6話
スマートフォンの画面は、すでに暗くなっている。
けれど、そこに一瞬だけ浮かび上がった名前と短い文章は、焼きつくように澪の脳裏に残っていた。
平塚瑛二。
そして、あまりに短く、あまりに重い一文。
──((怖がらせるつもりはなかった))
(どうして……番号を……)
布団の中で、澪は身体を丸める。
部屋は静まり返っているのに、頭の中だけがうるさい。
心臓の音が、耳の奥でやけに大きく響いていた。
考えれば考えるほど、答えはひとつしか浮かばない。
今日、店に来た誰か。
あるいは、もっと前から——自分の周囲を、静かに探っていた誰か。
指先が冷たい。
布団の中で、胸の前に両手を握りしめる。
(……勇人に、連絡した方がいい?)
スマートフォンを握り直す。
画面を点けるだけで、何かが決定的に変わってしまいそうで、指が止まった。
——「関わるな」
昼間の勇人の声が、はっきりと蘇る。
あれは忠告だったのか、それとも懇願だったのか。
もし、連絡してしまえば。
もし、今夜の出来事を話してしまえば。
勇人はきっと、自分を責める。
守れなかったと。
気づくのが遅れたと。
(……それは、嫌だ)
澪は、スマートフォンをそっと伏せた。
画面が闇に沈むのを、まるで何かを封じ込めるように見つめながら。
その代わり、枕元から一冊のノートを取り出す。
昼間、勇人の前で見つけた、母のもの。
表紙に触れた瞬間、胸の奥がわずかに緩んだ。
紙の感触が、懐かしい。
まるで、母の手に触れているかのような錯覚。
「……お母さん」
声に出すと、少しだけ現実に戻れた気がした。
澪は、ゆっくりとページを開く。
そこに並ぶのは、感情的な言葉ではない。
走り書きの想い出でもない。
“甘さの公式”
温度、時間、比率、湿度。
感覚を数値に落とし込み、何度でも同じ甘さを再現するための、冷静で執拗な記録。
(……どうして、途中でやめたの……?)
澪は、ノートの後半へと指を滑らせる。
ページの端が、わずかに折れている。
何度も開かれ、何度も閉じられた痕跡。
最後のページ。
書きかけの式。
消された跡。
迷いと葛藤が、紙の上に残っていた。
そのとき、ふと気づく。
(……これ)
数字の並びが、微妙におかしい。
致命的な誤りではない。
だが、完成には決して至らない、わずかな歪み。
(……わざと……?)
胸が、ひやりと冷える。
母は、完成させられなかったのではない。
——完成させて、壊した。
澪の背筋を、冷たいものが走った。
もし、この甘さが。
誰にでも、何度でも再現できるものだったとしたら。
(……それを、誰が欲しがる……?)
考えがまとまりきらないまま、再びスマートフォンが震えた。
スマートフォンの震えは、短く、それでいて鋭かった。
澪は、息を詰めたまま画面を見る。
──((怖がらせるつもりはなかった。本当に))
──((君を守れるのは、僕だけだ))
喉の奥が、きゅっと締めつけられる。
(……守る?)
その言葉は、あまりに優しげで、あまりに傲慢だった。
澪は、画面から視線を外し、天井を見上げる。
違う。
そう、心の中で否定する。
守る、という言葉の裏にあるものを、澪は直感的に理解してしまった。
——選ばせない。
——逃がさない。
それは、庇護ではなく、所有の宣言。
「……違う」
誰に向けた言葉でもなく、声にもならないほど小さく呟く。
だが、はっきりとした拒絶だった。
母の蜜を。
母の才能を。
そして——自分自身を。
奪うための、言い訳。
澪は、ノートを胸に抱きしめるようにして、目を閉じた。
眠ろうとしても、意識は沈まない。
甘い香りの記憶と、冷たい視線の気配が、交互に浮かんでは消える。
どれほど時間が経ったのか分からないまま、夜は白んだ。
♢♢♢
翌朝。
店の前の道は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
通学途中の学生の声。
遠くを走る車の音。
昨夜の出来事が、まるで夢だったかのように。
だが、店の裏手に回った瞬間、その幻想は崩れた。
材料室の扉が、半開きになっている。
中から漂う、混乱の気配。
棚は荒らされ、箱は引きずり出され、床には紙片が散乱していた。
甘い香りよりも、埃と焦りの匂いが鼻につく。
勇人は、黙ったまま棚を元に戻していた。
一つ一つ、乱れた秩序を修復するように。
澪は、その背中を見つめながら、胸の奥がちくりと痛む。
「……ごめん」
気づけば、そう口にしていた。
勇人の手が、ぴたりと止まる。
「澪のせいじゃない」
短く、きっぱりとした声。
振り返らないまま、続ける。
「……でも」
