第九話 祭りの夜と、ずれた鉢植え
秋祭りの朝は、太鼓の音で目が覚めた。
窓を開けると、通りはもう人でいっぱいだった。旗が揺れている。提灯が昼間から灯されていて、屋台の煙があちこちから上がっている。肉の焼けるいい香り。揚げ菓子の甘い匂い。
棚の布巾を整えて、水差しの位置を確認して、靴を揃えて外に出た。玄関脇に置いている陶器の鉢植えを指先で触った。いつもの位置。壁から十二センチ、扉の端から八センチ。昨日と同じ。
祭りに出かけるのは初めてだった。こちらに来てから、人の多い場所には近づかないようにしていた。でも今日はなんとなく、行ってみようと思った。
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通りに出ると、人の波に巻き込まれた。
青果のおばさんが売り台の前で叩き売りしている。カティさんが仕立てた祭り衣装を着た子供たちが走り回っている。雑貨屋のおかみさんが飾りの最終確認をしていて、わたしを見つけて手を振った。
「ミーナちゃん、準備ありがとね! おかげで今年はスムーズよ!」
手を振り返した。
揚げ菓子を一つ買って食べた。熱くて甘くてさくさくしている。歩きながら食べるのは行儀が悪いかもしれないが、祭りだからいいだろう。
屋台が通りの両側に並んでいて、いつもの石畳が見えないほど人が出ている。焼き栗の屋台。蜂蜜酒の屋台。革細工を売っている老人。子供向けの的当てで、小さな男の子が槍の模型を投げている。的に当たらない。三回投げて全部外した。店主が苦笑いしながら参加賞の飴を渡していた。
パン屋の店主が屋台で祭り限定のパンを売っていた。中に干し果物が入っている。一つ買った。温かくて、果物の甘酸っぱい香りがする。
前にいた場所にも祭りがあったかどうか、思い出せない。あったとしても、行かなかったと思う。人の多い場所に行く気力がなかった。帰ったら部屋が散らかっているから、出かけること自体が億劫だった。
今は違う。帰れば部屋は片付いていて整っている。だから安心して出かけられる。帰る場所があるというのは、こういうことだ。
広場のほうに行くと、太鼓と笛の演奏が聞こえた。人垣ができている。背伸びしても見えない。
「ミーナ殿」
横から声がした。ヴォルフさんだった。警備の腕章をつけている。
「こんにちは。お仕事中ですか」
「休憩に入った。ニクラスは向こうの門にいる」
ニクラスさんも祭りの記録係として城から出ているらしい。双子が別々の持ち場にいるのはいつものことなのだろう。
わっと歓声が上がる。その方向も人の海で見えなかった。
「見えるか」
「見えません」
ヴォルフさんが半歩横にずれた。背が高いから、ある意味衝立みたいになってるみたいだった。彼の肩越しに覗くと舞台が見えた。子供たちが揃いの衣装で踊っている。揃いの衣装だが、足の運びはばらばらだ。揃いすぎていないほうが楽しい。
拍手をした。ヴォルフさんは拍手しなかったが、口元が少し緩んでいた。
「串焼き食べますか」
「休憩中だ」
「休憩中だから食べられるのでは」
ヴォルフさんが少し考えて、「一本だけ」と言った。三本買って、一本ずつ食べた。ヴォルフさんは三口で食べ終わった。速い。
「ひとつ、お使いを頼まれてくれるだろうか」
ヴォルフさんはわたしに言付けをして仕事に戻ったので、門の方へと向かう。ヴォルフさんの言葉通り、帳面を抱えて、ニクラスさんが祭りの出入りを記録している姿が見えた。
「ニクラスさん、お疲れさまです」
「……ミーナ殿も」
祭りを楽しんでいますか、と聞こうとして、ニクラスさんの顔が仕事中の顔だったのでやめた。仕事だからここにいるのだ。うっかりした口を引き締め直した。
ニクラスさんが串焼きの包み紙を差し出した。
「ヴォルフさんからです。門番は持ち場を離れられないので、届けてくれと頼まれました」
「わざわざすみません。ありがとうございます」
ニクラスさんが串焼きを受け取って、帳面を脇に挟んだまま食べ始めた。食べ方は綺麗だが、ヴォルフさんと同じで速かった。うーん、双子だ。謎にそんなことを思った。
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日が暮れて、祭りの灯りが本格的に点いた。通りの提灯が揺れている。人の声と音楽が混ざって、城下町全体が鳴っている。
広場でもう一度演奏を聴いた。今度は大人の楽団で、弦楽器の低い音が腹に響いた。知らない曲だったが、体が揺れた。音楽を聴いて体が動くのは久しぶりだった。
祭りの夜は、どこを見ても光っていた。屋台の火。提灯の灯。人の顔が暖色に照らされている。いい顔をしている人ばかりだった。
そろそろ帰ろう。明日は洗濯をしたい。今日着た服にはお祭りの匂いが染みている。揚げ菓子と煙と、秋の夜の匂い。洗えば落ちるが、少しだけ惜しい気もする。
仕立屋の角を曲がった。通りが急に静かになった。祭りの音が遠くなる。
道中、ヴォルフさんとまた会った。せっかくなので送ると申し出てくれた。警備の巡回で回っているのか、あるいは例の「通り道」なのか。わざわざ聞くのも野暮な気がして、何も聞かなかった。
自分の部屋がある建物が見えた。二階の窓は暗い。朝、出るときに閉めた通りだ。
玄関脇の鉢植えが目に入った。
ずれている。
壁から十二センチだったのが、十五センチになっている。扉の端からの距離も変わっている。三センチ。誰かが動かした。
風ではない。あの陶器の鉢は重い。風なんかでは動かない。
