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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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4話

 春の陽射しが、格子窓を通して作業場の床に斜めの線を描いていた。

 午前の光はまだ柔らかく、粉塵を含んだ空気の中でゆっくりと揺れている。

 鍋の下で燃える火の小さな音と、果実が煮詰まっていく微かな泡立ちが、静かな室内に規則正しいリズムを刻んでいた。

 作業場には、ほのかに甘い香りが満ちている。

 それは砂糖の単調な甘さではなく、果物が熱を受けてほどけていく途中の、未完成な匂いだった。

 澪はその香りを肺いっぱいに吸い込みながら、まな板の上に並べた果実を一つずつ手に取る。


 果物の皮を剥く動作は、ほとんど無意識だった。

 包丁の刃が皮に入る角度、指先の力加減、回転の速さ。

 どれも長年の積み重ねで身体に染みついている。

 澪は、剥いたばかりの果実を指先で軽く押す。

 ほんのわずかな反発。

 その奥に潜む水分量、熟れ具合、甘味の芯。


(……今日のは、少し張りが強い)


 鼻を近づけ、香りを確かめる。

 甘さの奥に、わずかな酸の輪郭が立っている。


「今日のは……ほんの少し、酸味が強いかな」


 誰に聞かせるでもなく呟き、果実を鍋へ落とした。

 コトリ、と小さな音がして、すぐに湯気が立ちのぼる。


 火を入れ、砂糖を加える。

 澪は鍋を覗き込みながら、木べらで静かに撹拌した。

 混ぜる速度は一定。速すぎず、遅すぎず。

 鍋底に熱が均等に回るよう、わずかに円を描く。

 温度計にはまだ触れない。

 澪にとって、数字は確認であって、判断ではなかった。

 甘さがふくらみはじめ、果実の輪郭が溶けていくまでの、ほんの短い時間。

 その間に、澪の舌には、まだ一口も味見していない蜜の完成形が浮かび上がる。


 ——このままだと、少し尖る。

 ——あと一段階、甘さを包ませたい。


(……あと、1.2くらい)


 数字にしてしまえば単純だ。

 だが、その「1.2」を、どの瞬間に、どの温度で、どの砂糖で足すか。

 それを理屈ではなく、感覚で理解していることが、澪自身の才能だった。

 鍋から立ちのぼる湯気の向こうで、光が揺れる。

 その揺らぎの中に、ふと、記憶の影が混じった。


 ——昔も、こんな匂いだった。


 幼い頃、母の背中越しに嗅いだ香り。

 甘くて、少し切なくて、なぜか胸の奥がきゅっと締めつけられる匂い。


(……考えちゃだめ)


 澪は小さく首を振り、意識を鍋に戻そうとした。


 そのときだった。


「……澪」


 背後から声をかけられ、澪の肩がぴくりと揺れた。

 包丁を置き、ゆっくり振り返る。

 作業場の入り口に、勇人が立っていた。

 春の光を背に受けて、逆光の中で表情は読みづらい。

 だが、その立ち方だけで、いつもと違う空気を纏っていることが分かった。


「……どうしたの?」


 澪が尋ねると、勇人は一歩踏み出し、作業場の中を見回した。

 鍋、棚、壁際のレシピ棚。

 その視線は、どこか落ち着かず、警戒するように動いている。


「昨日さ……あのレシピ棚」


 一瞬、言葉を切り、勇人は唇を噛んだ。


「……また、動かされてなかった?」


 澪は息を吞んだ。

 胸の奥が、すっと冷える。


「……うん。鍵は、ちゃんと閉めてたんだけど」


 思い出すだけで、背中に薄く汗がにじむ。

 確かに、鍵はかけた。

 それなのに、棚の中の配置が、ほんのわずかに変わっていた。

 勇人の表情が、はっきりと険しくなる。


「誰だ……」


 低く、押し殺した声。


「絶対、誰かが狙ってる」


「勇人……そんなに心配しなくても——」


 澪が言いかけた瞬間、勇人は強く首を振った。


「心配もするさ」


 作業場の隅、影の溜まる場所へ視線を送りながら、言葉を絞り出す。


「あの棚には……」


 言いかけて、勇人は口を噤んだ。

 拳を握りしめ、しばらく黙り込む。

 澪は、その沈黙の意味を知っている。


 ——母のこと。


 勇人は、澪の母の話題になると、必ずこうして言葉を濁す。

 まるで、触れてはいけないものに指が触れそうになったかのように。


「……母さんが残したもの、でしょ?」


 澪は、あえて静かに言った。

 勇人の肩が、わずかに跳ねる。


「……ああ」


 視線を逸らし、ぎゅっと拳を握りしめる。


「澪の母さんのレシピは、誰にも渡しちゃいけない。……絶対に」


 その言い切りに、澪は言葉を失った。


(どうして、そこまで……?)


