表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/28

8話

 勇人が倒れた夜から、三日が過ぎていた。


 勝浦の空はその間ずっと、晴れ切らないままだった。

 雨は降らない。けれど、雲は低く垂れこめ、海から吹き上げる湿った風が街を包み込み、肌にまとわりつく。


 まるで、泣くことすら許されずに溜め込まれた感情のように。


(……まだ、三日しか経ってないのに)


 澪は病院へ向かう坂道を、一歩ずつ踏みしめながら歩いていた。

 足元のアスファルトには、昨日の雨の名残が斑に残り、曇天を歪んだ形で映している。


 勇人は、助かった。


 命に別状はないと、医師は淡々と告げた。

 それでも——


「頭部打撲と肋骨骨折。しばらく入院が必要です」


 その言葉が、澪の胸に重く沈んだままだ。


(……私のせい、とは言われなかったけど)


 言われなかっただけで、消えたわけじゃない。

 あの夜、勇人が自分を庇わなければ。

 あの車が、あの角度で突っ込んでこなければ。


 病院の自動ドアが、低い音を立てて開く。

 消毒液の匂いが、鼻腔を刺した。


 白。

 床も、壁も、天井も。

 すべてが無機質な白で塗り固められた空間は、現実感を奪う。


 案内表示に従い、エレベーターに乗る。

 数字が一つずつ点灯していく間、澪の胸の奥では、鼓動だけが異様に大きく鳴っていた。


 ——ピン。


 ドアが開き、病棟の静けさが広がる。

 足音、カーテンの擦れる音、遠くで聞こえる点滴の規則的なリズム。


 勇人の病室の前で、澪は一度、深く息を吸った。


(……大丈夫)


 何が大丈夫なのか、自分でも分からない。

 ただ、そう言わなければ足が動かなかった。


 ノックをして、ゆっくりと扉を開ける。


「……勇人」


 病室の窓から差し込む曇った光が、白いシーツを淡く照らしていた。

 ベッドの上で、勇人は上半身を少し起こし、こちらを見ていた。


「おう」


 その声は、少しかすれている。

 けれど、澪の顔を見た瞬間、口元がわずかに緩んだ。


「来てくれたんだな」


「……当たり前でしょ」


 そう言いながら、澪はベッド脇の椅子に腰を下ろす。

 近づいて初めて、勇人の顔色の悪さがはっきりと分かった。


 頬はこけ、唇は乾いている。

 包帯が巻かれた額と、固定された肋骨。


(……こんなに……)


 白いシーツに埋もれる姿は、普段よりずっと小さく見えた。

 大人びて、でも同時に脆くて。


「悪いな……」


 勇人が、視線を逸らしながら言う。


「送ったはずがさ。逆に、澪に心配かけちまって」


「そんな言い方……」


 喉の奥が、きゅっと締めつけられる。

 声が震えないように、澪は下を向いた。


「勇人が……守ってくれたのに……」


 言葉にした瞬間、視界が滲んだ。

 涙が落ちる前に、必死で瞬きをする。


 勇人は小さく息を吐き、首を横に振った。


「……あれ、事故じゃないよな」


 静かな声だった。

 確認するようで、すでに答えを知っている声。


 澪の心臓が、どくりと跳ねる。


 同じ考えだった。


 あの車の速度。

 曲がり角から出てくるタイミング。

 そして、ほとんど残っていなかったブレーキ痕。


 偶然にしては、揃いすぎている。


 澪は一瞬、言葉を飲み込んだ。

 言えば、取り返しのつかない何かが動き出す気がしたから。


 それでも。


「……わざと、だと思う」


 自分でも驚くほど、声ははっきりと出た。


「私も……怖い」


 勇人の眉が、わずかに寄る。


「……澪。俺がこうなったの、アイツに関係があると思ってるんだろ?」


 その名前を出さなくても、分かった。


 平塚瑛二。


 その存在が、頭をよぎっただけで、澪の胸はきゅっと縮む。


「……分からない」


 正直に、そう言った。


「でも……怖い偶然が、多すぎるの。材料室のことも……まるで、最初から“知ってた”みたいで……」


 勇人は、しばらく黙って澪の言葉を聞いていた。

 そして、ゆっくりと手を伸ばし、澪の手を握った。


 熱い。

 けれど、どこか力が抜けている。


「澪」


 名前を呼ばれただけで、胸が痛くなる。


「……気をつけろ」


 勇人の声は低く、真剣だった。


「あいつ、お前を守るふりして近づいてるだけかもしれない。平塚の家、昔からそうなんだよ。優しさの皮を被って……中身は全部、支配したいだけだ」


 その言葉は、澪の胸に深く突き刺さった。


「……うん」


 短く、頷く。


 勇人は一度、呼吸を整えたあと、言葉を選ぶように続けた。


「……でもさ」


 澪の手を握る指に、ほんの少し力がこもる。


「澪を守りたいって、本気で思ってる奴だっているから」


 澪は、顔を上げた。


 勇人の目が、まっすぐこちらを見ていた。

 逃げ場のないほど、真っ直ぐに。


「俺だよ」


 ——ドクン。


 胸の奥で、何かが強く弾けた。


 勇人は笑っていなかった。

 冗談めかすときの、軽い表情でもない。


 ただ、静かに、真剣に。

 一人の人間として、澪を見ていた。


 その瞬間。


 ——コン。


 病室の扉が、軽くノックされた。


 澪が振り返る。

 看護師だと思った。


 けれど。


 扉の向こうに立っていたのは——

 黒い傘をたたみながら入ってくる、平塚瑛二だった。


「……お見舞い、邪魔かな?」


 丁寧な声。

 穏やかな笑み。


 なのに。


 空気が、一瞬で凍りついた。


 勇人の手が、澪の手を強く握りしめる。


(……どうして……ここに……?)


 瑛二の手には、花束があった。

 白い百合。


 清潔で、気品があって。

 この病室に、あまりにも似合いすぎていて——だからこそ、不気味だった。


「澪さん。怪我はしていないようで、本当に良かった」


 その言葉に、澪はうまく返事ができなかった。


「……どうして、ここが分かったんですか」


 ようやく絞り出すと、瑛二は少しも迷わず答えた。


「救急車と一緒に、君が走っていくのを見えたから」


 息が、止まりそうになる。


(……そこまで……見てた?)


 勇人が、鋭く瑛二を睨みつけた。


「お前……澪を追ってきたのか?」


「違うよ」


 瑛二は肩をすくめる。


「たまたま近くにいただけだ。会食が終わって、車で移動していて……サイレンが聞こえたから」


 嘘をついているようには、聞こえない。

 けれど、胸の奥のざわつきは、消えなかった。


 瑛二はベッド脇に花束を置く。


「勇人くん。早く元気になるといい」


 勇人は、答えなかった。

 澪も、言葉を失っていた。


 その沈黙を破ったのは、瑛二だった。


「澪さん。今日……少し時間をもらえますか?」

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