「いいから」
それ以上、言わせない調子だった。
しばらく沈黙が落ちる。
棚に瓶を戻す音だけが、規則正しく響く。
「やっぱり、始まってしまった」
ぽつりと、勇人が言った。
その声には、怒りよりも諦めが滲んでいた。
澪は、意を決する。
「……資料箱、なくなってた」
勇人の肩が、わずかに揺れる。
「……そうか」
深く、息を吐く音。
「中身は……母さんの研究記録だ」
澪は、初めて聞く言葉に、息を呑んだ。
「研究……?」
「ああ」
勇人は、ようやく澪の方を見た。
その目には、長い間抱え込んできた疲労が浮かんでいる。
「甘さを、武器に変えるための研究だ」
言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
武器。
甘さが。
「“再現できる甘さ”は、人を幸せにも、不幸にもする」
勇人は、淡々と続ける。
「依存させることも、支配することもできる。
それを、母さんは誰よりも分かってた」
澪は、昨夜見たノートを思い出す。
意図的に歪められた数字。
完成しない公式。
だから、壊した。
だから、隠した。
「……母さんは、それで命を落とした」
空気が、凍りついた。
「事故って……」
「表向きはな」
勇人は、視線を落とす。
「でも俺は、事故だと思ってない」
澪の視界が、じわりと滲む。
(じゃあ……瑛二は……)
その名前を口に出さずとも、勇人は察したようだった。
「……あいつから、連絡が来ただろ」
澪は、黙って頷く。
勇人は、一歩近づき、低い声で言った。
「いいか、澪」
一拍、間を置く。
「平塚瑛二は、“母さんの蜜”を愛しているんじゃない」
そして、はっきりと言い切った。
「——“母さんを失わせた甘さ”を、もう一度手に入れたいだけだ」
その言葉は、宣告のようだった。
——“母さんを失わせた甘さ”。
澪は、何も言えずに立ち尽くす。
頭では理解しようとしているのに、感情が追いつかない。
母が命を落とした理由。
甘さが、誰かにとっての欲望になった瞬間。
それらが一本の線でつながり、胸の奥を締めつけた。
「……じゃあ」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「私が、蜜を作り続けること自体が……危険、なの?」
勇人は、少しだけ考え込むように視線を逸らす。
「危険になるかどうかは……作る側が、どう向き合うかだ」
澪を見る目は、真剣だった。
「だから俺は、澪を守りたい」
その“守る”という言葉は、昨夜のメッセージとはまるで違う。
縛るためでも、奪うためでもない。
澪は、小さく息を吐いた。
「……逃げろ、とは言わないんだね」
「ああ」
勇人は、頷く。
「澪が選ぶことだ。
逃げるのも、立ち向かうのも」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
同時に、覚悟の重みも感じた。
♢♢♢
その夜。
店は閉め、作業場には澪ひとり。
鍋に火を入れると、ゆっくりと温度が上がり始める。
砂糖が溶け、果実の香りが立ちのぼる。
かつては、安心の匂いだった。
母と並び、黙々と作業をする時間の象徴。
けれど今は、違う。
その甘さの向こう側に、欲望があることを知ってしまった。
(……それでも)
澪は、木べらを握り直す。
手の震えは、もう止まっていた。
(逃げない)
母が遺したもの。
未完の蜜。
それを、誰かの野心や執着に委ねるつもりはない。
鍋の中で、蜜が静かに泡立つ。
温度計の針を確認し、ノートを開く。
歪められた数式。
完成しない公式。
澪は、そこに母の意志を感じていた。
(……完成させて、選ばせるつもりだったんだ)
誰にでも渡すためではない。
欲しがる者に差し出すためでもない。
誰のために使うのかを、作り手自身が選ぶための甘さ。
澪は、数字を一つ、書き換えた。
慎重に。
だが、迷いはない。
鍋の中の蜜が、これまでとは違う香りを放ち始める。
深く、澄んだ甘さ。
それは、母の背中をなぞるようでいて、確かに違うものだった。
(……越える)
母を否定するのではない。
母が立ち止まった場所から、一歩、前へ。
澪は、鍋の中を見つめる。
完成させる。
そして、選ぶ。
甘さを、誰のために使うのか。
誰を、幸せにするのか。
春の夜の静けさの中で、
蜜は、ゆっくりと温度を上げていった。
それは、母を越えるための一歩であり、
澪自身が“作り手”として立つための、最初の決意だった。
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