26話
春子は、昔から人の気配に敏感だった。
それは「空気が読める」という言葉で片づけられるような、器用なものではない。
むしろ逆で、読まなくてもいいものまで、勝手に胸の奥に流れ込んでくる感覚だった。
障子の向こうで、誰かが立ち止まった気配。
廊下を歩く足音の、わずかな速さの違い。
鍋の蓋が置かれる音の強さひとつで、母の機嫌が分かる。
春子は、それらを「察しよう」としたことはなかった。
ただ、気づいてしまうのだ。
気づいてしまえば、対応しないわけにはいかない。
幼いころ、春子の家は古かった。
徳島の山際にある木造の家で、夜になると家そのものが呼吸しているかのように、きしみ音を立てた。
風が吹くたびに、柱のどこかが鳴る。
屋根裏を小動物が走る音がすることもあった。
だが、春子が本当に耳を澄ませていたのは、家の音ではない。
玄関の鍵が回る音。
引き戸が開く、その一瞬前の気配。
——まだかな。
——今日は、遅いのかな。
仕事で遅くなる母を待つ時間は、春子にとって「静かな緊張」の時間だった。
弟はまだ小さく、先に寝かしつけなければならない。
夕飯の準備も、洗濯物を取り込むのも、春子の役目だった。
「春ちゃん、ありがとうね」
母はそう言ってくれた。
それが嫌だったわけではない。
むしろ、嬉しかった。
——役に立っている。
——ここにいていい。
その感覚が、春子を支えていた。
ただ、知らないうちに、彼女の中には一つの癖が根づいていった。
自分が頑張れば、周りは穏やかでいられる。
その思い込みは、幼い春子にとって、生きるための知恵だった。
誰かが困っていると、放っておけない。
誰かが笑っていると、胸が少し軽くなる。
誰かの荒れた声を聞くと、理由もなく謝りたくなる。
春子は、そうやって「自分の感情」よりも先に、「誰かの感情」を受け取る子どもだった。
学校では「優しい子」と言われた。
先生からの評価も悪くなかった。
ただ、家に帰ると、どっと疲れが押し寄せた。
——今日は、ちゃんとできただろうか。
——誰かを嫌な気持ちにさせていないだろうか。
そんなことを、布団の中で考えていた。
眠りに落ちる直前、いつも胸の奥が少しだけ苦しかった。
大学へ進学し、徳島市へ出たとき。
春子は、人生で初めて「誰の気配も背負わない時間」を知った。
六畳一間のアパート。
薄いカーテン越しに入る、午後の光。
自分一人分の生活音だけが、そこにはあった。
最初は、落ち着かなかった。
静かすぎて、何か大事なものを聞き逃している気がした。
誰かの気配を探して、無意識に耳を澄ませてしまう。
だが、少しずつ、春子はその静けさを「心地いい」と感じるようになった。
昼休み、一人で入る小さなカフェ。
窓際の席で、本を開く。
ページをめくる音。
コーヒーの湯気。
外を行き交う人の気配はあるのに、誰とも関わらなくていい空間。
——世界から切り離されているみたい。
それが、春子は好きだった。
そこで出会ったのが、悠真だった。
最初は、顔も名前も、はっきり覚えていない。
ただ、同じゼミの懇親会で、隣に座っていた男の人。
柔らかい声。
人の話を遮らず、ちゃんと最後まで聞く姿勢。
「春子さんは、よく気がつくよね」
そう言われたとき、春子は少し驚いた。
気づくことは、当たり前だった。
誰にでも見えているものだと思っていた。
「そうかな……?」
「うん。誰かが言い淀むとき、必ず間を埋めようとするでしょ」
春子は、思わず笑ってしまった。
——見られている。
——評価されている、じゃなくて、理解されている。
そんな感覚は、初めてだった。
悠真は、穏やかな人だった。
少なくとも、そのときの春子には、そう見えた。
悠真という人間を、春子は「説明できるほど」理解していたわけではなかった。
ただ、一緒にいると、胸の奥が静かになる。
それだけだった。
大学の構内で並んで歩くとき。
ゼミ室の隅で、同じ資料を覗き込むとき。
春子は、いつもより肩の力が抜けている自分に気づいた。
「無理して喋らなくていいんだ」
悠真は、そういう空気を自然と作る人だった。
沈黙が続いても、気まずくならない。
