第二十四話 見なかったふりと、似た人の涙
朝、テルナー様の執務室に行った。
城主の帰還の遅れが偶然でない可能性を伝えるつもりだった。でも扉を叩いて入ったら、テルナー様の机の上に地図が広げてあった。レンカ領と周辺の領地の地図だ。街道が赤い線で描き込まれている。何本かの街道に×印がついていた。
「テルナー様。城主様の帰還の件ですが」
「知っている。街道が三箇所で封鎖されている。土砂崩れという名目だが、この時期に三箇所同時は不自然だ。ブレンナーが別の経路を探している」
もう動いていた。わたしが言うまでもなかった。
「それと、もうひとつ」
「なんだ」
「ケスラー様のことが心配です」
テルナー様の手が止まった。地図の上に置いた指が動かない。
「心配とは」
「昨日、廊下でお会いしました。お痩せになっていました。襟が浮いていました。前にお会いしたときはぴったりだったのに。目の隈も深くなっています。食堂には行っているとおっしゃっていましたが、食べているとはおっしゃらなかった」
テルナー様が黙っている。
「あの方は几帳面な方です。わたしと少し似ていると思います。几帳面な人が体を壊すのは、よほどのことがあるときです。整った部屋に住んでいるのに眠れていない人は、部屋以外の何かに追い詰められています」
「……ミーナ殿」
「はい」
「それは報告か」
「いいえ。心配です」
テルナー様がわたしを見た。長い間見ていた。何かを決めるような目だった。
「お前の心配は、正しいかもしれない。ケスラーについては、私も気になっていることがある。だが、今はまだ話せない」
「わかりました」
「もう一つ聞く。ケスラーの執務室を訪ねたとき、何か違和感はあったか」
手順書を持って行ったときのことを思い出す。整った部屋。緊急度順の書類。光に向けた花。窓枠に埃のない部屋。
「違和感はありませんでした。あの方の部屋は、わたしが見た中で一番整っています。テルナー様の執務室より、たぶん」
「それは余計だ」
「すみません」
「……だが、それが逆に気にかかる。あれだけ消耗している人間の部屋が、なぜあそこまで完璧なのか」
テルナー様が自分に言い聞かせるように呟いた。わたしにはその意味がすぐにはわからなかった。でも、頭の隅に引っかかった。完璧すぎることが不自然。整えすぎていることが、逆に何かを隠している。
「ケスラーから何か言われたら、断らず聞きなさい。ただし一人にはなるな。ニクラスを近くに置け」
意味がわかるような、わからないような指示だった。ケスラー様から何か言われるかもしれない。テルナー様はそれを待っている。
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その日の午後だった。
書庫で帳簿を配架していたら、ニクラスさんが立ち上がった。
「ケスラー内務官から伝言だ。手順書の最終確認をしたいから、執務室に来てほしいと」
手順書の最終確認。大掃除はもう終わっている。確認するものは何もないはずだ。
テルナー様の言葉が頭に浮かんだ。「断らず聞きなさい」。
「行きます。ニクラスさん、一緒に来てもらえますか」
「もちろんだ」
中央棟の二階。城主の書斎の二つ隣。ケスラー内務官の執務室の前に着いた。ニクラスさんが扉の横に立った。中には入らない。でもすぐそこにいる。
扉を叩いた。
「どうぞ」
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ケスラー内務官の執務室は、前と同じように整っていた。書類は緊急度順に積まれている。花瓶の花は光のほうを向いている。窓枠に埃はない。
でも、一つだけ違うものがあった。机の上に、茶器が二人分用意されていた。
「そこにお掛けなさい」
案内された椅子に座った。ケスラー内務官がお茶を注いでくれた。手が少し震えていた。注ぐ量がわずかに不均一だ。この人の手が震えているのを初めて見た。
「手順書の件ではないのでしょう」
「……察しがいいな。いや、お前はいつもそうだった」
