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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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28話最終話

 瑛二は、手のかからない子だった。


 それは、褒め言葉として使われることが多い。

 だが春子には、その言葉が、時折ひどく重く聞こえた。


 泣きわめくことも少なく、

 癇癪を起こすこともほとんどない。

 幼稚園でも、小学校でも、「優しい子」「空気が読める子」と言われた。


 先生からそう告げられるたび、春子は微笑みながら、胸の奥で小さく息を詰めた。


 ——それは、本当にこの子の性質だろうか。

 ——それとも、周りを見すぎてしまった結果だろうか。


 瑛二は、人の顔色をよく見ていた。


 相手が困っていれば、自然と近づく。

 誰かが怒られていれば、自分のせいではなくても、肩をすくめる。


 ある日、瑛二がぽつりと言った。


「お母さん、僕がやっとくよ」


 その声は、あまりにも当たり前のようで、春子の胸がざわついた。


 ——それ、誰に教わったの?


 問いかけは、喉の奥で止まった。


 中学生になる頃、瑛二はますます「いい子」になった。


 部活でも、クラスでも、誰かの穴を埋める役割を引き受ける。

 断れないのではなく、「断らない」ことを選んでいるように見えた。


 春子は、何度か声をかけようとした。


「無理しなくていいんだよ」

「嫌なら、嫌って言っていいんだよ」


 だが、瑛二は笑って答える。


「大丈夫だよ。別に、嫌じゃないし」


 その笑顔が、かつての自分と重なって、春子は言葉を飲み込んだ。


 ——本当に、嫌じゃないの?

 ——それとも、嫌だと感じる前に、飲み込んでしまっているの?


 確かめる勇気が、春子にはなかった。


 高校生になると、瑛二は一層、周囲に気を配るようになった。


 友人関係の調整役。

 衝突を避けるための緩衝材。

 誰かが傷つかないように、言葉を選び続ける日々。


 春子は、遠くから見守るしかなかった。


 ——言わなきゃ。

 ——今度こそ、ちゃんと伝えなきゃ。


 そう思いながら、日常に流されていく。


 伝えられなかった言葉は、積み重なり、

 やがて「今さら言えない言葉」になっていった。


 そして、ある日。


 瑛二が、帰ってこなくなった。


 最初は、連絡が取れないだけだと思った。

 友達の家に泊まっているのかもしれない。

 少し距離を置きたいだけかもしれない。


 だが、夜が明けても、連絡はなかった。


 春子の胸に、冷たいものが広がる。


 ——あの子は、自分を責めすぎている。


 理由は分からなくても、直感だけははっきりしていた。


 ⸻


 警察に相談し、学校にも連絡を入れ、

 できることはすべてした。


 それでも、瑛二は見つからなかった。


 その夜、春子は一人、部屋に座り込んだ。


 泣きたいのに、涙が出なかった。

 代わりに、妙な静けさがあった。


 ——私は、知っていたはずなのに。


 あの子が、どこかで限界を迎えることを。

 それでも、「大丈夫」という言葉に、甘えてしまった。


 春子は、声に出して呟いた。


「……瑛二。あなた、ちゃんとご飯食べてる?」


 届くはずのない問いかけ。

 だが、言わずにはいられなかった。


 胸の奥に、静かな決意が灯る。


 ——どれだけ時間がかかっても、必ず見つける。

 ——そして、抱きしめて言う。


「あなたは、どこにも行かなくていい」


 その言葉だけは、今度こそ、伝えると決めた。

 春子が本当に隠していたものは、

 過去そのものではなかった。


 悠真との結婚。

 失敗した関係。

 逃げるように実家へ戻った事実。


 それらは、瑛二が成長する過程で、断片的に伝えてきた。

 隠していたつもりはなかった。


 だが、決して語らなかったことが、一つだけあった。


 それは——


「自分も、逃げたかった」という気持ちだった。


 春子は、ずっと「耐える側」の人間だと思われてきた。

 実際、そう振る舞ってきた。


 人の弱さに寄り添い、

 怒りを受け止め、

 場が壊れないように自分を後ろへ引く。


 だが、瑛二が失踪した夜、

 春子は初めて、はっきりと自覚した。


 ——私も、あのとき、消えたかった。


 悠真の言葉に追い詰められていた頃。

 夜泣きの止まらない瑛二を抱きしめながら、

「明日が来なければいい」と、ほんの一瞬、思ったこと。


 その思考を、春子は強く否定し、

 二度と浮かばないよう、心の底へ押し込めた。


 母として、そんなことを思ってはいけない。

 一人の人間としても、弱すぎる。


 そうやって、自分の“逃げたい気持ち”だけを、存在しなかったことにした。


 だからこそ、分かってしまったのだ。


 瑛二が、どんな気持ちで姿を消したのか。


 理由は一つではないだろう。

 誰かを責めたいわけでもないだろう。


 ただ、


 ——このままでは、自分が壊れてしまう。


 その感覚だけが、限界まで積み重なった。


 春子自身が、かつて感じたものと、あまりにも似ていた。


「……瑛二」


 夜の部屋で、春子はひとり、声に出す。


「あなたがいなくなったの、私のせいじゃない」


「でもね……」


 言葉が、そこで詰まった。


 ——本当は、言いたかった。


「私も、あなたと同じだった」

「逃げたい夜が、確かにあった」

「だから、あなたは弱くなんかない」


 それを、ずっと言えずにいた。


 母としての立場が、

 “強い大人”でいなければならないという思い込みが、

 その言葉を封じていた。


 春子は、ようやく理解した。


 自分が隠していたのは、弱さではなく、共感だった。


 瑛二を守るために、

「同じだった」と言えなかった。


 だが、それこそが、

 瑛二を一人にしてしまった理由の一つだったのかもしれない。


 春子は、立ち上がった。


 探す。

 時間がかかっても、場所が分からなくても。


 そして、もし再会できたら——

 もう、完璧な母でいようとはしない。


 ただ、一人の人間として言うのだ。


「私も、逃げたかったことがある」


「でも、生きてきた」


「だから、あなたも戻ってきていい」


 春子は、初めて自分に許した。


 守るだけの母でなくていい。

 弱さを語る母でいていい。


 窓の外、夜明け前の空が、わずかに白み始めていた。


 春子は、胸に手を当て、静かに息を吸う。


 ——瑛二。


 ——あなたが戻る場所は、ちゃんとある。


 ——それは、

 ——「何も背負わなくていい場所」だ。


 そう心の中で告げながら、

 春子は、今日も探し続ける。


 息子と、

 そしてかつての自分を。

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