言葉を探して焦る必要もない。
それは春子にとって、救いだった。
ある日、春子がカフェで本を読んでいると、悠真が声をかけてきた。
「ここ、よく来るの?」
「うん。落ち着くから」
「分かる。俺も、ここ好きだ」
それだけの会話だったが、春子は不思議と心が温かくなった。
“好みが同じ”というより、“居場所が重なる”感覚。
それから、二人は自然と一緒に過ごす時間が増えていった。
講義の後、少しだけ散歩をする。
夕方の川沿いを歩きながら、他愛のない話をする。
悠真は、自分のことを多く語らなかった。
だが、春子の話はよく聞いた。
「大変だったね」
その一言を、いつも適切なタイミングでくれる。
春子は、その言葉を浴びるたびに、胸の奥に溜まっていた何かが、少しずつ溶けていくのを感じていた。
やがて、付き合うようになるのに、時間はかからなかった。
告白は、悠真からだった。
「春子さんといると、落ち着くんだ」
それは、情熱的な言葉ではなかった。
だが、春子にとっては十分すぎるほどだった。
——落ち着く。
——一緒にいて、安心できる。
それこそ、彼女がずっと求めていたものだった。
春子は、迷わず頷いた。
付き合い始めた最初の一年間は、穏やかだった。
悠真は優しかったし、春子を尊重してくれた。
些細なことでも「ありがとう」と言ってくれる。
春子は、彼のために何かをしている自分が好きだった。
料理を作る。
体調を気遣う。
話を聞く。
それは、無理をしている感覚ではなかった。
むしろ、自然な延長だった。
——私は、こういう役割が向いている。
そんなふうに思っていた。
だが、少しずつ、歪みは生まれていた。
悠真は、春子が他人に向ける優しさに、微妙な表情を浮かべることが増えた。
「また相談されてたの?」
「うん、ちょっとだけ」
「……春子さんって、断れないよね」
その言い方は、責めているわけではなかった。
むしろ、心配しているようにも聞こえた。
春子は、胸がちくりとしたが、笑って流した。
「大丈夫だよ」
その言葉が、いつからか、二人の間で増えていった。
就職活動が始まると、空気は変わった。
春子は、面接でも自然体で話せるタイプだった。
人と向き合うことに慣れていたからだ。
一方、悠真は違った。
書類で落ちることが続き、面接でもうまくいかない。
彼の中で、焦りと不安が積み重なっていった。
「春子は、いいよな」
その言葉が、最初にこぼれたのは、夜の電話だった。
「人に好かれるし、面接官ともすぐ打ち解けるだろ?」
冗談のような口調。
だが、どこか棘があった。
春子は、慌てて否定した。
「そんなことないよ。たまたまだから」
「……そうかな」
その沈黙が、春子の胸を締めつけた。
それから、悠真の言葉は少しずつ変わっていった。
「今日、帰り遅かったよな?」
「うん、ゼミの子に相談されてて」
「男?」
一瞬、春子は言葉を失った。
「……男女関係なく、だよ」
「ふうん」
それ以上は何も言わない。
だが、その“何も言わない”が、春子を追い詰めた。
——私、何か悪いことをした?
そんな思考が、無意識に浮かぶようになっていた。
春子は、彼を責めなかった。
悠真が弱っていることが、分かっていたからだ。
自信を失い、追い詰められていることが、痛いほど伝わってきた。
「大丈夫だよ」
「悠真なら、きっと」
そう言い続けることが、自分の役割だと思っていた。
だがその頃から、春子は気づかぬうちに、自分の行動を制限し始めていた。
相談を受けても、早めに切り上げる。
帰りが遅くならないように気をつける。
誰と会ったかを、先に説明する。
——波風を立てないために。
それが、春子の“いつものやり方”だった。
それが「寄り添いすぎ」だと気づいたのは、ずっと後のことだった。
このときの春子は、ただ思っていた。
——私が支えれば、この人は立ち直る。
——私が我慢すれば、関係は壊れない。
その考えが、どれほど自分を削っていたのかを、彼女はまだ知らなかった。
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