8話
勇人が倒れた夜から、三日が過ぎていた。
勝浦の空はその間ずっと、晴れ切らないままだった。
雨は降らない。けれど、雲は低く垂れこめ、海から吹き上げる湿った風が街を包み込み、肌にまとわりつく。
まるで、泣くことすら許されずに溜め込まれた感情のように。
(……まだ、三日しか経ってないのに)
澪は病院へ向かう坂道を、一歩ずつ踏みしめながら歩いていた。
足元のアスファルトには、昨日の雨の名残が斑に残り、曇天を歪んだ形で映している。
勇人は、助かった。
命に別状はないと、医師は淡々と告げた。
それでも——
「頭部打撲と肋骨骨折。しばらく入院が必要です」
その言葉が、澪の胸に重く沈んだままだ。
(……私のせい、とは言われなかったけど)
言われなかっただけで、消えたわけじゃない。
あの夜、勇人が自分を庇わなければ。
あの車が、あの角度で突っ込んでこなければ。
病院の自動ドアが、低い音を立てて開く。
消毒液の匂いが、鼻腔を刺した。
白。
床も、壁も、天井も。
すべてが無機質な白で塗り固められた空間は、現実感を奪う。
案内表示に従い、エレベーターに乗る。
数字が一つずつ点灯していく間、澪の胸の奥では、鼓動だけが異様に大きく鳴っていた。
——ピン。
ドアが開き、病棟の静けさが広がる。
足音、カーテンの擦れる音、遠くで聞こえる点滴の規則的なリズム。
勇人の病室の前で、澪は一度、深く息を吸った。
(……大丈夫)
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
ただ、そう言わなければ足が動かなかった。
ノックをして、ゆっくりと扉を開ける。
「……勇人」
病室の窓から差し込む曇った光が、白いシーツを淡く照らしていた。
ベッドの上で、勇人は上半身を少し起こし、こちらを見ていた。
「おう」
その声は、少しかすれている。
けれど、澪の顔を見た瞬間、口元がわずかに緩んだ。
「来てくれたんだな」
「……当たり前でしょ」
そう言いながら、澪はベッド脇の椅子に腰を下ろす。
近づいて初めて、勇人の顔色の悪さがはっきりと分かった。
頬はこけ、唇は乾いている。
包帯が巻かれた額と、固定された肋骨。
(……こんなに……)
白いシーツに埋もれる姿は、普段よりずっと小さく見えた。
大人びて、でも同時に脆くて。
「悪いな……」
勇人が、視線を逸らしながら言う。
「送ったはずがさ。逆に、澪に心配かけちまって」
「そんな言い方……」
喉の奥が、きゅっと締めつけられる。
声が震えないように、澪は下を向いた。
「勇人が……守ってくれたのに……」
言葉にした瞬間、視界が滲んだ。
涙が落ちる前に、必死で瞬きをする。
勇人は小さく息を吐き、首を横に振った。
「……あれ、事故じゃないよな」
静かな声だった。
確認するようで、すでに答えを知っている声。
澪の心臓が、どくりと跳ねる。
同じ考えだった。
あの車の速度。
曲がり角から出てくるタイミング。
そして、ほとんど残っていなかったブレーキ痕。
偶然にしては、揃いすぎている。
澪は一瞬、言葉を飲み込んだ。
言えば、取り返しのつかない何かが動き出す気がしたから。
それでも。
「……わざと、だと思う」
自分でも驚くほど、声ははっきりと出た。
「私も……怖い」
勇人の眉が、わずかに寄る。
「……澪。俺がこうなったの、アイツに関係があると思ってるんだろ?」
その名前を出さなくても、分かった。
平塚瑛二。
その存在が、頭をよぎっただけで、澪の胸はきゅっと縮む。
「……分からない」
正直に、そう言った。
「でも……怖い偶然が、多すぎるの。材料室のことも……まるで、最初から“知ってた”みたいで……」
勇人は、しばらく黙って澪の言葉を聞いていた。
そして、ゆっくりと手を伸ばし、澪の手を握った。
熱い。
けれど、どこか力が抜けている。
「澪」
名前を呼ばれただけで、胸が痛くなる。
「……気をつけろ」
勇人の声は低く、真剣だった。
「あいつ、お前を守るふりして近づいてるだけかもしれない。平塚の家、昔からそうなんだよ。優しさの皮を被って……中身は全部、支配したいだけだ」
その言葉は、澪の胸に深く突き刺さった。
「……うん」
短く、頷く。
勇人は一度、呼吸を整えたあと、言葉を選ぶように続けた。
「……でもさ」
澪の手を握る指に、ほんの少し力がこもる。
「澪を守りたいって、本気で思ってる奴だっているから」
澪は、顔を上げた。
勇人の目が、まっすぐこちらを見ていた。
逃げ場のないほど、真っ直ぐに。
「俺だよ」
——ドクン。
胸の奥で、何かが強く弾けた。
勇人は笑っていなかった。
冗談めかすときの、軽い表情でもない。
ただ、静かに、真剣に。
一人の人間として、澪を見ていた。
その瞬間。
——コン。
病室の扉が、軽くノックされた。
澪が振り返る。
看護師だと思った。
けれど。
扉の向こうに立っていたのは——
黒い傘をたたみながら入ってくる、平塚瑛二だった。
「……お見舞い、邪魔かな?」
丁寧な声。
穏やかな笑み。
なのに。
空気が、一瞬で凍りついた。
勇人の手が、澪の手を強く握りしめる。
(……どうして……ここに……?)
瑛二の手には、花束があった。
白い百合。
清潔で、気品があって。
この病室に、あまりにも似合いすぎていて——だからこそ、不気味だった。
「澪さん。怪我はしていないようで、本当に良かった」
その言葉に、澪はうまく返事ができなかった。
「……どうして、ここが分かったんですか」
ようやく絞り出すと、瑛二は少しも迷わず答えた。
「救急車と一緒に、君が走っていくのを見えたから」
息が、止まりそうになる。
(……そこまで……見てた?)
勇人が、鋭く瑛二を睨みつけた。
「お前……澪を追ってきたのか?」
「違うよ」
瑛二は肩をすくめる。
「たまたま近くにいただけだ。会食が終わって、車で移動していて……サイレンが聞こえたから」
嘘をついているようには、聞こえない。
けれど、胸の奥のざわつきは、消えなかった。
瑛二はベッド脇に花束を置く。
「勇人くん。早く元気になるといい」
勇人は、答えなかった。
澪も、言葉を失っていた。
その沈黙を破ったのは、瑛二だった。
「澪さん。今日……少し時間をもらえますか?」
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