第二十五話 よくできている
ケスラー様の執務室を出て、廊下を歩いた。普通の速さで歩こうとした。でも足が速くなる。歩幅が広くなる。角を曲がる。また速くなる。
私の身を案じて、「向こう見ずなことをせずに」とテルナー様は言ったくれた。止まるべきだ。でもあの手が震えていた。あの人は助けを求めている。声に出せない。誰にも言えない。だから、——
足が止まった。
あまりにも、帳簿の乖離が露骨すぎないだろうか。
武器庫の台帳が半年も更新されなかった。書庫が混乱したまま放置されていた。几帳面なケスラー様がやったにしては杜撰すぎることばかりだった。
あのような人が、誰かに違和感を持たれるような、動かし方をするだろうか。
走った。廊下を走った。城の中で走るのは初めてだ。
「ミーナ殿!」
ニクラスさんの声が後ろから飛んできた。腕を掴まれた。
「走るな。廊下で走ったら目立つ」
「でも——」
「早足で行く。ついてこい」
走るのをやめた。早足になった。ニクラスさんが横に並んだ。
長い足で、わたしの早足に合わせている。
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テルナー様の執務室に入った。ニクラスさんが扉を開けてくれた。
「テルナー様。黒板を使わせてください」
「どうした」
「全部、並べます。今、ここで。全部の情報を、ひとつにまとめます」
テルナー様が立ち上がった。わたしの顔を見て、何か言いかけてやめた。代わりに黒板の前の椅子をどかして、白墨を差し出した。
「やりなさい」
白墨を握って黒板に向かった。今まで起きたことをすべて思い出すために、集中する。
息を大きく吸ってから描き始める。
「まず、大まかな時系列を」
左端に「一年半前」、右端に「現在」。横に線を引く。
一年半前。ケスラー内務官がグライフ領の業者と城壁修繕の取引をした。ここから始まっている。
一年前。城壁修繕費が不自然に増額し始めた。金貨五十枚が八十枚に。
半年前。修繕費が百二十枚に膨張。同時期に武器庫の台帳が最後に更新された。ケスラー様の顔が険しくなり始めた。これはリーゼ様の証言だ。
その後。武器が台帳より少なくなった。資金の流れの中に逆流する動きを発見。不審な使用人と兵士が食堂で連絡を取り合い始めた。
「テルナー様」
「なんだ」
「わたしに初めて依頼されたとき仰っていましたね。前担当が、杜撰な管理をしていたと。その方は、いつから担当されて、いつお辞めに?」
「……この頃だろう」
テルナー様が白墨で追記する。およそ一年前から半年前。整頓されたものを毎日少しずつ歪めていけば、たやすく管理は崩れる。
全部を線で繋いだ。時系列に沿って、上から下へ。
「次に、資金について」
黒板の右半分に、資金の流れを再現した。今度はもっと細かく。
徴税から国庫、国庫から各部門への配分。城壁修繕費の枝が一本、不自然に太い。そしてその先に、還流の矢印。外部業者を経由して、金が戻っている。その先、
「人の動き」
左下に、城内の人間の動きを書いた。
使用人。兵士。食堂での接触。廊下での紙片の受け渡し。二日に一度の頻度。連絡を取る側と受ける側が決まっている。上下関係があるだろうと気付いたのはテルナー財務官だった。
「武器」
右下に、武器庫の数字を書いた。
台帳と実数の差。剣十三本。短剣七本。弓五張。外部に流出。
「テルナー様、聞いてもいいですか」
「うむ」
「鍵担当の兵士は、見つかりましたか」
「いいや。実はミーナ殿の仕事の日から、行方をくらませている」
「……分かりました」
……鍵担当の兵士は、例の兵士とは別だったが、行方不明。
「城主の不在」
中央に大きく書いた。
挨拶回りの予定。帰還予定日。街道の封鎖。しかも三箇所同時。城主が遅れることで、どのような不安定さが生まれるだろうか。
全部を矢印で繋いだ。
金の流れ、武器の流れ、人の流れ、城主の不在。全部が一方向を向いている。テルナー様とニクラスさんが細かな仔細を書き出していく。調査して分かったことを。
全部が、最終的に隣接領であるグライフ領を指している。
描き終えた。白墨を置いて、三歩下がった。
黒板の前に立って、全体を見た。テルナー様とニクラスさんも、わたしの横に立って見ていた。三人とも黙っていた。
黒板一面に、城の過去一年半の動きが描きだされた。時系列、資金、人の動き、武器の数、全てが矢印と箱で繋がれている。前回の資金の動きの図より遥かに大きい。前回は財務の一部だけだった。今回は城の全てだ。
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よくできている。
それが最初の感想だった。
自分でも驚いた。恐怖でも怒りでもなく、最初に浮かんだのは感嘆だった。
