25話
瑛二は、これまで祈ったことがなかった。
祈りは、弱い者が縋るものだと思っていた。
願いを叶えてもらうための、取引のような行為。
平塚家では、祈りよりも契約が重んじられた。
願うよりも、手に入れる。
待つよりも、動かす。
だから瑛二は、神に向かって頭を下げた記憶がない。
だが今、胸の奥に生まれた感情は、
祈りとしか呼びようがなかった。
***
無人駅のホームに、列車が滑り込む。
金属が擦れる音。
風を切る音。
それらに紛れて、
瑛二は、静かに目を閉じた。
(澪)
名前を、心の中で呼ぶ。
声に出せば、何かが壊れてしまいそうだった。
彼女の人生が、
彼女の甘さが、
誰の所有物にもならずに続いていくこと。
それだけを、願った。
見返りはいらない。
報いも、赦しも、理解も。
ただ、彼女が彼女であり続けられる世界を。
それは、誰かに与えられるものではない。
祈って叶うものでもない。
それでも。
何もしないよりは、ましだった。
***
列車の扉が開く。
乗客はまばらで、
誰も瑛二に注目しない。
それが、少しだけ救いだった。
瑛二は、足を踏み出す。
一歩。
その瞬間、
胸の奥で、何かが静かに切れた。
執着。
幻想。
「もしも」の未来。
それらが、音もなくほどけていく。
完全に消えたわけではない。
傷跡のように、残っている。
だが、それでいい。
傷は、痛みを教えてくれる。
二度と、同じ過ちを繰り返さないための、印だ。
***
車内の席に座り、窓の外を眺める。
海岸線が、ゆっくりと遠ざかっていく。
潮の匂いも、次第に薄れていく。
その変化を、瑛二ははっきりと感じ取っていた。
――離れていく。
澪のいる世界から。
それは、悲しみではある。
だが、選んだ悲しみだ。
誰かを守るために、
誰かを解放するために、
自分が背負うべき痛み。
それを、初めて“正しい重さ”だと思えた。
***
列車が速度を上げる。
窓に映る自分の顔は、
少しだけ、知らない表情をしていた。
張りついた微笑でも、
無表情でもない。
疲れているが、逃げてはいない顔。
それで、十分だった。
***
瑛二は、ポケットから例の写真を取り出す。
澪の母の蜜菓子。
自由だった甘さ。
彼は、それを破らなかった。
捨てなかった。
ただ、写真立てにも入れず、
大切そうに扱うこともせず、
再び、ポケットに戻した。
過去は、持ち歩いてもいい。
だが、振り回されてはいけない。
それが、今の瑛二の精一杯の整理だった。
***
列車が、トンネルに入る。
一瞬、視界が暗くなる。
だが、すぐに光が戻る。
瑛二は、その移り変わりを、静かに受け止めた。
(俺は、これから……)
まだ、答えはない。
甘さも、毒も持たない、
空白の未来。
それは、怖かった。
だが同時に、
初めて“奪わずに生きられる可能性”でもあった。
***
列車は、次の駅へ向かう。
行き先は、特別な場所ではない。
名前を聞いても、誰も振り返らないような町。
それでいい。
そこで、瑛二は学ぶだろう。
欲しすぎないこと。
囲わないこと。
甘さに頼らないこと。
人と人の距離を、
自分で測るということを。
***
瑛二は、目を閉じる。
そして、生まれて初めて――
誰のためでもなく、
贖罪のためでもなく、
愛の言い訳でもなく、
ただ、自分が人として生き直すために、
静かに、呼吸を整えた。
列車は、名前も知らない駅をいくつも通り過ぎていく。
車内アナウンスが淡々と駅名を告げるたび、
瑛二は、そのどれもが自分とは無関係であることに、奇妙な安堵を覚えた。
目的地は決めていない。
降りる駅も、働く場所も、住む場所も。
それは、これまでの人生では考えられないことだった。
平塚家の中で生きていた頃、
瑛二の未来は常に“決められて”いた。
何を学び、
誰と関わり、
どの価値を守り、
何を手に入れるか。
選択肢は提示されていたが、
選ぶ自由はなかった。
だが今、
未来は真っ白だった。
甘さもない。
毒もない。
成功の保証も、失敗の免罪もない。
それでも――
その空白を、瑛二は初めて“自分のもの”だと感じていた。
***
母の顔が、ふと脳裏をよぎる。
最後に交わした会話は、短かった。
『本当に、それでいいの?』
責める声でも、怒りでもない。
ただ、理解できないものを見る目だった。
「……はい」
それ以上、言葉は必要なかった。
母は、瑛二を愛していた。
それは、疑いようがない。
だが、その愛は、
相手の形を変えてでも所有する愛だった。
瑛二は、その愛の中で育ち、
同じ形を、澪に差し出してしまった。
だからこそ、
その連鎖を、自分の代で終わらせなければならなかった。
母を否定するためではない。
母を断罪するためでもない。
ただ、同じ毒を、
次の誰かに渡さないために。
***
列車が、少し大きな駅に停まる。
乗り降りする人の波に紛れ、
瑛二は、ふと立ち上がった。
理由はない。
衝動でもない。
ただ、
「ここで降りてもいい」と思えた。
それが、十分な理由だった。
ホームに足を下ろす。
見知らぬ町の空気は、
澪の甘さとも、
母の甘露とも違う。
無味乾燥で、
少し埃っぽくて、
現実的だった。
瑛二は、深く息を吸う。
甘くない。
だが、息が詰まらない。
それだけで、十分だった。
***
駅前の小さなベンチに腰を下ろし、
瑛二は、鞄の中を確かめる。
最低限の荷物。
通帳。
身分証。
そして、
澪の母の蜜菓子の写真。
一瞬、迷ってから、
瑛二はその写真を取り出し、
静かに眺めた。
もう、胸は締めつけられない。
懐かしさはある。
痛みも、完全には消えていない。
だが、
“取り戻したい”という衝動は、もうなかった。
過去は、過去だ。
奪ったものは、戻らない。
だからこそ、
これから奪わないことが、唯一の責任。
瑛二は、写真を折り、
今度こそ、ゴミ箱に捨てた。
惜別ではない。
決別でもない。
ただ、整理だった。
***
夕方。
町の小さな食堂で、
瑛二は定食を頼んだ。
特別でも、甘くもない、
ごく普通の味。
一口食べて、
ふと、思う。
(……これでいい)
澪がいたら、
きっと、こんなことを言うだろう。
「甘さがなくても、ちゃんと美味しいですよ」
その声は、
もう隣にはない。
だが、
瑛二の中に、確かに残っていた。
***
夜。
安宿の小さな部屋。
ベッドに腰を下ろし、
瑛二は、天井を見つめる。
ここから先、
何者にもなれないかもしれない。
成功しないかもしれない。
誰にも評価されないかもしれない。
それでも。
誰かの人生を、
甘さで縛ることは、もうしない。
それだけは、決めていた。
***
電気を消す前、
瑛二は、もう一度だけ、心の中で祈った。
――澪。
どうか、
君の甘さが、
君自身の手の中で、形を変え続けますように。
誰かに奪われず、
誰かに管理されず、
君が選び続けられますように。
それが叶うかどうかは、わからない。
祈りとは、
叶う保証のない感情だ。
それでも。
初めて、
瑛二は“願いを手放したまま”祈ることができた。
***
布団に横になり、
目を閉じる。
胸の奥には、
甘さも、毒もない。
あるのは、
静かな痛みと、
未完成な希望だけ。
それでいい。
それが、
瑛二が選んだ、
空白の未来だった。




