27話
結婚は、逃げ場でもあった。
そう気づくのは、ずっと後になってからだ。
当時の春子にとって、結婚は「関係を安定させるための選択」だった。
悠真の不安定さも、言葉の棘も、環境が変われば和らぐ。
そう信じたかった。
「一緒に生きていく」ことを選べば、彼はきっと落ち着く。
自分が“正式な居場所”になれば、彼は安心できる。
それは希望であると同時に、祈りでもあった。
結婚を決めたとき、悠真は泣いた。
役所からの帰り道、人気のない公園で、突然立ち止まって。
「……ありがとう」
「俺みたいなのを、選んでくれて」
春子は、胸が詰まった。
「そんな言い方しないで」
「だって、俺、春子がいなかったら……」
言葉の続きを、悠真は飲み込んだ。
その姿を見て、春子は強く思った。
——この人を、見捨てちゃいけない。
それが「愛」なのか、「責任」なのか、区別はつかなかった。
結婚生活の最初は、穏やかだった。
小さなアパートで、二人分の生活を回す。
収入は多くなかったが、必要なものは足りていた。
悠真は就職し、忙しそうにしていた。
春子はパートをしながら、家を整えた。
夕飯の時間。
洗濯物の匂い。
何気ない会話。
——普通の幸せ。
春子は、それを噛みしめるように過ごしていた。
だが、瑛二を妊娠した頃から、少しずつ、また歯車がずれ始めた。
妊娠を告げたとき、悠真は喜んだ。
何度もお腹に手を当てて、名前を考え始めた。
「男の子だったらさ……」
その姿を見て、春子は心から安心した。
——大丈夫。
——この人は、父親になる。
そう信じた。
瑛二が生まれた日。
分娩室の外で、悠真は泣いていた。
「俺、変わるから」
「絶対に守るから」
その言葉に、春子の胸は熱くなった。
だが、現実は、誓いだけでは変わらなかった。
夜泣き。
寝不足。
思うように回らない家事。
春子の体力は、少しずつ削られていった。
それでも、弱音は吐かなかった。
吐く余裕もなかった。
悠真は仕事の不満を抱え、帰宅すると口数が減った。
「なんで、こんなに散らかってるんだ」
「一日家にいるんだから、もう少しできるだろ」
その言葉が、春子の胸に突き刺さる。
——私は、ちゃんとやれていない。
そう思う癖は、もう身体に染みついていた。
瑛二は、泣き止まない子だった。
抱いても、あやしても、理由の分からない泣き声が続く夜。
春子は、必死で笑顔を保った。
「大丈夫、大丈夫」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
悠真は、苛立っていた。
「まだ泣いてるのか」
「……少し、静かにさせられない?」
その言葉で、春子の心は、決定的に折れた。
——この子は、悪くない。
——泣いているだけ。
だが、それを口に出す力は、もう残っていなかった。
限界を悟ったのは、ある夜だった。
体調を崩し、動けなくなった春子。
家事も、育児も、手が回らない。
悠真は、苛立ちを隠さなかった。
「なんで、こんなことで寝込むんだよ」
「俺だって、疲れてるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、春子の中で、何かが静かに切れた。
——このままじゃ、瑛二が壊れる。
それは、恐怖というより、確信だった。
その夜、泣き止まない瑛二を抱きしめながら、春子は決めた。
——この子に、同じ思いはさせない。
翌朝、荷物をまとめた。
実家に戻る、と告げたとき、悠真は止めなかった。
ただ、遠い目で言った。
「……俺、変われなかったな」
その言葉に、春子は何も返せなかった。
責めることも、慰めることもできなかった。
——私も、間違えた。
そう思っていたから。
実家の玄関をくぐったとき、春子は不思議な感覚に包まれた。
懐かしさと、申し訳なさと、安堵が、同時に胸に広がる。
「……帰ってきたんだな」
母はそれだけ言って、余計なことは聞かなかった。
責めもしなければ、理由を掘り下げることもしない。
その沈黙が、春子にはありがたかった。
弟は、少し距離を保つようにして接してきた。
どう声をかければいいか分からない、という顔をしていた。
それでよかった。
誰かに気を遣われるほど、今の春子には余裕がなかった。
実家での生活は、静かだった。
瑛二は、環境が変わったせいか、少しずつ夜泣きが減った。
それだけで、春子の呼吸は楽になった。
母は、必要以上に手を出さなかった。
ただ、洗濯物が増えているときは黙って回し、
春子が寝落ちしていると、瑛二をそっと抱いてくれていた。
——私は、甘えている。
そう思う気持ちと同時に、胸の奥で、何かがほどけていくのを感じていた。
夜、布団に入った瑛二の寝顔を見つめる時間。
それは、春子にとって、最も静かな時間だった。
小さな胸の上下。
規則正しい寝息。
そのすべてが、愛おしくて、怖かった。
——この子の人生に、私はどれだけ影響を与えるのだろう。
自分の弱さも、間違いも、全部抱えたまま母になった。
その事実が、今さら重くのしかかる。
春子は、自分のこれまでを、初めて真正面から振り返っていた。
——私は、いつも気を張っていた。
——誰かの感情を先回りして、背負い込んでいた。
——自分を犠牲にすることを、優しさだと勘違いしていた。
その生き方は、楽ではなかった。
だが、手放す方法も分からなかった。
ふと、瑛二の顔を見る。
——この子、私に似ている。
その直感に、胸が締めつけられた。
泣き声に敏感で、
人の声色に反応し、
不安になると、すぐに自分を責める。
まだ言葉も話せないのに、もう兆しはあった。
「瑛二……」
声に出した瞬間、涙が溢れた。
「あなたには、あなたの人生を生きてほしい」
それは、願いだった。
懺悔でもあった。
——誰かの期待に縛られなくていい。
——誰かを救うために、自分を削らなくていい。
そう言い聞かせながら、春子は思っていた。
——きっと、この子も、人を放っておけない。
それは、血なのか、育ちなのか。
どちらにしても、消せるものではない。
春子は、決めた。
この子には、ちゃんと「選ばせよう」と。
人に尽くすことも、距離を取ることも。
守ることも、離れることも。
「どっちでもいい」と、伝えられる母になろう。
その決意は、静かだったが、確かなものだった。
年月は、容赦なく流れた。
瑛二は成長し、優しい子になった。
春子は、その優しさを誇らしく思う一方で、
どこかで、いつも不安を抱えていた。
——この子は、自分を後回しにしていないだろうか。
問いかけは、胸の奥で消えなかった。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




