第十四話 城主の書斎と、目検スキル
朝、窓を開けたら空気が冷たかった。冬が近づいてくる。
前にいた場所では、冬が一番つらかった。部屋が寒くて、布団から出られなくて、布団の周りに服やタオルを積み重ねて、それでも寒くて。暖房があったはずだが、物が積み上がっていて使えなかったのだと思う。ここでは厚手の毛布が一枚あれば十分だ。石壁は冷えるけれど、毛布を掛けて、朝起きたら棚が整っていて、窓を開ければ中庭が見える。それだけでいい。
棚を確認した。水差しの位置を見た。庭木を数えた。今日も十二本。
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書庫で仕事をしていたら、テルナー財務官が来た。今日はいつもと少し違う顔をしている。改まった表情だった。
「ミーナ殿。明日、城主と謁見してもらう」
「謁見」
「といっても、そう構えるものではない。ハインリヒ伯の書斎でお茶を飲む程度のことだ。リーゼ殿がしきりに父上に紹介したいと言っているそうでな。ハインリヒ伯も、娘がそこまで話題にする子がどんな人物なのか気になられたようだ」
「書斎で、お茶」
「広間で座の前に立たされるようなものを想像しているなら安心しろ。あの方はそういうのが嫌いだ」
城主に会う。レンカ城の主に。わたしが。
「わたしは何を話せばいいのですか」
「聞かれたことに答えればいい。普段通りで構わない」
「普段通り」
「角を揃えるだけの話をすればいい」
「はあ、まぁ。それなら」
テルナー財務官が少しだけ口元を緩めた。いつもの表情だ。でも目は笑っていない。この人が改まった顔をしているのは、謁見がただの紹介ではないからだろう。城主にとって、わたしがどういう人間かを見る機会でもあるのだ。
「服装は」
「清潔であれば十分だ。誰かに相談してもいい」
というわけで、午後すぐにフリーダに相談した。
「え! 城主様に謁見!?」
「お、大袈裟です。静かにしてください」
「ミーナさん、ちょっと来て。襟だけでも直させて」
ワンピースの襟元にフリーダがリボンを一本足した。薄い青のリボン。巾着と同じ色だ。
「はい、これだけで顔色がパッと明るくなります。そばかすが可愛くみえて映えますよ」
そばかすが映える。そういうのあるんだ。そばかすが可愛く見えるなんて、言われたことがない。けどフリーダが言うならきっと、そうなんだろう。
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翌日の午後。テルナー財務官に連れられて、城の中央棟の二階に向かった。
城主の書斎の前で、テルナー財務官が扉を叩いた。
「テルナーです。ミーナ殿をお連れしました」
「うむ、入れ」
低い声だった。怒っているのではない。もともと低い声なのだろう。
書斎に入った。
広い部屋だった。テルナー財務官の執務室より一回り大きい。窓が二つあって、午後の光が斜めに入っている。大きな机。壁一面の本棚。暖炉。その前に椅子が三つ。
机の奥に男が座っていた。五十代後半。白髪が混じった髪を後ろに撫でつけている。顔は彫りが深くて、目が穏やかだ。リーゼ様の目に似ている。大きくて、奥が明るい。
「君がミーナか」
「はい。ミーナです。テルナー様のもとで財務官補佐をしております」
「リーゼが毎日のようにお前の話をしてな。化粧台の瓶を並べ替えただけで朝の支度が楽になったと」
「角を揃えただけです」
「テルナーからも聞いている。同じ台詞だな」
城主――ハインリヒ伯が椅子から立ち上がった。思ったより背が高い。腰が少し曲がっているが、それでも高い。
「まあ座れ。茶を淹れよう」
城主自ら茶を淹れるのか。リーゼ様と同じだ。やはり親子なのだなと思う。
暖炉の前の椅子に座った。テルナー財務官が隣に座った。ハインリヒ伯が茶器を運んできた。三人分。茶器の置き方が丁寧だ。受け皿の向きを揃えて置いている。この人も整えることが好きなのかもしれない。
お茶を待つ間、書斎を見ていた。見ないようにしていたが、目が勝手に動く。
壁一面の本棚。蔵書が多い。歴史書、法令集、地誌、外交文書の写し。背表紙を読むだけで、この人がどういう分野に関心を持っているかわかる。上段に歴史、中段に法律と政治、下段に地理と農業。分類は丁寧だ。掃除係が整えたのではなく、ハインリヒ伯自身が並べたのだろう。配置に人柄が出ている。
机の上も見えた。書きかけの手紙が一枚。インク壺の蓋がきちんと閉まっている。羽根ペンが筆立てに戻されている。テルナー財務官に似ている。もともと整理ができる人だ。
「テルナー。この子が書庫を整理して、例の数字の件が見えたのだったな」
