第五話 仕立屋の裏部屋と、温かい汁物
朝、かぶと干し魚の汁物を作った。
鍋に水を張って、かぶを切って、干し魚を入れて煮る。塩を少し。それだけなのに、鍋から湯気が上がるとほっとする。温かいものを食べるとき、わたしは体の奥のほうが緩む感じがする。
前にいた場所では、温かいものをほとんど食べなかった。火を使える台所がなかった。いや、あったのかもしれないが、物が積み上がっていてたどり着けなかった。冷たい飯ばかりだった。透明な箱に入った握り飯や、袋から出してそのまま食べるパン。腹は膨れるが、体の芯まで温まることはなかった。
だから今、鍋の前に立てることが嬉しい。湯気を吸い込む。かぶが煮崩れかけている。もう少し早く火を止めるべきだった。まあいい。柔らかいのも好きだし。
汁物を飲みながら、棚に仕舞ってあった紙を広げた。先日、自分の能力を書き出したものだ。
ひとつ。ものの長さ、幅、奥行きが見ただけでわかる。ふたつ。並んでいるものの総数がわかる。みっつ。足りないものがわかる。よっつ。分類の法則が見える。いつつ。ずれがわかる。むっつ。文字の読み書きができる。
城の帳簿のことを思い出す。数字を並べることはできた。でもあのとき、城壁修繕費が膨らんでいることの意味がわからなかった。数字は揃えられる。配置も整えられる。けれど、揃えた数字が何を指しているのかは、わたしの力ではなくわたしの知識の問題だ。
徴税の仕組みも、支出の項目の相場も知らない。知らないから、ずれていることしか伝えられない。それがなんだかもどかしかった。
もし次にああいう仕事が来るなら、帳簿の読み方くらいは覚えておきたい。本屋で何か探してみよう。
紙を畳み直して棚に戻す。
汁物の残りを飲み干して、鍋を洗った。
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市場へ買い出しに行く途中、仕立屋の角で足が止まった。
仕立屋の前に、布の束が溢れている。店の扉が開いていて、中からも布がはみ出している。
店主のカティさんが、布の山の前で立ち尽くしていた。三十過ぎの女性で、腕のいい仕立屋だと評判の人だ。目の下に隈がある。
「カティさん、大丈夫ですか」
「ああ、ミーナちゃん。……大丈夫じゃないけどね」
秋の祭事が近いらしい。注文が殺到して、布地の仕入れも一気に増えた。ところが裏の作業部屋が狭くて、布地と完成品と型紙と道具が混ざり合ってしまい、注文ごとの布がどこにあるかわからなくなったのだという。
「作業する場所もないのよ。裁断台の上に布が積んであって。あと三日で五着仕上げなきゃいけないのに、布を探すところから始めないと」
「見せてもらっていいですか」
裏の作業部屋に入った。
六畳ほどの部屋。左手に裁断台。右手に棚。奥に作業机と椅子。壁に型紙を掛けるための釘が並んでいる。構造は悪くない。道具の配置もよく考えられている。カティさんの腕は部屋の設計にも出ている。
だが、物の量が部屋の容量を完全に超えていた。
裁断台の上に反物が六本。棚には裁断済みの布地が重ねて押し込まれていて、上段には糸巻きと裁ちばさみが布の間に埋まっている。作業机の上にも布。椅子の上にも布。床にも布。型紙が壁から外れて布の山の間に紛れ込んでいる。
わたしの目が部屋を測る。裁断台の高さ、棚の奥行き、壁から壁までの距離。布の種類は大きく三つある。巻いたままの反物。注文ごとに裁断された布地。端切れや副資材。それぞれ収め方が違うはずだ。
「カティさん、木箱はありますか。同じ大きさのものがいくつか」
「裏口の外に空箱が積んであるけど」
見に行った。果物の木箱が七つあった。同じ規格だ。あとで使う。
「これをもらいます」
まず、部屋のものを全部出した。ここでもまた全部出す。カティさんが「全部?」と言ったが、初めて言われたわけではないので気にしない。
裁断台の上の反物を廊下に出す。棚の中身を全部出す。型紙を集めて重ねる。糸巻きを色別に分ける。裁ちばさみ、針、チャコ、定規。道具類はまとめて布に包む。
空になった部屋を掃く。埃がすごい。布の繊維が舞っている。窓を開けて、掃いて、棚を拭いて。
それから棚の使い方を変えた。
反物は巻いたまま棚に入れる。軸がこちらに向くように入れると、ピッタリだった。棚の奥行きと反物の幅がほぼ同じだ。棚板の仕切りの間に並べて入れれば、外から見てどの反物かすぐわかる。巻きの端の色が見えるから、探す手間がない。反物だけで棚の下三段を使った。
問題は裁断済みの布だ。カティさんは注文ごとに切り分けた布を、切った順に上へ上へと重ねていた。だから下のほうの注文を取り出すのに上を全部どかさなければならなかった。