ケスラー内務官がお茶を一口飲んだ。飲んだあと、器を両手で包むように持った。温まりたいのだ。この人も温かいものを必要としている。
「ミーナ殿。お前は見える目を持っている」
「角を揃えるのが得意なだけです」
「その角を揃える力で、この城の中に何が見えた」
わたしは黙った。何を答えるべきか。テルナー様は「聞きなさい」と言った。聞く側でいるべきだ。
「帳簿の数字が合わなかったのを見つけました。武器庫の数が足りなかったのを数えました。資金の流れに逆方向の矢印があるのに気づきました。それだけです」
「それだけ、か」
ケスラー内務官がお茶を置いた。両手を机の上に置いた。きれいな手だ。爪が短く切りそろえてある。几帳面な人の手だ。
「お前は見えすぎる。この城には、見ないほうがいいものがある。見えても、見なかったふりをするという選択もある」
声が穏やかだった。むしろ、懇願に近い。
「お前がこれ以上見てしまうと、お前自身が危うくなる。わたしは——」
ケスラー内務官の声が詰まった。
「わたしは、お前のような子を巻き込みたくない」
「…………ケスラー様、その。そのような言い方ではまるで」
「この城を整えられる目を持つ人間は貴重だ。お前がいなくなったら、この城は——」
また詰まった。目が赤くなっていた。涙を浮かべている。几帳面で、手順書を愛し、窓枠を自分で拭く人が、わたしの前で言葉を詰まらせている。急にわたしは居た堪れなくなって、口を開いた。
「ケスラー様。わたしは、わからないまま放置するのが気持ち悪い性分なんです。棚の中に一冊だけ向きの違う帳簿があったら、直さずには帰れないんです」
「……そうか」
「でも、ケスラー様もそうではありませんか。あなたの部屋は整っています。書類は完璧に分類されています。花は光を向いています。あなたも、ずれが許せない人だと思います」
ケスラー内務官が目を閉じた。長い沈黙だった。
「……わたしも、そうだった」
過去形だった。「そうだ」ではなく「そうだった」。
「わたしにも、角を揃えることしかできなかった時期があった。それでよかった。それだけでよかったのに」
ケスラー内務官が目を開けた。涙は流れていなかった。ぎりぎりで止まっていた。
「もう行きなさい。手順書の確認は終わった」
「ケスラー様」
「行きなさい」
立ち上がった。扉のほうに歩いた。振り返った。
「ケスラー様。ブルーノさんのスープ、本当に温まりますから。絶対に召し上がってくださいね」
ケスラー内務官は答えなかった。窓の外を見ていた。花瓶の花と同じ、光のほうを向いていた。
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廊下に出た。ニクラスさんが待っていた。
「何を話した」
「手順書の確認、ということになっています」
「……そうか」
「ニクラスさん。あの方は、怖い人ではないです」
ニクラスさんが何かを言いかけて、やめた。代わりに「テルナー様に報告する」とだけ言った。
控室に戻った。棚を確認した。整っている。
ケスラー様は「わたしも、そうだった」と言った。過去形で。角を揃えることしかできなかった時期があった、と。それでよかったのに、と。
何があの人を変えたのだろう。何が、角を揃えるだけでは済まない状況に追い込んだのだろう。
テルナー様が言っていた。「あれだけ消耗している人間の部屋が、なぜあそこまで完璧なのか」。わたしにはわかる気がする。部屋を整えることが、あの人にとって最後の砦なのだ。何もかもが崩れていく中で、せめて部屋だけは。窓枠だけは。花の向きだけは。
わたしと同じだ。前にいた場所で、何もできなくなっていったとき、わたしは部屋を整えることすらできなくなった。あの人はまだ整えている。まだ戦っている。でも、もう限界に近い。手が震えていた。お茶を注ぐ手が。
あの手を、わたしは知っている。あれは——助けを求めている手だ。声に出せない助けを、手が代わりに出しているのだ。
わたしに何ができるだろう。角を揃えることしかできない。でもあの人が必要としているのは、角を揃えてくれる人ではなく、角が揃わなくなった理由を見つけてくれる人かもしれない。