「はっ。ミーナ殿が帳簿を年度別に並べ直し、項目ごとの一覧表を作成した結果、乖離が判明しました」
「武器庫の件も」
「同様です」
ハインリヒ伯がお茶を一口飲んで、わたしを見た。穏やかな目だが、奥に何かがある。品定めされている。フリーダの品定めとは違う種類の目だ。人を人として見定めている目だ。
「ミーナ。お前は帳簿の数字を並べ替えたとき、それが何を意味するか、わかっていたか」
「いいえ。数字が合わないから報告しただけです」
「武器庫では」
「数が足りないから一覧表に書いただけです」
「それだけか」
「それだけです」
ハインリヒ伯がテルナー財務官を見た。テルナー財務官が小さく頷いた。何かを確認し合っている。わたしにはわからないやりとりだ。でも、これが城主と財務官の間にある信頼の形なのだと思った。短い目配せに長い文脈が詰まっている。
「正直で謙虚なのだな」
「本当にそれだけなのです」
「それだけのことを、城の誰もできなかった。テルナーが見込んだだけのことはある」
お茶がおいしかった。テルナー財務官のお茶とは茶葉が違う。こちらのほうが香りが強い。花のような匂いが混じっている。
「ミーナ。この城に来て、不自由はないか」
「ありません。食堂の汁物が温かいので」
「汁物か」
「はい。温かいものが好きなのです」
「それはブルーノに伝えておこう。あの男は褒められると張り切る」
城主が厨房係のブルーノさんの名前を覚えている。偉ぶったり押さえつけたりすることをしない城主だということがそれだけで分かる。この城はそういう場なのだ。
「ミーナ。城の中で気づいたことがあれば、何でもテルナーに話しなさい。些細なことでいい」
「はい」
「それと、リーゼと仲良くしてくれているようだな。ありがとう」
「こちらこそ、リーゼ様にお茶をいただきました」
「あの子は退屈していたからな。お前が来てから楽しそうだ」
ハインリヒ伯が少しだけ柔らかい顔になった。父親の顔だ。城主の顔と父親の顔が、同じ人の中にある。整理しなくても、両方ちゃんと収まっている。そういう人なのだろう。
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謁見が終わった。茶を飲んだだけだった。知らず知らずのうちに緊張していたみたいだ。城主は最後に「また来い」と言ってくれた。社交辞令かもしれないが、声に温度があって嬉しかった。
テルナー財務官と廊下を歩いていたとき、足が止まった。
「テルナー様」
「なんだ」
「城主の書斎の本棚ですが」
「ああ」
「右から三列目の四段目と五段目の間に、本が一冊横向きに入っていました。背表紙が内側を向いていて、タイトルが見えない状態です。たぶん急いで戻したときに向きが逆になったのだと思います」
テルナー財務官が立ち止まった。
「……謁見中にそんなところを見ていたのか」
「見ようと思ったわけではないです。目が勝手に動くんです。ずれているものがあると、そこに目がいってしまって。あの本棚は全体がきれいに分類されていたので、一冊だけ横向きなのが余計に目立ちました。城主様の本棚に粗探しをしているみたいで……失礼なことだとは思っているです」
「そうか。……いや、ハインリヒ伯なら喜んで直すだろうがな。あの方も本棚にはこだわりがある」
テルナー財務官がしばらく黙って歩いた。それから独り言のように言った。
「ミーナ殿。お前の目は本当に恐ろしいな」
「すみません」
「褒めている。謁見の間にお茶を飲みながら本棚の異常を検知する人間を、私は他に知らない」
「異常というほどのことでは。一冊ずれているだけです」
「一冊のずれに気づく目が、帳簿の乖離にも気づき、武器庫の欠損にも気づいた。同じ目だ」
褒められているのか心配されているのか、よくわからないまま控室に戻った。
襟のリボンを外して、丁寧に畳んだ。フリーダが選んでくれた薄い青。巾着と同じ色だ。棚の上に置いた。巾着の隣に。
まだ巾着には何も入れていない。でもリボンと巾着が棚の上に並んでいるのは、少しだけいい眺めだった。
今日は城主に会った。お茶を飲んだ。穏やかな人だった。ブルーノさんの名前を知っている人だった。リーゼ様の目に似ている人だった。
この城は、守る価値のある場所だと思った。わたしが守れるかどうかは別として。
どんな些細なことでもテルナーに話しなさい、と城主は言った。
食堂で見たあの目配せ。使用人と兵士の不自然な動線。ずっと引っかかっていたけれど、何を報告すればいいかわからなくて言えずにいた。数字にできない。配置図にできない。でも、些細なことでもいいなら。
明日、テルナー様に話してみよう。




