5話
店内に差し込む午後の光は、先ほどまでの作業場の柔らかさとは違い、現実の輪郭をはっきりと照らしていた。
ガラス越しの陽射しが床板に反射し、微細な埃までも白く浮かび上がらせている。
平塚瑛二は、まるでこの店の空気に馴染んでいるかのように自然な足取りで中へ入ってきた。
その靴音は控えめで、しかし確実に存在を主張する。
「邪魔をするつもりはなかったんだけどね」
そう言いながら、瑛二は店内を一瞥する。
陳列棚、木のカウンター、壁に掛けられた古い暖簾。
その視線は、品定めするようでもあり、懐かしむようでもあった。
「……用件は?」
勇人が一歩前に出る。
澪を庇うような位置取りだった。
瑛二はその動きを見て、わずかに口角を上げる。
「警戒されているね。まあ、無理もない」
澪は、腕に抱えたノートの存在を意識しながら、そっと勇人の背後に立った。
瑛二の視線が、時折こちらに流れてくるのが分かる。
「澪さん」
名を呼ばれ、澪の胸が跳ねた。
「何か……隠している?」
柔らかな声。
けれど、その問いは、答えを知っている者のそれだった。
「い、いいえ……」
言葉とは裏腹に、澪の腕に力が入る。
瑛二は小さく息を吐き、残念そうに首を振った。
「君は正直だと思っていたんだけどな」
その視線が、勇人に移る。
「……まだ、何も話していないんだね」
勇人は、黙ったまま睨み返す。
「まあいい。急ぐ話でもない」
瑛二はそう言って、カウンターに近づいた。
指先で木の表面をなぞり、その感触を確かめる。
「いい店だ。手入れが行き届いている。……君のお母さんがいた頃と、よく似ている」
澪の心臓が、大きく跳ねた。
「……どうして……母のことを……」
問いかける声は、思った以上に震えていた。
瑛二は振り返り、澪をまっすぐに見つめる。
「昔ね。一度だけ、君のお母さんが作った“蜜”を口にしたことがある」
その瞬間、作業場の甘い香りが、記憶の中で重なった。
「純度の高い甘さだった。ただ甘いだけじゃない。輪郭があって、深さがあって……そして、どこか危うい」
瑛二は、楽しげに語る。
「正直に言おう。あれほど完成された和菓子には、その後一度も出会っていない」
勇人が、低く言った。
「……それを、澪に言う意味は?」
「事実だからさ」
瑛二は肩をすくめる。
「澪さんの才能は、彼女の母親譲りだ。むしろ……それ以上かもしれない」
澪の喉が、ひくりと鳴った。
(才能……?)
自分では、ただ当たり前にやってきただけのこと。
それを、外側からこうして断言されることに、戸惑いが広がる。
「僕はね」
瑛二は、少し声を落とした。
「その才能が、偶然なのか、必然なのか……ずっと知りたかった」
「証拠を、探していたんだ」
その言葉が、澪の中で反響する。
(証拠って……何……?)
瑛二の視線が、澪の腕元に落ちる。
一瞬だけ。
だが、確実に。
澪は反射的にノートを抱え直した。
瑛二は、その仕草を見逃さなかったが、何も言わなかった。
代わりに、柔らかな笑みを浮かべる。
「……今日は、このくらいにしておこう」
踵を返し、出口へ向かいながら、ふと立ち止まる。
「澪さん」
振り返らずに、言った。
「もし、“甘さの答え”を知りたくなったら……一人で抱え込まない方がいい」
鈴が鳴り、扉が閉まる。
静寂が、重く落ちた。
澪は、ようやく息を吐いた。
「……あの人、何者なの?」
問いは、勇人に向けられた。
勇人は、長い沈黙の末、答えた。
「……関わるな」
それだけだった。
その夜。
閉店作業を終え、店の灯りを落としたあとも、澪の胸はざわついたままだった。
勇人と別れ、ひとりで戸締まりを確認する。
鍵の感触を、何度も確かめる。
(大丈夫……ちゃんと閉めた)
そう自分に言い聞かせ、帰路についた。
だが、その不安は、正しかった。
閉店後の店は、昼間とは別の顔を持っていた。
外灯の光がガラス越しに差し込み、店内の影を不自然な形に引き延ばしている。
昼には温もりを帯びていた木の床も、夜になるとひやりと冷たく、足音がやけに大きく響いた。
澪は帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
その息さえも、静寂の中では過剰に聞こえる。
(……今日は、疲れた)
勇人の言葉。
瑛二の視線。
母のノート。
頭の中で、いくつもの断片が絡まり合い、ほどけない。
電気を落とし、裏口へ向かう。
作業場の前を通り過ぎようとした、そのときだった。
ガシャン——!!
金属とガラスがぶつかる、はっきりとした破壊音。
「……っ!」
心臓が跳ね上がり、思わず立ち止まる。
音は、材料室の方からだった。
(なに……?)
一瞬、逃げたい衝動が走る。
だが、足は勝手に動いていた。
「……誰?」
声は、驚くほど小さかった。
澪は、そっと材料室の扉に手をかける。
指先が冷たい。
扉を開けた瞬間、鼻を突く甘い匂いが流れ出した。
「……!」
棚が倒れ、床には材料の袋が散乱している。
粉が舞い、瓶が割れ、蜜が床を濡らしていた。
照明に反射して、甘い液体が不気味に光る。
(荒らされてる……!)
喉が鳴り、呼吸が浅くなる。
こんな音が、偶然で起きるはずがない。
誰かが、意図的に——。
床に、かすかな汚れが残っているのに気づいた。
靴底の跡。
それも、外へ向かうように。
窓を見る。
鍵が、半開きだった。
「……どうして」
背筋に、冷たい汗が流れる。
(レシピ……? それとも……)
材料室の奥。
無意識に、視線が向かう。
そこにあるはずの、古い資料箱。
——ない。
一瞬、理解できなかった。
目を凝らし、何度も確認する。
(……ない……)
息が荒くなり、胸が締めつけられる。
(誰かが……持ち去った?)
頭の中に、昼間の会話が蘇る。
——「証拠を探していた」
——「甘さの答え」
(まさか……)
震える手で、倒れた棚を元に戻そうとして、力が入らず、諦めた。
今は、片付けるべきじゃない。
澪は、裏口の鍵をもう一度確かめ、店を出た。
夜の空気が、異様に冷たく感じられる。
その夜、澪は布団に入っても眠れなかった。
暗闇の中で、天井の染みを数える。
耳を澄ますと、家の軋む音さえも誰かの気配のように思えてしまう。
(偶然なわけ、ない……)
母のノートを見つけた、その日に近いタイミングでの侵入。
材料ではなく、資料箱だけが消えている。
(狙われてたんだ……最初から)
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
不意に、スマートフォンが震えた。
「……っ」
心臓が跳ねる。
画面に浮かび上がった、名前。
平塚瑛二》
澪さん。今日は驚かせてごめん。また話したい》
指先が、凍りついたように動かない。
「……どうして……」
澪は、彼に番号を教えた覚えがない。
部屋の暗さが、急に濃くなった気がした。
“甘さ”という言葉が、もう優しさではなく、
どろりとした影のように、胸に絡みつく。
母が遺したもの。
未完の蜜。
そして、それを欲しがる人間。
澪は、ようやく理解し始めていた。
——これは、ただの和菓子の話ではない。
扉は、確かに開いてしまった。
甘くて、危険な世界への。
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