第二十三話 城主の帰らない年明け
年が明けた。
新年になってもまず初めにやることは変わらない。朝、棚を確認した。水差しの位置を見た。巾着とリボン。窓を開けた。庭木十二本。空気が冷たいが、澄んでいる。新しい年の空気だ。
前にいた場所では、年が明けても何も変わらなかった気がする。同じ部屋、同じ散らかり、同じ冷たさ。区切りがなかった。ここでは城のみんなが「おめでとうございます」と言い合っている。区切りがあるのはいいことだ。空気が入れ替わる。
体は戻った。手の震えは止まった。おかゆではなく、普通の汁物を食べられるようになった。
書庫に行った。四日か五日ぶりだ。ニクラスさんが確認を続けてくれていたおかげで、棚は整っている。でも自分の目で見たかった。一段ずつ確認する。帳簿の角を指で触る。配置図と一致しているか。ずれはないか。
ない。完璧だ。ニクラスさんの仕事は正確だ。
でも、自分の手で確認して、自分の目で見て、初めて息がつける。これがわたしの呼吸だ。棚が整っていることを自分で確認すること。それが、わたしを落ち着かせる。
確認を終えてニクラスさんの机の横を通ったとき、ニクラスさんが小声で言った。
「テルナー様が調べた。あの使用人と兵士、どちらも年末に城を出た記録がない」
「出た記録がない?」
「正門の出入り帳簿にも、裏門の記録にも名前がない。つまり正規の手続きでは城を出ていない」
正規でなく城を出た。あるいは、城を出ていない。まだ城のどこかにいる。あるいは——地下の、あの部屋のように、どこかに。
「わたしが見つけた部屋と——」
「テルナー様が調べている。俺たちは結果を待とう」
ニクラスさんの声は静かだが、「待て」の部分だけ力が入っていた。これは命令ではなく懇願に近い。わたしがまた走り出すのを恐れている。
「……はい。待ちます」
わたしはよかったとしても、周りの人を巻き込むのではないか。不安が過った。
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書庫を出て廊下を歩いたとき、違和感があった。
衛兵の数が増えている。いつもは廊下の角に一人だが、今日は二人立っている。中央棟の階段の前にも一人。地下への入り口には二人。東棟と西棟を繋ぐ渡り廊下にも、見たことのない顔の衛兵がいた。
増員されている。しかも配置が変わっている。以前は等間隔だったのが、今は要所を固めている。門、階段、地下入口。誰かが配置図を書き直したのだ。テルナー様かブレンナー様の判断だろう。大掃除の後の年末年始だから、という理由で説明はつく。でもわたしには、別の理由が透けて見える。
それと、もうひとつ。ヴォルフさんの姿を今日まだ見ていない。食堂にもいなかった。警備の任務に出ているのだろう。いつもなら朝のどこかで顔を見るのに。
食堂に行った。朝食の時間はとうに過ぎていたが、ブルーノさんが残しておいてくれたスープがあった。かぶと鶏肉の入った冬のスープだ。
「復帰か。食えてるな」
「おかげさまで。ブルーノさんのおかゆで命を繋ぎました」
「大げさだ。ただのおかゆだ。……だが、食えてるなら良かった」
スープを飲んだ。かぶが柔らかく煮えていて、鶏肉の出汁がしっかり出ている。ほんのりしょっぱくて体に染みる。温かいものが胃に落ちると、そこから温度が広がっていく。指先まで届く。ブルーノさんのスープにはそういう力がある。
食べながら食堂を見回した。年明けの挨拶をしている人たちがいる。笑い声がある。年明けだけど、普段どおりみたいだ。でも、いつも通りの中に、小さなずれがある。掃除係の動きが少し速い。洗濯係の娘たちが廊下で立ち話をしていない。みんな足早だ。何かを感じているのか、それとも衛兵の増員を見て空気を読んでいるのか。
マルタさんが通りかかった。「おめでとう、無理しないでね」と言ってくれた。年始のおめでとうと復帰のおめでとうが混ざっている。ありがたい。
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午後、中央棟の廊下でケスラー内務官とすれ違った。
一瞬だった。向こうから歩いてきて、わたしの横を通り過ぎようとして、足が止まった。わたしも止まった。
ケスラー内務官の顔を見た。隈がさらに深くなっていた。頬がこけている。服には相変わらず皺がないが、体のほうが服に合わなくなっている。痩せたのだ。首元の襟が浮いている。前に会ったときはぴったりだった。あれからまた体重が落ちたということだ。
「新年、おめでとうございます。ケスラー様」
「ミーナ殿。体調は戻ったか」
「はい。ご心配をおかけしました。……ケスラー様こそ、お体は大丈夫ですか」
言ってしまった。余計なことかもしれない。でも見てしまったから。この人が削れていくのを。
