第十話 城の部屋と、新しい日常
部屋は荒らされていなかった。
翌朝、ヴォルフさんと一緒に戻って確認した。窓の留め金は外からこじあけようとした跡があったが、完全には開けられていなかった。室内はわたしが朝出たときのまま。棚の布巾も、水差しも、ワンピースも。何も動いていない。
ただ、鉢植えだけが三センチずれたままだった。元に戻した。
前にいた場所で、帰ると部屋が荒れているのは日常だった。でもあれは自分が散らかしたものだった。誰かがわざと荒らしに来るのとは違う。同じ「帰りたくない」でも、理由が全く違う。
ヴォルフさんが窓枠を調べている間、わたしは荷物をまとめた。着替え、洗面道具、カティさんにもらった巾着、お片付け術(極)を書き出した紙。
それだけの荷物だ。まとめてみると本当に少ない。でも足りる。
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テルナー財務官に呼ばれたのはその日の午後だった。
「ミーナ殿。率直に言う。しばらく城で暮らしてもらえないだろうか」
「城で」
「財務官補佐という名目で、部屋を用意する。仕事は書庫や帳簿の整理が中心だ。日当も出す。住み込みのほうが、あなたの身の安全を確保しやすい」
住み込み。城に住む。
頭の中で噛み砕いて、なんとか飲み込んで、やはり気になるのは今いる家のことだった。
「家のほうは」
「週に二度、通えるようにする。荷物の入れ替えや換気に必要だろう。その際はニクラスかヴォルフに同行させる」
わたしは少し考えた。毎朝あの部屋で目覚めないということ。自分で整えた棚と、窓際の椅子と、壁から十二センチの鉢植え。あれを毎日見られなくなる。
でも、住むには安全ではない状況だ。それに週に二度でも帰れるなら、部屋は維持できる。
むしろ、これから住む城での生活に慣れるべく、早めに組み立てるほうが大事だと思えた。
「……わかりました。お世話になります」
「窮屈な思いをさせてすまない。部屋は書庫の隣の控室を使ってくれ」
昨夜泊まった部屋だ。水差しの位置はもう直してある。
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城での暮らしが始まった。
控室は狭いが、必要なものは揃っている。寝台、机、椅子、棚、水差し。わたしはまず棚の中を拭いて、持ってきた荷物を並べた。着替えは畳んで棚の左側。洗面道具は右側。巾着は棚の上。書き出した紙は机の引き出しに。
窓がある。朝日が入る向きだ。開けると中庭が見える。手入れされた庭木が等間隔で植えられている。間隔は三メートル。きれいだ。
ここをわたしの場所にする。
朝の支度を決めた。起きたら棚を確認する。水差しの位置を見る。顔を洗って、髪を結んで、窓を開ける。自分の部屋と同じ手順。場所が変わっても手順は変えない。手順が整っていれば、どこでも大丈夫だ。
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財務官補佐としての仕事は、思ったより多岐にわたった。
書庫の維持管理。新しく届いた帳簿の分類と配架。テルナー財務官が使う書類の事前整理。過去の文書の検索。
最初の仕事は、財務官の机の上だった。
「恥ずかしいことだが、ここ数日で散らかってしまった。整理を頼みたい」
テルナー財務官の机は前に見たときは片付いていたが、今は書類が五つの山になっていた。帳簿の件と武器庫の件の調査で忙しかったのだろう。
山の中身を確認する。進行中の案件、決裁済み、参照用、他部署への回覧待ち、個人メモ。五つに分かれているのは、テルナー財務官自身の分類だ。法則はある。ただ、山が高くなりすぎて底のほうが取り出せなくなっている。
「棚を一つ使わせてもらえますか」
「好きに使ってくれ」
五つの分類に合わせて、棚を五段に分けた。段ごとに札をつける。進行中は一番目の高さ。手が届きやすい位置。決裁済みは一番下。頻度が低いから。
革紐で書類を括った。あのとき持っていった革紐だ。もう使ってくれている。束の角が揃っている。テルナー財務官自身が揃えたのだろう。この人はもともと整理ができる人だ。忙しすぎただけで。
「できました。分類はテルナー様の法則のままです。場所だけ変えました」
「助かる。自分ではなかなか手が回らなくてな」
「角を揃えただけです」
「その台詞にも慣れてきたな」
テルナー財務官が少しだけ口元を緩めた。
