第十一話 黒板の矢印と、見えすぎる目
城で暮らし始めて十日が経った。
朝の手順はもう体に馴染んでいる。起きる。棚を確認する。水差しの位置を見る。顔を洗う。髪を結ぶ。窓を開ける。中庭の庭木を数える。十二本。昨日と同じ。
前にいた場所では、毎朝同じ手順で動くことを「つまらない」と思っていた。同じ時間に起きて、同じ道を通って、同じ場所に行く。繰り返しが嫌だった。でもあれは、繰り返しが嫌だったのではなく、繰り返しの中に自分で選んだものがひとつもなかったからだ。
今の手順はわたしが決めた。この順番で、この場所で、この時間に。選んだ繰り返しは、安心になる。
今日は家に帰る日だ。午前中に仕事を終えて、昼からヴォルフさんと一緒に部屋に戻る。換気して、棚を拭いて、鉢植えを確認する。楽しみだ。
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午前の仕事を終えて書庫から出ようとしたとき、テルナー財務官の執務室の扉が開いていた。
中で声がしていた。テルナー財務官とニクラスさんだ。ニクラスさんが何か話している。珍しい。あの人が長く喋っているのを初めて聞いた。
覗くつもりはなかった。でも、壁にかかった大きな黒板が目に入って、足が止まった。
黒板一面に図が描いてあった。
四角い箱がいくつもあって、箱と箱を矢印が繋いでいる。箱の中には「徴税」「国庫」「城壁修繕」「兵士給与」「外交費」などと書いてある。矢印の横に数字がある。金の流れだ。城の財務の全体像を図にしたもの。
「ミーナ殿」
テルナー財務官がわたしに気づいた。
「すみません、通りかかっただけです」
「いや、ちょうどいい。少し見てもらえるか」
促されて中に入った。ニクラスさんが棒状にした白墨を持ったまま、黒板の前に立っていた。
「資金の流れを整理しようとしているのだが、どうにもまとまらなくてな」
テルナー財務官が腕を組んでいる。
黒板を見た。
箱は十二個。矢印は二十本以上。箱と箱を繋ぐ線が交差していて、どこからどこに金が流れているのか一目ではわからない。線の太さもばらばらで、重要な流れとそうでない流れの区別がつかない。
内容はわたしにはわからない。徴税の仕組みも外交費の相場も知らない。でも、この図が見づらいということはわかる。見づらい理由もわかる。棚に物が詰まりすぎて奥が見えないのと同じだ。配置が悪い。
「あの、ひとつだけいいですか」
「なんだ」
「この線が交差しているのは、箱の位置のせいだと思います」
黒板に近づいた。白墨を借りていいか聞いて、ニクラスさんから受け取った。ニクラスさんの指も白かった。長い時間描いていたのだろう。
「この『国庫』の箱がここにあると、徴税からの線と城壁修繕への線が交差します。交差すると、どの線がどこへ行っているのか追いにくくなります。『国庫』をこの位置に動かすと――」
黒板の端に『国庫』の箱を描き直した。元の箱は布で消す。
「こうすると、左から右へ全部の流れが一方向になります。お金が入ってくるほうを左に、出ていくほうを右に。途中で分かれるところは上下に分ければ、線が交差しません」
描き直していく。箱の位置を変えるだけで、矢印が整理される。入口は左。出口は右。分岐は上下。棚の整理と同じだ。重いものを下に、軽いものを上に。頻度の高いものを手前に。同じことを、目に見えない金の流れに当てはめているだけだ。
一つずつ箱を消しては描き直す。矢印を引き直す。線が交差しないように、すべての流れが一方向に流れるように。
ニクラスさんが黒板を見ている。途中から、わたしが消した箱を描き直す手伝いを始めた。わたしが位置を指さして、ニクラスさんが箱を描く。二人で黒板の前を行き来する。何も言わなくても、どんどん進んで行った。書庫の整理のときと同じだ。
「あと、この矢印の太さを金額に比例させたほうが見やすいです。大きな流れが太い線、小さな流れが細い線。棚に大きな帳簿と小さな帳簿を同じ幅で並べると見づらくなるのと同じです」
太さを描き分けた。すると、図の構造が一目でわかるようになった。大きな太い流れが左から右に三本。そこから細い枝が何本も分かれている。川と支流のように見える。
「見やすくなったな」
テルナー財務官の声が低い。見やすくなった、以上の何かを見ている声だった。
「ニクラス」
「はい」
「この線を見ろ」
