7話
翌朝、澪はほとんど眠れぬまま家を出た。
瞼を閉じるたび、材料室の惨状が蘇る。
床に散らばった瓶、引き出しから引きずり出された古い包み紙、埃まみれの棚。
甘いはずの香りが、喉の奥で嫌な苦味に変わる感覚が、まだ体に残っていた。
(誰が……何のために……)
朝の空気は澄んでいるのに、胸の内側だけが重い。
足取りは自然と早くなり、気づけば店の前に立っていた。
暖簾をくぐると、いつもより早い時間だというのに、すでに明かりが灯っている。
中では、店主の原口が黙々と店内を点検していた。
大柄で、強面。
けれど、その手つきはいつも驚くほど丁寧だ。
繊細な甘さの団子を作る人の手。
「澪」
低い声に、澪の肩がわずかに跳ねる。
「昨日のヤツ……見た。材料室、めちゃくちゃだな」
その一言で、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「す、すみません……私が最後に鍵を――」
言い終わる前に、原口は首を横に振った。
「お前のせいじゃねえよ」
腕を組み、原口は天井を見上げるようにして、大きく一度だけ息を吐いた。
「……何も、盗まれてないといいが」
その言葉に、澪の心臓が大きく跳ねる。
(……一つ、消えてる)
喉の奥がひりつく。
母の資料箱。
蜜の配合や、失敗の記録、書きかけの走り書きが詰め込まれた、あの古い箱。
(言えない……)
言えば、母のノートの存在が広がってしまう。
それだけじゃない。
あの箱が、何の価値を持つか分からないまま、誰かの手に渡ったことが――怖かった。
澪は唇を噛み、視線を床に落とした。
原口はそれ以上、何も聞かなかった。
その沈黙が、逆に重くのしかかる。
――その時。
「おはよう」
柔らかく、澄んだ声。
一瞬で、澪の体が強張った。
入口に立っていたのは、平塚瑛二だった。
(……来た)
黒の上質なコートを肩から外し、自然な仕草で店内に入ってくる。
空気が、ほんのわずかに変わるのを澪は感じた。
勇人が奥から顔を出し、露骨に眉をひそめる。
「……今日も来たんだな」
「和菓子が好きだからね」
瑛二は穏やかに笑ったが、その視線は迷わず澪を探していた。
目が合った瞬間、背筋を冷たいものが走る。
「澪さん。昨日の夜は、よく眠れた?」
心臓が、嫌な音を立てた。
(……どうして、そんなことを)
答えられず、澪は視線を逸らす。
その微妙な間を察したのか、勇人が一歩前に出た。
「平塚さん。澪は仕事中だ。無闇に話しかけないでくれませんか」
「心配してるだけだよ」
瑛二は気分を害した様子もなく続ける。
「……昨夜、揺れたみたいだから」
その言い方。
まるで、何かを知っているかのような――。
澪の指先から、血の気が引いていく。
(まさか……材料室のこと……?)
瑛二は微笑んだまま、さらりと店内を見回す。
「店って、古いと隙間風が怖い。鍵も、古いままだと危ないね」
勇人の表情が、はっきりと変わった。
「……何を知ってる?」
「ただの一般論だよ」
瑛二は肩をすくめ、席に腰を下ろした。
「蜜大福を一つ」
注文の声は、どこまでも美しい。
けれど澪には、その音が、刃のように感じられた。
(材料室を荒らしたのは……本当に誰?)