 勇人の声には、単なる警戒以上のものが滲んでいた。

 恐れ。

 そして、後悔の影。


 澪の胸に疑問が残る。

 けれど、それを口にする勇気も、真実を聞く覚悟も、まだなかった。

 鍋の中で、蜜が静かに泡立つ。

 甘い香りが、二人の間の重い沈黙を包み込んでいた。


 鍋の中で、蜜が静かに呼吸するように泡立っていた。

 澪は木べらを止め、火を弱める。

 勇人との会話が途切れたあとも、作業場の空気は張りつめたままだった。


「……ねえ、勇人」


 澪は鍋から目を離さずに言った。

 視線を合わせてしまうと、踏み込んではいけない領域に入ってしまいそうで、怖かった。


「もし、本当に誰かが狙っているなら……目的は何だと思う?」


 勇人はすぐには答えなかった。

 しばらく沈黙が続き、火のはぜる音だけが響く。


「……知識だ」


 ようやく、短く言った。


「澪の母さんの残したものは、単なるレシピじゃない。再現性のある技術だ。理屈にできる“甘さ”だった」


 澪の指が、わずかに震えた。


「……再現性?」


「ああ。誰がやっても、条件さえ揃えば同じ味に辿り着く。それがどれだけ危険か……」


 勇人は言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。


「澪の母さんは、それを完成させる直前で、全部を封じた」


 ——封じた。


 その言葉が、澪の胸に重く落ちる。


「どうして……?」


 問いかけは、ほとんど囁きだった。


 勇人は答えなかった。

 代わりに、作業場の窓へ視線を移し、外の明るさを見つめる。


「……俺が、守るって決めたんだ」


 それ以上、何も語らない。

 澪はそれ以上、聞くことができなかった。

 蜜の温度が、澪の感覚の中で“ちょうど”に近づく。

 彼女は砂糖をほんのひとつまみ加え、静かに混ぜた。

 甘さが、丸くなる。


(……これでいい)


 澪は鍋を火から下ろし、深く息を吐いた。

 胸の奥に溜まっていた緊張が、わずかにほどける。

 だが、不安は消えなかった。


 昼過ぎ。

 店の裏口から差し込む光は、午前中よりも白く、現実的だった。


 澪は仕入れの荷物を片付けながら、頭のどこかで勇人の言葉を反芻していた。

 “再現性のある甘さ”。

 それは、才能に頼らず、理屈で作れる味。


(お母さんは……そこまで辿り着いてたんだ)


 段ボールを積み終え、ふと棚の一角に視線をやる。

 そこに、見慣れないものがあった。

 古い木箱。

 角が擦れ、金具は錆び、長い時間放置されていたような佇まい。


(……こんな箱、あったっけ?)


 澪は一瞬、触れるのをためらった。

 だが、胸の奥に芽生えた小さな引力に逆らえず、そっと蓋に手をかける。


 軋む音とともに、箱が開いた。


 中には、ノートが一冊だけ入っていた。

 布張りの表紙は色褪せ、手の跡が残っている。


 澪の喉が、ひくりと鳴った。

 表紙に書かれた文字。

 細く、けれど迷いのない筆致。


 ——「甘さの公式」


(……お母さんの字)


 指先が、はっきりと震えた。


 ノートを持ち上げると、紙の重みが掌に伝わる。

 長い時間を吸い込んだ紙の匂い。

 インクの残り香。


 ページをめくる。


「甘味指数」「蜜温度」「果実比率」


 整然と並ぶ項目と、数字、式。

 感覚ではなく、言語化された甘さ。


(……こんなの、見たことない)


 澪の鼓動が早まる。

 理解できる部分と、理解できない部分が混在している。

 だが、直感的に分かった。


 ——これは、完成してしまえば、誰でも真似できる。

 ページは途中で、唐突に終わっていた。


「……途中で……」


 声が、かすれる。

 その瞬間だった。

 背後で、床が軋む音がした。

 澪は反射的にノートを閉じ、胸に抱き寄せる。


「澪……何見てるの?」


 振り返ると、勇人が立っていた。

 その顔色は、明らかに変わっている。

 視線は、澪の腕の中にあるものへ。


「な、なんでもないよ……」


 澪は、言葉を探す。


「ただの……古いノートで——」


「見せて」


 静かな声。

 だが、拒絶を許さない響き。

 澪は一歩、後ずさった。


「だめ……これは……」


「澪!」


 勇人の声が、作業場に強く響いた。


「それは……見ない方がいい。いいんだ、知らなくて」


「どうして? お母さんのものだよ……。私が見ちゃいけない理由なんて——」


「あるんだ!」


 勇人の声が震えた。

 怒りではない。恐怖だ。


「澪……お願いだから、そのノートは……」


 そこまで言いかけた、そのとき。


 店の入り口の鈴が鳴った。

 澪と勇人は、同時に振り返る。

 柔らかな足音。

 場違いなほど整った身なりの男が、光の中に立っていた。


「こんにちは。今日も来てしまったよ」


 平塚瑛二。


 穏やかな笑顔の奥に、冷たい光を宿した瞳。

 澪の背筋を、ひやりとしたものが撫でた。

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