その後も仕事は続いた。書庫に新しく届いた帳簿を年度と項目で分類して配架する。過去の文書を探してほしいと頼まれたら、配置図を見て棚の段数を伝える。ニクラスさんが隣の机で黙々と写本をしていて、わたしが書庫から出入りするたびに小さく頷く。それだけの関係だが、静かで居心地がいい。
週に一度、書庫の棚を全段確認する日を決めた。帳簿がずれていないか、配置図と一致しているか。一段ずつ目で追って、指で角を確認する。ずれていたら直す。ずれていなければ次に進む。一時間ほどで終わる。書庫が整っていると、自分の呼吸も整う気がする。
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日が経つにつれて、城の中の人と顔を合わせることが増えた。
食堂で食事をする。城の使用人や兵士たちと同じ食堂だ。大きな長テーブルが三列あって、朝と昼と夕にそれぞれ食事が出る。温かい汁物が毎日ある。それだけでありがたい。前にいた場所では、温かいものを食べるのに苦労した。ここでは座れば出てくる。座る場所がある。帰る場所がある。それがどれだけのことか、今のわたしにはわかる。
掃除係の女性――マルタさんという――が声をかけてくれた。
「あなたが噂の片付け屋さん? 書庫がすごく使いやすくなったって聞いたわ」
「ありがとうございます。ええと、どういたしまして」
言えた。前よりも自然に出た。
食堂で隣に座った洗濯係の娘に、シーツの畳み方を褒められた。城の洗濯場を通りかかったとき、干し方が気になって直したのを見ていたらしい。
「端をぴったり合わせるでしょう。あれ、どうやるの」
「角と角を合わせて、手のひらで撫でるだけです。風がある日は身体で押さえながら」
「やって見せて」
洗濯場でシーツを一枚畳んで見せた。彼女が真似をした。二回目で揃った。すごく筋がいい。
厨房の老人――ブルーノさんという――が、余った焼き菓子を控室に届けてくれることがあった。
「若いのに小食だな。もっと食え。働き者そうな顔をしてる」
「ありがとうございます。……どういたしまして?」
「どういたしましてじゃなくて、食え」
食べた。おいしかった。
城の人たちは、思ったより普通だった。特別な人たちではない。朝起きて、仕事をして、飯を食って、寝る。わたしと同じだ。ただ、住んでいる場所が城だというだけで。
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ある日の夕方、食堂で食事をしていたとき、気になることがあった。
厨房から出てきた若い使用人が、兵士の一人と目配せを交わした。短い一瞬だった。その後、兵士が食堂を出て、少しして使用人も出ていった。
それだけのことだ。食堂では人が出入りするのは普通だ。目配せくらい、誰でもする。
でも、引っかかった。
何が引っかかるのか、自分でもすぐにはわからなかった。食事を続けながら考えた。マルタさんが隣で喋っていて、わたしは相槌を打ちながら、さっきの二人のことを頭の隅で転がしていた。
動線だ。あの使用人は厨房の担当のはずだ。食堂と厨房の間を往復するのが仕事で、兵士のテーブルの側を通る用事はない。なのに、わざわざ兵士の列の端を通って出ていった。
翌日も同じ二人を見た。今度は廊下ですれ違ったとき、使用人が兵士に何か小さなものを渡していた。紙片のように見えた。渡し方が妙に手慣れていて、すれ違いざまに片手で。立ち止まらない。目を合わせない。食堂では目を合わせていたのに、廊下では合わせない。場所によって振る舞いを変えている。
棚の中に一枚だけ違う年度の書類が紛れ込んでいるような、そういう感じがした。全体のなかで、その二人の動きだけが別の法則で動いている。
根拠はない。証拠もない。ただ、ずれている。
テルナー財務官に報告すべきだろうか。でも、何を報告する。「使用人と兵士の動線がおかしい気がします」と? わたしの目が見ているものは、ずれの感覚でしかない。数字にできない。配置図にできない。
帳簿なら数字で示せる。瓶なら空の位置で示せる。でも人の動きは、数えられない。揃えられない。角がない。
控室に戻って、窓を閉めた。机の上を整えて、椅子に座った。
明日は家に帰る日だ。ヴォルフさんがついてきてくれる。部屋の空気を入れ替えて、棚を確認して、鉢植えの位置を見る。それだけで安心できるはずだ。
でも今夜は、食堂で見たあの目配せが、鉢植えの三センチと同じ場所に引っかかっていた。