甘い香りが、今日はどこか苦い。
昼過ぎ、店の忙しさがひと段落した頃だった。
「澪。ちょっと来るか」
勇人の声は、いつもより低かった。
澪は無言で頷き、エプロンを外して彼の後についていく。
裏口を抜けると、ひんやりとした空気が肌に触れた。
店の裏庭には古い藤棚があり、まだ固い蕾が房になって垂れ下がっている。
紫の色は薄く、今にもほどけそうで、けれどまだ咲かない。
——待つことを強いられているみたいだ。
澪は、そんなことを思った。
藤棚の下で立ち止まると、勇人は少し距離を取って澪を見た。
その目は真剣で、どこか迷いを含んでいる。
「……平塚瑛二のことだ」
その名前を聞いただけで、胸が小さく跳ねた。
「彼、なんか……危ないよな」
澪は言葉を選びながら答える。
「危ないって……。でも、表向きは、ただのお客さんで……」
勇人は首を横に振った。
「澪。俺、知ってるんだ。平塚家のことを」
風が吹き、藤の蕾がかすかに揺れた。
「平塚家……?」
勇人は一瞬、目を伏せたあと、覚悟を決めたように口を開く。
「……俺んち、昔、平塚家に潰されかけた」
「……え?」
初めて聞く話だった。
勇人がこんな表情で、家のことを語るのを、澪は見たことがない。
「親父の工場、小さな部品工場だったんだ。平塚財閥から下請けの仕事をもらってた。でもな——」
勇人の拳が、無意識に握られる。
「平塚の母親……平塚綾音が、無茶な条件を突きつけてきた。納期短縮、単価削減、品質保証。全部飲め、って」
澪は、黙って聞いていた。
「断ったら……取引、全部切られた。代わりなんて、いくらでもあるって顔でな」
淡々とした口調なのに、言葉の端に悔しさが滲む。
「……あっという間に、借金まみれだ。工場も、人も、守れなかった」
その名前を聞いた瞬間、澪の胸がひりついた。
平塚綾音。
——瑛二の母。
「その人は……冷酷な人だったの?」
「冷酷、って言葉じゃ足りない」
勇人は苦く笑った。
「支配的で、容赦がない。人の人生を“駒”みたいに動かす。……うちだけじゃない。“桜舞堂”にも噂があった」
「桜舞堂……?」
澪の喉が、ひくりと鳴る。
「澪の母さんのレシピ、平塚が狙ってたって話だ」
心臓が、大きく脈打った。
(……やっぱり)
「平塚綾音は、変な趣味があってさ。全国の老舗和菓子屋を集めて、“本物”だけを手元に置きたがってた。買収、圧力、引き抜き……手段は選ばない」
藤棚の影が、地面に濃く落ちている。
「桜舞堂も、買われそうになった。店主が断って……なんとか守ったらしいけど」
澪の胸に、母の後ろ姿が浮かぶ。
鍋の前に立ち、蜜の泡をじっと見つめていた横顔。
あの静けさの裏に、そんな圧力があったなんて。
「……お母さん……」
声が、震えた。
「澪。……瑛二も、知ってるはずだ。全部」
勇人は、はっきりと言った。
「母親が何をしてきたか。どれだけの人を傷つけたか。……それを背負ってる」
「じゃあ……瑛二は……」
言いかけて、澪は言葉を失った。
優しい笑顔。
穏やかな声。
けれど、どこか距離を詰めすぎる視線。
——贖罪。
——それとも、別の目的。
「平塚瑛二は危険だ」
勇人は、低く、強く言った。
「澪、お前に近づいてる理由が、“甘い言葉”だけだと思うな」
その瞬間だった。
ポケットの中で、携帯が震えた。
画面を見た澪は、息を止める。
澪さん、帰り道気をつけて。最近、物騒だから》
差出人は——平塚瑛二。
(……どうして、今?)