ここで木箱を使う。裁断済みの布は注文ごとに畳んで木箱に入れる。木箱の手前側に、注文主の名前を書いた紙片を貼る。木箱ごと棚の中段に並べれば、引き出すだけで注文の中身が一目でわかる。木箱五つで注文五件ぶん。残りの二つは予備に空けておく。
棚の上段は道具専用にした。糸巻きは色の順番に並べる。ばさみと針は布の筒に入れて立てる。型紙は壁の釘に戻す。注文ごとに分けて掛ける。
裁断台の上には何も置かない。作業する場所は空けておく。
完成品は別の箱に入れて、棚の一番取り出しやすい段に置く。納品順に並べる。一番早い納品が手前。
最後に、棚と壁の間に十五センチほどの隙間があるのを見つけた。ここに薄い板を渡せば、端切れや副資材を立てて収納できる。カティさんに板があるか聞いたら、裏口の外に廃材があった。長さを目で見て、棚の高さに合う一枚を選ぶ。釘を二本打って、壁と棚の間に小さな縦棚を足した。死んでいた空間が収納になった。
一時間半で終わった。
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カティさんが部屋に入ってきて、しばらく黙っていた。
「……全部入ってる。前より広いのに」
「反物はこちら向きに寝かせて下の段に、切った布は注文ごとに箱にまとめて中段に。置き方を変えただけです」
カティさんが棚を見ている。木箱のひとつを引き出して、中の布を確認している。名前の紙片を見て、また戻す。引き出すのも戻すのも片手でできる。
「……すぐ見つかる!」
「注文ごとにまとまっていますから。新しい布が来たら、注文主の名前を書いてここに立ててください。空き箱は二つ残してあります」
カティさんが裁断台の上を手のひらで撫でた。何も置いていない、広い台。
「……ここで作業できる!」
「裁断台ですからね」
そのとき、カティさんの目が赤くなった。
「ごめんなさい。こんなことすら、わたしにはできなかった」
「え」
「注文を受けて、布を仕入れて、縫って、届ける。それで手一杯で、部屋のことまで頭が回らなくて。どんどん散らかって、散らかるとやる気がなくなって、やる気がなくなるとさらに散らかって。もう何から手をつけていいかわからなくなってた」
わたしの手が止まった。
知っている。その循環を知っている。散らかっている部屋に帰ると全部が嫌になる。嫌になると動けない。動けないとさらに散らかる。前にいた場所で、ずっとそうだった。
「カティさん」
「は、はい」
「わたしは角を揃えただけです。あなたは他のところに一生懸命だっただけですよ」
カティさんが目を瞬かせた。
「五着の仕立てを三日で仕上げようとしている人に、部屋を片付ける時間があるわけがないです。部屋は誰かに頼めばいい。仕立てはあなたにしかできないから」
わたしは自分で言いながら、少しだけ考えた。前にいた場所にいた頃のわたしにも、片付けを頼める誰かがいたらよかったのだろうか。いたとして、頼めただろうか。
わからない。でも、今わたしがここで片付けをすることで、カティさんが裁断台に向かえるなら、それだけでいい。
カティさんが鼻をすすって、立ち上がった。
「日当を」
「いえ、今日は買い物のついでだったので」
「そんなわけにはいかないでしょう。待ってて」
カティさんが奥に消えて、戻ってきたときには銀貨と、小さな布の包みを持っていた。
「銀貨五枚と、これ。余り布で作った巾着。ミーナちゃんの目の色に合うと思って」
薄い青の布で作った巾着だった。縫い目が細かくてきれいだ。
「……ありがとうございます」
もらった巾着を握りながら、帰り道を歩く。薄い青の布地に指を滑らせる。何を入れよう。こういうきれいなものの中に収まりたがるものは何だろう。小銭は似合わない。干し果物はもっと似合わない。薬草の葉をひとつまみ入れたら、開けるたびにいい匂いがするかもしれない。
まだ決めなくていい。空のまま持って帰ろう。何を入れるか考えるのも楽しい。
帰ったら鍋を火にかけよう。干し肉と、かぶと、もし手に入れば人参も入れて、煮込もう。温かい汁物を食べよう。
片付けたあとの部屋を見るのが好きだ。自分の部屋でも、人の部屋でも。ものが収まるべき場所に収まっている。空間が息をしている。それを見ると、わたしの中の何かが整う。
前にいた頃、整っているものを何も持っていなかった。今は持っている。それだけで十分だけれど、こうして誰かの場所を整えるたびに、わたし自身も少しだけ整っていく気がする。
巾着の縫い目を指で撫でた。きれいな仕事だ。