鉢植えがずれている。それだけのことだ。大家さんが掃除で動かしたのかもしれない。野良がぶつかったのかもしれない。でも鉢植えの周りの地面に、猫ではない足跡がある。靴底の跡。鉢植えの前に立って、扉のほうを向いた跡。
「どうした」
立ち止まったわたしを不思議に思ってか、ヴォルフさんが後ろから声をかけてくれた。低い声。さっきまでの休憩中の声ではない。
「鉢植えが動いています」
「鉢植え?」
「朝と位置が違います。三センチ」
ヴォルフさんが黙った。わたしの横を通り過ぎて、建物の周囲を見渡した。それから鉢植えの前にしゃがんで、地面を見た。
「ミーナ殿。今日は家に入るな」
「え」
「このまま城に来てくれ」
「なぜですか。鉢植えがずれているだけです」
ヴォルフさんが立ち上がった。表情が変わっていた。串焼きを食べていた人と同じ顔なのに、目の奥が違う。
「鉢植えだけじゃない。二階の窓の鍵が浮いている。外から見てわかるか」
見上げた。窓の留め金。朝はきちんと閉めた。今、わずかに隙間がある。留め金が完全に落ちていない。外から無理に持ち上げて開けようとした跡だ。
「……誰かが入ろうとした?」
「入ったかどうかはわからない。だが今は確認しないほうがいい。城に行こう」
わたしは自分の部屋を見上げた。暗い窓。朝、整えて出たあの部屋。棚の布巾も、水差しも、残りのワンピースも、あの中にある。
「荷物が」
「明日取りに来る。俺がついて行く」
ヴォルフさんの声は短くて硬い。でも乱暴ではない。わたしを急かしているのではなく、守ろうとしているのだと、なんとなくわかった。
「……わかりました」
踵を返した。祭りの音がまだ聞こえている。提灯の明かりが背中に落ちている。
城に向かって歩きながら、考えた。わたしは角を揃えただけだ。数を数えただけだ。数字が合わないと言っただけだ。それが誰かにとっては、こういうことになるのか。
テルナー財務官の言葉を思い出した。「整理されたくない人間がいる」。
ヴォルフさんは半歩後ろを歩いている。昼間に一緒にいた時とは違い、今は鋭い目つきで周囲を見ながら歩いている。目の動きが違う。通りの影、路地の奥、屋根の上。見ている場所が、わたしとは違う。
城の門に着いた。衛兵がヴォルフさんを見て通してくれた。
「テルナー様に報告する。ミーナ殿は書庫の控室で待っていてくれ」
「はい」
書庫の隣にある小さな控室に案内された。椅子と机と毛布がある。ここで寝るのだろうか。城で夜を過ごすことになるとは思わなかった。
机の上に水差しがあった。位置が気になって少し直した。壁際に寄せて、机の端から五センチ。
それから椅子に座って、毛布を膝にかけた。城の中は石壁で冷える。祭りの服のまま来てしまった。揚げ菓子と煙の匂いがまだ袖についている。
「…………。整理されたくない、人」
……考えを整理しよう。ものを整理するのと同じだ。散らかったまま気持ちのまま放置するほうが気持ちが悪い。
部屋のことを考えた。棚の上の布巾。水差し。ワンピース。窓際の椅子。カティさんにもらった巾着。朝のまま整っているはずの、わたしの場所。
誰かがあの場所に入ろうとした。
まず、鉢植えのずれに気づいた。気づいて、立ち止まった。立ち止まったから、ヴォルフさんが気づいた。ヴォルフさんが窓の留め金を見つけた。結果として、家に入らずに済んだ。
ずれに気づいたことが、防衛になった。そのこと自体は悪くない。三センチのずれがわかるというのは、こういうときに役に立つのだ。
ここまでは整理できる。
整理できないのは、その先だ。
あれが祭りに乗じた泥棒なら、まだいい。城下町が浮かれている夜に空き巣を狙う人間がいても不思議ではない。鍵をかけ直して、貴重品を確認して、終わる話だ。
でも、もしそうではなかったら。
帳簿の数字を並べたこと。武器庫の剣を数えたこと。整理されたくない人間がいて、わたしがその人にとって邪魔だったとしたら。今日のあれは、警告か、あるいはそれ以上の何か……。
城壁の修繕に使われたはずの金がなかった。修繕の跡もなかった。武器が台帳より少なかった。金と武器が外に流れている。もしそれが全部、同じ場所に流れていたとしたら。
…………何かの組織が、資金と武装を蓄えている。
そこまで考えて、背筋が冷えた。
わたしは数字を並べただけだ。角を揃えただけだ。でもその結果として、流れの先が見えかけている。見えてしまったら――見えた人間を、流れの主は放っておくだろうか。
知らないほうが安全なのかもしれない。何も考えず、頼まれた棚を整理して、日当をもらって、かぶを買って帰る。それだけの生活に戻れたら。
でも、わからないままというのは──気持ちが悪い。
棚の中に一冊だけ順番が違う帳簿が紛れ込んでいるのを放置するのと同じだ。瓶が一本足りないのに蓋をして帰るのと同じだ。気持ちが悪い。わたしはそういうのを放っておけない。
放っておけないから、ここにいるのだろう。数を数えてしまったから。角を揃えてしまったから。揃えた結果、見えてしまったものがある。
毛布を首まで引き上げた。石壁は冷たいが、控室は静かだった。城の中は整っている。旗の間隔も、廊下の幅も、棚の配置も。
大丈夫、きっと誰かがきちんと管理している場所だ。
明日になればヴォルフさんが一緒に部屋に行ってくれる。何がどうなっているか確認できる。何かがずれていたら直す。それだけだ。
目を閉じた。鉢植えの三センチが、まぶたの裏にちらついた。でも、もう少しだけ整理できた気がする。全部ではないけれど。