計画が精緻だった。無駄がない。人を使って、少しずつ歪めているのが分かる。人の気のゆるみの範囲で発生する自然と崩れていくような動きだ。金の流れは巧妙に偽装されていて、帳簿確認では気づけないように乱されている。城壁修繕費を選んだのは、内務官の裁量で動かせる項目だからだ。金額の増やし方にも段階がある。いきなり倍にせず、五十、八十、百二十と段階を踏んでいる。
武器の横流しは台帳の更新タイミングを計算して行われていた。半年に一度の棚卸しの直後に抜けば、次の棚卸しまで半年間は気づかれない。毎日の補完報告は鍵担当者が兼任して報告を上げていたが、それが架空だったことも合わせてわかっている。(今は、ブレンナー軍務官が日替わりで担当者を変えて一日二回の確認を行うように指示している)
城内の協力者の配置も無駄がない。厨房の使用人が情報の中継点で、兵士が実行役。二人の接触パターンは規則的すぎず不規則すぎず、第三者が偶然目撃しても「知り合い同士の雑談」で済む程度に調整されていた。わたしの目が動線の不自然さに気づかなければ、そのまま通っていただろう。
城主の不在期間に合わせた街道封鎖。年末年始という城の人手が薄くなるタイミング。全てが計画的で、全てに根拠がある。
角が揃っている。
この計画を立てた人は、わたしと同じ目で世界を見ている。
物事の配置を見通す目。何がどこにあれば最も効率的かを瞬時に判断する目。棚に物を入れるときの最適な順番を知っている目。その目が、城を整えるためではなく——壊すために使われている。
「テルナー様」
「ああ」
「これを計画した人は、たぶん、わたしと同じ種類の目を持っています」
テルナー様が黒板を見ている。ニクラスさんも。二人とも黙っている。
「でも」
一箇所を指さした。
資金の中の、小さな枝。本流から分岐した細い線が、他の全ての矢印とは違う方向に伸びている。グライフ領ではない。レンカ領の南東にある小さな村への、ごくわずかな送金。
「ここだけ揃っていません」
テルナー様が目を細めた。
「この送金は、他の全ての流れと整合しません。グライフ領に金を流す計画なのは明らかなのに、この中に、なぜ南東の村への送金が混じっているのか。金額も小さい。隠蔽のために入れた偽装にしては雑すぎる。これだけ精緻な計画を組める人間が、こんな杜撰なものを残すはずがない」
「ミーナ殿。その村に何があるか、わかるか」
「わかりません。でも——」
白墨を持つ手が止まった。
「——これは、わざと残されたのではないですか」
テルナー様が黒板から目をそらし、わたしを見た。
「わざと」
「この計画を立てた人は几帳面です。わたしと同じ種類の。こんなずれを残すはずがない。それに段階を踏んでいるとはいえ、私なら三年かけて少しずつ歪めます。けれどこの配分で、この期間で行うのは……。急かされていたか、何かそうせざるを得ない事情があると考えるのが自然です。さらにその痕跡を残すとしたら、それは——……。誰かに見つけてほしかったから」
ニクラスさんが息を呑んだ。小さな音だったが、やたらとはっきり聞こえた。
「きっとこの人は、助けを求めています」
確信があった。
テルナー様が長い間黙っていた。それから、机に戻って引き出しを開けた。一枚の紙を取り出した。
「南東の村。調べはついている。ケスラーの妻と娘が暮らしている村だ」
息が止まった。
「ケスラーの家族は半年前から、グライフ領の人間に監視されている。事実上の人質だ」
ケスラー様の手が震えていた理由。半年前から眠れなくなった理由。几帳面な人が痩せていく理由。全部が一箇所に繋がった。
あの人は、脅されていたのだ。家族を人質に取られていた。協力させられていた。やめたくてもやめられなかった。だから——自分と同じ目を持つ誰かが来てくれることを祈って、計画の中にわざと破綻の目を残した。
「ケスラー様は——犯人ではなく、被害者なのですか」
「両方だ。加担した事実は変わらない。だが、脅迫されていたことも事実だ」
テルナー様がわたしを見た。厳しい顔だが、目の奥に痛みがあった。
「ミーナ殿。お前が描いたこの図が、全てを繋げた。お前がいなければ、あの村への送金には誰も気づかなかった。帳簿の数字だけでは見えない。資金だけでも見えない。全部を一枚に並べて、初めて見えた」
「わたしは、角を揃えただけです」
「ああ。角を揃えただけだ。だが、その角の一つが、ケスラーの悲鳴だった」
白墨を置いた。指が白くなっている。
黒板には、城の全てが描かれていた。金の流れ、武器の流れ、人の動き、時間の流れ。
そして、一本だけ微かな細さで、違う方向に伸びる矢印。
ケスラー様。
あなたの角は、揃っていました。たった一箇所を除いて。
その一箇所が、あなたの声でした。