背中を、冷たいものが撫でた。
勇人も画面を覗き込み、顔色を変える。
「……こいつ、なんなんだよ」
藤の蕾が、また揺れた。
春の風は穏やかなはずなのに、どこか冷たい。
甘さの奥で、確かに毒が滲み始めていた。
——澪は、この日初めて。
平塚瑛二の“優しさ”を、
はっきりと「怖い」と思った。
夜になっても、澪の胸のざわめきは収まらなかった。
店の明かりを落とし、暖簾を片づけ、戸締りを確認する。
いつもなら無意識にこなしている作業が、今日は一つひとつ引っかかる。
鍵を回す音が、やけに大きく響いた。
「澪」
勇人が声をかけてきた。
「駅まで送る」
「え……大丈夫だよ、近いし」
「昨日のこと、もう忘れたのか」
強い口調ではない。
けれど、譲らない声音だった。
「犯人、まだ分かってないんだぞ。……二人で帰ったほうがいい」
澪は一瞬迷ったが、藤棚の下で聞いた話と、昼のメッセージが脳裏をよぎる。
「……うん。ありがとう」
夜の勝浦は、静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように、人影もまばらだ。
川のせせらぎが遠くで聞こえ、街灯が等間隔に道を照らしている。
オレンジ色の光が、アスファルトに長い影を落とす。
春の夜風は柔らかい。
けれど澪の胸は、ずっと硬いままだった。
「……勇人」
「ん?」
「今日、ありがとう。色々……教えてくれて」
勇人は少しだけ歩調を緩めた。
「謝るな。俺はただ……」
言葉を探しているようだった。
「澪が、嫌な目に遭うのを見たくないだけだ」
その横顔は、どこまでも真っ直ぐで、不器用で。
澪は胸の奥が、じんと温かくなるのを感じた。
その瞬間だった。
キィ——ッッ!!
耳を裂くような、急ブレーキの音。
「勇人、危ない!」
叫ぶより早く、白い車が視界に飛び込んできた。
街灯の光を反射しながら、異様な速さで迫ってくる。
勇人は一瞬で状況を理解し、澪の肩を強く突き飛ばした。
「澪——っ!!」
身体がよろめき、足がもつれる。
視界の端で、勇人の体が車の進路に残るのが見えた。
ガンッ!!
鈍く、重い音。
勇人の身体が、道路脇の金属製の柵に叩きつけられた。
反動で、彼は地面に崩れ落ちる。
「……っ!」
白い車は、止まらなかった。
何事もなかったかのように、夜の闇へと走り去る。
「ゆ、勇人……?」
声が、かすれる。
澪は駆け寄り、膝をついた。
勇人は苦しそうに息をし、片手で腹部を押さえている。
「勇人!! しっかりして!」
「だ……大丈夫……」
その声は、明らかに無理をしていた。
額から血が滲み、呼吸は浅く、速い。
触れた指先が、震えるほど冷たかった。
(事故……?)
一瞬そう思いかけて、すぐに否定する。
道路に、ブレーキ痕がほとんどない。
(……わざとだ)
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
澪は震える手でスマートフォンを取り出し、救急へ電話をかけた。
声が裏返り、何度も聞き返されながら、必死に状況を伝える。
遠くでサイレンの音が近づいてくるまでの時間が、異様に長く感じられた。
勇人は担架に乗せられ、救急車へ運ばれていく。
閉まるドアの向こうで、彼の姿が小さくなる。
「……勇人……」
足が、動かなかった。
その時だった。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
——嫌な予感が、確信に変わる。
画面に表示されたのは、たった一文。
澪さん、今日は無事でよかった》
送信者:平塚瑛二
時間表示は——“たった今”。
(……どうして)
喉が、鳴らない。
事故の直後に。
勇人が運ばれていく、このタイミングで。
偶然?
そんなはずがない。
恐怖が、ゆっくりと背骨を這い上がる。
澪は、震える指で文字を打った。
どこにいるの?》
数秒も経たずに、返信が来る。
徳島市で会食中だよ。離れている。証人もいる》
——用意された言葉。
(アリバイ……)
胸の奥が、冷えていく。
(じゃあ……誰が……?)
画面が滲む。
涙なのか、夜露なのか、分からない。
その夜、澪は初めて知った。
甘い言葉は、人を安心させるためだけのものじゃない。
距離を測り、心を縛り、逃げ場を塞ぐための——
刃にもなる。
静かな春の闇が、澪をひとり包み込む。
そして、まだ見ぬ“甘い声”が、
どれほど危険かも知らないまま。
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