥロラは頬を膨らませ、それからにやりとした。「だってあの二人、いい感じだったでしょう。ユウキ様がここにいた頃。愛玲さん、ユウキ様の話をする時だけ、声が半音上がるもの」

「……半音」

「半音」アゥロラは頷いた。「私、拳の構えを教えてもらった時に気づいたの。肘が外に開いてるって叱られてる最中に、ユウキ様が入ってきて。そうしたら急に、優しくなった」


 ディアナは答えなかった。だが白布を重ねる手が、また動きはじめた時、その速さが少し変わっていた。


「……早く着くとよいですね」

 ディアナは、それだけ言った。アゥロラの手から封筒を受け取ると、転送先の宛名を、自分の字で丁寧に書き添えた。急ぎでもないのに、一画ずつ、時間をかけて書いた。


 顔を見た瞬間に断られ続けた二人が、今は、人の私信を預かる手をしている。

 アゥロラは、その手元を黙って見ていた。それから、思い出したように付け足した。

「返事、来るかなあ」

「来ます」ディアナは筆を置いた。「あの方は、そういう方です」


 配膳室の窓の外も、やはり星はなかった。だが灯りの中の卓の上だけは、少し暖かかった。


今回、真崎の机に残っていた陳情書について、少しだけ解説を。


当時、傷病により退役した軍人への給付は、階級と在職年数、そして傷病の等級によって額が決まりました。等級の判定は書類の上で行われ、その傷が公務によるものと認められるかどうかで、その後の暮らしが変わります。判定が下りるまでに長く待たされることも珍しくなく、その間、本人と家族には収入がありません。戦が終わったあとも、書類の上では戦が続いている。真崎の机にいつまでも留め置かれた一枚は、そういう時間の重さを表しています。


最後までお読みいただきありがとうございます。

ページ下部の【ブックマークに追加】や、【評価(★)】を入れていただけますと、今後の執筆においてこれ以上ない励みとなります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。