テルナー財務官が黒板の右下を指さした。わたしが整理し直した図の中で、一本だけ他と違う方向に流れている矢印があった。
「他の線は全部左から右に流れているのに、この一本だけ右から左に戻っている。これは何だ」
ニクラスさんが目を細めた。
「……城壁修繕費の一部が、外部の業者を経由して、ここに戻っています。還流です」
わたしは黒板を見ていた。二人が何を見つけたのか、正確にはわからない。でも、一本だけ逆に流れている線があるのは見える。棚の中に一冊だけ向きが違う帳簿が紛れ込んでいるのと同じだ。
二人がわたしの方を見た。
「わたしは箱を動かしただけです。中身のことはわかりません」
「箱を動かしただけで、我々が探していたものが見つかった」
テルナー財務官がわたしをじっと見た。前に見た心配そうな顔ではない。もっと複雑な顔だった。感謝と、驚きと、それから、やはり少しの心配が混じった顔。
「ミーナ殿。あなたの目は恐ろしいな」
「角を揃えただけです。本当に」
「角を揃えるだけで、ものが見えるようになる。それが恐ろしいと言っている」
わたしは何と答えていいかわからなくて、一つお辞儀をしてから白墨をニクラスさんに返した。わたしの指先もしっかり白くなっていた。
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昼になって、ヴォルフさんと城を出た。
家に向かう馬車の中で、手の白墨の粉を払った。爪の間にまだ残っている。
「黒板に何か描いていたのか」
ヴォルフさんが手を見て聞いた。ぽろぽろ落ちる粉に気づいたらしい。
「箱と矢印の位置を動かしただけです。テルナー様とニクラスさんが資金の流れを図にしていて、見づらそうだったので」
「それで何かわかったのか」
「わたしにはわかりません。でも、見やすくなったらテルナー様が何かに気づいたみたいで」
「そうか。なら、きっと役に立ったんだろう」
ヴォルフさんは窓の外を見ていた。兄の話のとき、少しだけ声が柔らかくなる。それを言ったら口を聞いてくれなくなってしまうかもと思ったので、何も言わなかった。
家に着いた。鉢植えの位置を確認した。壁から十二センチ。動いていない。よし。
ヴォルフさんが先に部屋を確認してくれた。何も異常はなかった。窓の留め金も閉まったままだ。
部屋に入った。窓を開けて空気を入れ替える。十日ぶんの空気が動き出す。棚を拭く。床を掃く。水差しは空のままでいい。すぐにまた空けるのだから。荷物は城に持っていったので、部屋にはほとんど何もない。掃除は二十分で終わった。
きれいになった。でも、住んでいない部屋はきれいでも少し寂しい。
「ヴォルフさん、街のみんなの様子を見に行ってもいいですか。すぐ近くですから」
「ついていこう」
仕立屋の角を曲がると、カティさんが表に出ていた。
「ミーナちゃん! 久しぶり。城に引っ越したんだって?」
「住み込みで仕事をすることになって。週に二度帰ってきます」
「裏の作業部屋、ちゃんと維持してるわよ。見てく?」
見せてもらった。木箱の名前札が新しい注文に更新されている。反物は横向きに収まっている。裁断台は空いている。壁の釘に型紙が掛かっている。完璧だ。
「カティさん、すごいです。わたしがいなくても全然大丈夫じゃないですか」
「あんたが仕組みを作ってくれたからよ。仕組みがあれば続けられるの」
嬉しかった。片付けたものが維持されている。それはつまり、片付け方が正しかったということだ。
青果のおばさんにも顔を出した。売り台のL字配置はそのままだった。脚に挟んだ板の端材もまだ入っている。
「ミーナちゃん、城で偉くなったんだって?」
「偉くなってません。棚を整理してるだけです」
「はいはい。かぶ持ってく?」
かぶを二つもらった。城に持って帰ろう。厨房のブルーノさんに渡せば、汁物にしてくれるかもしれない。
ヴォルフさんがわたしの後ろを、少し離れてついて歩いている。店に入るときは外で待っていて、出てくると何も言わずについてくる。護衛なのだろうが、買い物についてきてくれる人みたいにも見える。
「ヴォルフさん、かぶいりますか」
「いらない」
「そうですか」
城に戻る馬車の中で、かぶを膝に乗せていた。城の控室に着いたら、棚を確認して、巾着を見て、それから厨房にかぶを届けよう。
巾着にはまだ何も入れていない。空のまま、棚の上で待っている。何を入れようか考える時間が、なんだかいいものに思えるから。




