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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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3/5

3話

 その日の昼下がり、澪は一人、作業場の奥で蜜の試作をしていた。

 昨日の配合とは微妙に異なる。

 柑橘の皮をほんのわずか増やし、砂糖の溶かし方も変えた。


(……12.6、いや……)


 舌の奥で、数値が揺れる。

 瑛二の言葉が、頭から離れなかった。


 ——砂糖より甘い。


 あの言葉は、なぜあんなにも胸に残ったのか。

 褒められた記憶はこれまでにもあったはずなのに。


(知らない人だったから……?)


 それとも。


(……見抜かれた気がしたから?)


 澪は無意識に、棚の方を見た。

 あそこにあるのは、母のレシピ。

 正確な分量、温度、時間。

 そして——数字にできない“感覚”。

 澪は、母の背中を思い出す。


 ——甘さは、怖がっちゃいけないのよ。


 幼い頃、そう言われた。


 ——甘さを恐れると、味は逃げる。


 その言葉の意味が、今も完全にはわからない。


 同じ頃。


 勝浦町から少し離れた、ビジネスホテルの一室で、平塚瑛二は窓辺に立っていた。


 手には、昨日買った柑橘蜜大福の包み紙。

 すでに空だが、紙には微かに甘い香りが残っている。

 瑛二はそれを鼻先に近づけ、静かに息を吸った。


(……やっぱり)


 目を閉じる。


 脳裏に浮かぶのは、かつて味わった“数字化できない甘さ”。


 ——あの人と、同じだ。


 中田澪。

 名を聞いた瞬間、確信に近いものがあった。


(娘か)


 直接の確証はない。

 だが、蜜の香りと、舌に残る余韻が、否定を許さなかった。

 瑛二は、机の上に広げた古いメモを見下ろす。

 そこには、走り書きの文字。


『桜舞堂/女将・中田□□

 甘味指数不定

 再現不可』


「……再現不可、か」


 小さく笑う。

 再現できないなら、

 作り手ごと、手に入れればいい。


 瑛二はスマートフォンを取り出し、勝浦町の地図を拡大した。

 桜舞堂の位置に、指先で印を付ける。


(もう一度、通う)


 甘さは、近づけば近づくほど、輪郭を現す。


 夕方。


 澪が閉店作業をしていると、勇人が裏口から顔を出した。


「澪、これ」


 差し出されたのは、小さな封筒。


「何?」


「親方に頼まれて。古い帳簿」


 澪は受け取りながら、ふと勇人の顔を見る。


「……昨日の人、また来ると思う?」


 勇人の表情が、一瞬だけ硬くなった。


「来る」


 即答だった。


「……どうして?」


 勇人は答えず、視線を逸らす。


「……勘だ」


 だが、その声には、ただの勘以上の重みがあった。


(勇人、何か知ってる)


 そう思いながらも、澪はそれ以上踏み込めなかった。


 その夜。


 閉店後の桜舞堂は、昼間とは別の顔を持つ。

 古い木材が軋む音、外を流れる川のせせらぎ。

 澪は作業場で一人、蜜の鍋を片付けていた。

 ふと、戸の向こうで、微かな音がした。


 ——……。


 気のせいだと思おうとした瞬間、

 棚の方から、紙の擦れる音が聞こえた。


「……誰?」


 声が震える。

 返事はない。

 澪は、そっと棚に近づいた。

 鍵は、確かに掛けたはずだった。


 ——だが、開いている。


 レシピ帳の一冊が、棚から引き抜かれ、

 机の上に置かれている。

 ページが、開かれていた。


(……母の)


