9話
「澪さん。今日……少し時間をもらえますか?」
その一言が、病室の空気をさらに冷やした。
澪は一瞬、勇人の方を見た。
ベッドの上で、彼は明らかに警戒した目をしている。
「……私に?」
「うん。話したいことがある」
瑛二の声は終始穏やかだった。
押しつけがましくもなく、急かすでもない。
それが逆に、断る理由を奪う。
勇人が、低く、強い声で言った。
「澪は帰る。話なんてさせない」
瑛二は、少しだけ目を細めた。
笑みは崩れない。
「怪我をした君に、選択権はないよ」
その言い方は、あまりにも自然で——
あまりにも、残酷だった。
空気が張りつめる。
勇人がさらに言い返そうと、息を吸い込んだその瞬間。
「……少しだけ、なら」
澪の声が、それを遮った。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
勇人が、信じられないという顔で澪を見る。
「澪……?」
「……外で、少し話すだけ」
その言葉に、瑛二の表情が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
まるで、待っていた答えを聞いたかのように。
「ありがとう。……外で待ってる」
そう言って、瑛二は静かに病室を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに重く響く。
勇人が、すぐに澪の手を掴んだ。
「澪、だめだ」
必死な声だった。
「あいつについていくな。本気で危ない」
その手は、震えている。
「……大丈夫」
澪はそう言いながら、勇人の手を両手で包んだ。
「外で、少し話すだけだから」
「違う」
勇人は、噛みしめるように言う。
「澪、あいつは——」
そのとき、病室のカーテンが揺れ、看護師が顔を出した。
「面会時間、そろそろ終了ですよ」
言葉を遮られ、勇人は言葉を失った。
ただ、澪を見つめる。
その目が、必死に訴えている。
——行くな。
——危ない。
澪は、小さく頷いた。
行く、という意味にも。
大丈夫、という意味にも取れる曖昧な頷き。
(……少し話してくるだけ)
そう、自分に言い聞かせる。
病室を出る直前、もう一度振り返ると、勇人はまだこちらを見ていた。
白いシーツに埋もれたまま、動けない身体で。
胸の奥が、痛んだ。
病院の外は、雨上がりの匂いがしていた。
アスファルトに残った水溜まりが、街灯の光を受けて揺れている。
湿った空気が、夜の静けさをより濃くしていた。
玄関先に、瑛二は立っていた。
黒い傘を片手に持ち、コートの襟は少し濡れている。
肩に落ちた水滴が、ゆっくりと地面に落ちた。
「来てくれてありがとう」
「……話って、何ですか」
澪の声は、思った以上に強張っていた。
瑛二は、それに気づいたのか、ほんの少しだけ柔らかな笑みを浮かべる。
「そんなに警戒しないで。怖がらせるつもりはないよ」
(……なら、どうして)
どうして、こんなにも胸がざわつくのか。
瑛二は一度、夜空を見上げ、濡れた髪を指で払った。
その仕草は自然で、どこか疲れているようにも見えた。
そして、低く、静かに言った。
「澪さん。君、狙われてる」
その言葉で、世界が止まった。
「……え?」
喉から出た声は、情けないほど小さかった。
瑛二の目は、今まで見た中で一番真剣だった。
軽さも、余裕も、そこにはなかった。
「君のお母さんのレシピ。あれを手に入れようとしていた人間が、まだ諦めていない」
胸の奥で、何かが重く沈む。
(……やっぱり)
あの材料室。
勝手に開けられていた引き出し。
誰かの気配。
すべてが、一つの線で繋がり始める。
「君のお母さんは、桜舞堂の“魂”だった」
瑛二は、言葉を選ぶように続ける。
「彼女の作る蜜は、他とはまったく違った。技術でも、経験でもない。……再現できない“何か”があった」
「……だから、狙われた?」
「そうだ」
即答だった。
「君のお母さんは、あまりにも特別だった。だから、壊された」
その言葉に、澪の喉が詰まる。
「……平塚家も、狙っていたんですよね?」
勇気を振り絞って、そう聞いた。
瑛二の眉が、ほんのわずかに動いた。
「……そうだよ」
否定はしなかった。
「母は欲しがっていた。桜舞堂ごと、ね」
「じゃあ……勇人に起きたことも……」
澪の声は、震えていた。
「僕じゃない」
瑛二の返答は、あまりにも速かった。
迷いも、言い訳もない。
「それだけは、断言できる」
嘘をついているようには、聞こえなかった。
でも、信じきることも、できなかった。
瑛二は、少し間を置いてから、続ける。
「ただし——誰が犯人かは分かっている」
澪の呼吸が、浅くなる。
「……誰、なんですか」
瑛二は、傘を閉じた。
カチリ、という音が、夜に響く。
そして、静かに言った。
「君の母を追っていた、“もう一つの家”だよ」
「……もう一つの、家?」
「和菓子の世界は狭い。名家と呼ばれる家は、数えるほどしかない」
瑛二の瞳が、夜の闇よりも深く沈む。
「君のお母さんが残した蜜は……普通のレシピじゃない。作り方を知られたら、“和菓子界が変わる”と、母は言っていた」
(……お母さんが、そんなことを)
知らなかった。
何も知らなかった。
瑛二は、そっと澪の肩に手を置いた。
その手は、あたたかい。
それなのに、澪の背中に、冷たいものが走る。
「澪さん。僕には、君を守る理由がある」
「……理由?」
瑛二は、ほんの少しだけ視線を逸らし、夜の濡れた地面を見つめた。
「……贖罪だよ」
その一言は、雨上がりの空気よりも重かった。
病院を離れてから、しばらく澪は足を止められずにいた。
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