ケスラー内務官がわずかに目を見開いた。体のことを聞かれると思っていなかったのかもしれない。
「……問題ない」
「お食事は取れていますか。ブルーノさんのスープ、温まりますよ」
「食堂には行っている」
行っている、と言った。食べている、とは言わなかった。食堂に行くことと食べることは違う。この人は、行くだけで食べていないのかもしれない。
ケスラー内務官が何か言おうとした。口が開きかけた。でも閉じた。目がわたしの顔を見ている。探るようではない。何かを伝えたいのに伝えられない人の目だった。
「大掃除の手順書、よくできていた。来年も使える」
「ありがとうございます」
「……引き留めて悪かった。仕事に戻りなさい」
すれ違った。彼の背中が廊下の奥に消えていく。姿勢はいい。でも歩幅が前より狭い。疲れているのではない。多分、消耗しているのだ。
わたしが倒れたのは大掃除で張り切りすぎた、ということになっている。あの人はそう信じているだろうか。それとも、地下のことを知っているだろうか。
あの人は何を言おうとしたのだろう。
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夕方。リーゼ様が控室に来た。今日はフリーダがいない。一人だった。
いつもの明るい顔ではなかった。目が赤い。泣いたあとの顔だ。
「リーゼ様?」
「ミーナ。ちょっと聞いてほしいことがあるの」
椅子に座った。お茶を淹れようとしたが、リーゼ様の手が震えていた。わたしが代わりに淹れた。淹れる側になるのは初めてだ。
「お父様が、まだ帰ってこない」
「はい」
「年始の領民への挨拶があるの。毎年、城の広間で城主が直接挨拶する。三日後。これはうちの領の伝統で、百年以上続いてる。城主が出ないわけにいかない行事なの」
「城主様が間に合わなければ——」
「わたしがやらないといけない。代理で」
リーゼ様がお茶を両手で持っている。お茶の水面が揺れている。手が震えているからだ。
「わたし、大勢の前で話すの得意じゃないの。お父様はいつも上手にやるけど、わたしは……。あの広間に領民が何百人も集まって、わたし一人が前に立って」
「リーゼ様」
「怖い。本当に怖い」
リーゼ様の声が小さくなった。城主の娘だ。こういうときに弱さを見せてはいけないと教わってきたのだろう。でもわたしの前では見せてくれた。
「リーゼ様。お手伝いできることがあれば、何でもします」
「……ほんと?」
「挨拶の原稿を一緒に整理しましょう。毎年の挨拶であれば、去年のを参考にできます。言いたいことを順番に並べて、角を揃えれば、迷わずに話せます」
「角を揃える……挨拶も?」
「言葉も棚と同じです。順番が決まっていれば、手が勝手に動きます」
リーゼ様が少しだけ笑った。泣いたあとの笑顔は弱々しいが、本物だった。
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リーゼ様を送ったあと、控室で考えた。
城主が帰れない。年始の挨拶に間に合わない。百年以上続いている伝統の行事だ。それほど大きな行事に城主が出られない理由は何か。
年末の挨拶回りが長引いた。路の状況が悪い。体調を崩した。いくらでも理由はつく。
でも、もしそれが偶然でないとしたら。
誰かが、城主を城から遠ざけている。帰れないようにしている。道中で足止めされているのかもしれない。あるいは隣接領を通る経路が封じられているのかもしれない。城主不在の時間を引き延ばしている。
年始の挨拶をリーゼ様にやらせる。城主の代わりに若い娘が立つ。領民は不安になる。あの城は大丈夫なのか。城主はどうしたのか。噂が立つ。城の求心力が下がる。
そのタイミングで何かが起きる——としたら。
資金は流れていた。武器も流れていた。手先は城の中にいた。城主がいない。衛兵の配置が変わった。テルナー様が動いている。全部が繋がる。全部が、同じ方向を向いている。
頭が勝手に走る。テルナー様に「止まれ」と言われた。止まるべきだ。でも、並んでしまう。棚に同じ分類のものが同じ段に収まるように。城主の不在。武器の流出。資金の還流。消えた使用人。地下の部屋。ケスラーの隈。衛兵の増員。リーゼ様の涙。
全部が同じ棚に入ってしまう。
テルナー様に話すべきだ。明日。城主の帰還の遅れが偶然ではない可能性を。わたしが整理したものの中に、その答えがあるかもしれない。わたしには何もできない。でも、角がずれていることを伝えることはできる。それはずっとわたしがやってきたことだ。
棚を確認した。整っている。水差しの位置を見た。合っている。巾着とリボンが並んでいる。
部屋は整っている。城の内装はどこもピカピカにした。でも城は整っていない。城の角が、少しずつずれ始めている。