 指が、勝手に動いた。

 その瞬間。

 背後で、低い声が響いた。


「やっぱり……ここにあった」


 澪の全身が、凍りついた。

 振り返る。

 暗がりの中、立っていたのは——


「平塚……さん?」


 瑛二は、穏やかに微笑んでいた。


「驚かせてしまいましたか」


 その声は、昨日と同じ。

 優しく、なめらかで——逃げ場を塞ぐ。


「鍵が……」


 澪が言うと、瑛二は軽く肩をすくめた。


「古い鍵でしたから。少し触れただけです」


 少し、なんて言葉で済むはずがない。

 澪の胸が、恐怖で締めつけられる。


「勝手に……入らないでください」


 震える声。

 瑛二は一歩、距離を詰めた。


「すみません。ただ……確かめたかった」


「何を……?」


 瑛二の視線が、開かれたレシピ帳に落ちる。


「この甘さが、本物かどうかを」


 その目には、もはや“客”の色はなかった。

 澪は悟る。


 ——この人は、甘さを求めているんじゃない。


 甘さを、支配しようとしている。


「……帰ってください」


 澪はそう言いながらも、自分の足が一歩も動いていないことに気づいていた。

 恐怖で固まっているのではない。

 目の前の男の“穏やかさ”が、逆に現実感を奪っていた。

 瑛二はゆっくりと首を傾げる。


「そんなに怯えなくていい。触れただけだ」


 触れただけ。

 その言葉が、澪の中で不気味に反響する。


 棚から引き抜かれたレシピ帳。

 開かれているページは、澪が幼い頃から何度も見てきた、母の字。


 ——柑橘蜜・改

(※湿度が高い日は、火止めを三秒早める)


 母の癖のある丸い文字。


「……それ、私の母のです」


 澪がそう言うと、瑛二の表情が、わずかに揺れた。


「やはり」


 確信。


「あなたのお母さんは……素晴らしい職人だった」


 澪の胸が、怒りと戸惑いで震える。


「知ったようなことを……」


「知っているとも」


 瑛二は、レシピ帳から視線を外さずに言った。


「十年以上前、私は“再現できない甘さ”を探していた。あなたの母は、その数少ない一人だった」


 澪は、息を呑んだ。


 母が亡くなった理由。

 町の人は、病気だと言った。

 過労だと、そう片づけられた。


 だが——


「……母は、何をしたんですか」


 声が、かすれる。

 瑛二は、ようやく澪を見た。

 その目は、優しさと同時に、冷たい執着を湛えている。


「何もしなかった。ただ、渡さなかっただけだ」


「……何を?」


「甘さの核心を」


 その瞬間、澪の中で、何かがはっきりと繋がった。

 ——この人は、母から“奪えなかった”。


 だから今、娘である自分を通して、手に入れようとしている。


「……出てください」


 澪は、今度こそはっきり言った。

 瑛二は、小さく息を吐き、残念そうに首を振る。


「澪さん。あなたは、気づいていない」


 一歩、近づく。


「あなたの甘さは、もう境界を越えている」


「来ないで!」


 澪が叫んだ、その瞬間。

——ガラッ!

 裏口の戸が、乱暴に開いた。


「澪!」


 勇人だった。

 息を切らし、作業着のまま、立っている。

 瑛二は振り返り、勇人を一瞥すると、わずかに眉を上げた。


「……君は」


「出ていけ」


 勇人は、澪の前に立ち、瑛二を睨み据えた。


「ここは、客が勝手に入っていい場所じゃない」


 瑛二は、しばらく二人を見比べてから、静かにレシピ帳を棚へ戻した。


「今日は、ここまでにしておこう」


 まるで、自分が主導権を握っているかのような口調。


「澪さん」


 最後に、澪の名を呼ぶ。


「あなたの甘さは、逃げない。

 いずれ、必ず——」


 言葉を濁し、瑛二は踵を返した。

 足音が遠ざかり、戸が閉まる。


 静寂。


 澪の膝から、力が抜けた。


「……大丈夫か」


 勇人が支える。


「うん……ありがとう」


 震えは、しばらく止まらなかった。


♢♢♢


 夜が更けて。


 二人で店の戸締まりを確認したあと、澪は作業場に一人残った。


 レシピ棚の前に立つ。


 母の文字に、そっと触れる。


(お母さん……)


 甘さは、守らなければならないものなのか。

 それとも、抗えない“呪い”なのか。

 澪は、蜜の鍋を見つめる。

 今日の甘味指数は、12.8。

 ——だが、その数字が、初めて怖くなった。

 棚の奥で、レシピ帳がかすかに音を立てた気がした。

 誰もいないのに。

 甘さは、すでに誰かを呼び寄せている。

 それが、どれほど危険なものであっても。

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