表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/28

25話

 瑛二は、これまで祈ったことがなかった。


 祈りは、弱い者が縋るものだと思っていた。

 願いを叶えてもらうための、取引のような行為。


 平塚家では、祈りよりも契約が重んじられた。

 願うよりも、手に入れる。

 待つよりも、動かす。


 だから瑛二は、神に向かって頭を下げた記憶がない。


 だが今、胸の奥に生まれた感情は、

 祈りとしか呼びようがなかった。


 ***


 無人駅のホームに、列車が滑り込む。


 金属が擦れる音。

 風を切る音。


 それらに紛れて、

 瑛二は、静かに目を閉じた。


(澪)


 名前を、心の中で呼ぶ。


 声に出せば、何かが壊れてしまいそうだった。


 彼女の人生が、

 彼女の甘さが、

 誰の所有物にもならずに続いていくこと。


 それだけを、願った。


 見返りはいらない。

 報いも、赦しも、理解も。


 ただ、彼女が彼女であり続けられる世界を。


 それは、誰かに与えられるものではない。

 祈って叶うものでもない。


 それでも。


 何もしないよりは、ましだった。


 ***


 列車の扉が開く。


 乗客はまばらで、

 誰も瑛二に注目しない。


 それが、少しだけ救いだった。


 瑛二は、足を踏み出す。


 一歩。


 その瞬間、

 胸の奥で、何かが静かに切れた。


 執着。

 幻想。

 「もしも」の未来。


 それらが、音もなくほどけていく。


 完全に消えたわけではない。

 傷跡のように、残っている。


 だが、それでいい。


 傷は、痛みを教えてくれる。


 二度と、同じ過ちを繰り返さないための、印だ。


 ***


 車内の席に座り、窓の外を眺める。


 海岸線が、ゆっくりと遠ざかっていく。


 潮の匂いも、次第に薄れていく。


 その変化を、瑛二ははっきりと感じ取っていた。


 ――離れていく。


 澪のいる世界から。


 それは、悲しみではある。

 だが、選んだ悲しみだ。


 誰かを守るために、

 誰かを解放するために、

 自分が背負うべき痛み。


 それを、初めて“正しい重さ”だと思えた。


 ***


 列車が速度を上げる。


 窓に映る自分の顔は、

 少しだけ、知らない表情をしていた。


 張りついた微笑でも、

 無表情でもない。


 疲れているが、逃げてはいない顔。


 それで、十分だった。


 ***


 瑛二は、ポケットから例の写真を取り出す。


 澪の母の蜜菓子。


 自由だった甘さ。


 彼は、それを破らなかった。

 捨てなかった。


 ただ、写真立てにも入れず、

 大切そうに扱うこともせず、

 再び、ポケットに戻した。


 過去は、持ち歩いてもいい。

 だが、振り回されてはいけない。


 それが、今の瑛二の精一杯の整理だった。


 ***


 列車が、トンネルに入る。


 一瞬、視界が暗くなる。


 だが、すぐに光が戻る。


 瑛二は、その移り変わりを、静かに受け止めた。


(俺は、これから……)


 まだ、答えはない。


 甘さも、毒も持たない、

 空白の未来。


 それは、怖かった。


 だが同時に、

 初めて“奪わずに生きられる可能性”でもあった。


 ***


 列車は、次の駅へ向かう。


 行き先は、特別な場所ではない。

 名前を聞いても、誰も振り返らないような町。


 それでいい。


 そこで、瑛二は学ぶだろう。


 欲しすぎないこと。

 囲わないこと。

 甘さに頼らないこと。


 人と人の距離を、

 自分で測るということを。


 ***


 瑛二は、目を閉じる。


 そして、生まれて初めて――


 誰のためでもなく、

 贖罪のためでもなく、

 愛の言い訳でもなく、


 ただ、自分が人として生き直すために、


 静かに、呼吸を整えた。

 列車は、名前も知らない駅をいくつも通り過ぎていく。


 車内アナウンスが淡々と駅名を告げるたび、

 瑛二は、そのどれもが自分とは無関係であることに、奇妙な安堵を覚えた。


 目的地は決めていない。

 降りる駅も、働く場所も、住む場所も。


 それは、これまでの人生では考えられないことだった。


 平塚家の中で生きていた頃、

 瑛二の未来は常に“決められて”いた。


 何を学び、

 誰と関わり、

 どの価値を守り、

 何を手に入れるか。


 選択肢は提示されていたが、

 選ぶ自由はなかった。


 だが今、

 未来は真っ白だった。


 甘さもない。

 毒もない。

 成功の保証も、失敗の免罪もない。


 それでも――

 その空白を、瑛二は初めて“自分のもの”だと感じていた。


 ***


 母の顔が、ふと脳裏をよぎる。


 最後に交わした会話は、短かった。


『本当に、それでいいの?』


 責める声でも、怒りでもない。

 ただ、理解できないものを見る目だった。


「……はい」


 それ以上、言葉は必要なかった。


 母は、瑛二を愛していた。

 それは、疑いようがない。


 だが、その愛は、

 相手の形を変えてでも所有する愛だった。


 瑛二は、その愛の中で育ち、

 同じ形を、澪に差し出してしまった。


 だからこそ、

 その連鎖を、自分の代で終わらせなければならなかった。


 母を否定するためではない。

 母を断罪するためでもない。


 ただ、同じ毒を、

 次の誰かに渡さないために。


 ***


 列車が、少し大きな駅に停まる。


 乗り降りする人の波に紛れ、

 瑛二は、ふと立ち上がった。


 理由はない。

 衝動でもない。


 ただ、

 「ここで降りてもいい」と思えた。


 それが、十分な理由だった。


 ホームに足を下ろす。


 見知らぬ町の空気は、

 澪の甘さとも、

 母の甘露とも違う。


 無味乾燥で、

 少し埃っぽくて、

 現実的だった。


 瑛二は、深く息を吸う。


 甘くない。

 だが、息が詰まらない。


 それだけで、十分だった。


 ***


 駅前の小さなベンチに腰を下ろし、

 瑛二は、鞄の中を確かめる。


 最低限の荷物。

 通帳。

 身分証。


 そして、

 澪の母の蜜菓子の写真。


 一瞬、迷ってから、

 瑛二はその写真を取り出し、

 静かに眺めた。


 もう、胸は締めつけられない。


 懐かしさはある。

 痛みも、完全には消えていない。


 だが、

 “取り戻したい”という衝動は、もうなかった。


 過去は、過去だ。


 奪ったものは、戻らない。

 だからこそ、

 これから奪わないことが、唯一の責任。


 瑛二は、写真を折り、

 今度こそ、ゴミ箱に捨てた。


 惜別ではない。

 決別でもない。


 ただ、整理だった。


 ***


 夕方。


 町の小さな食堂で、

 瑛二は定食を頼んだ。


 特別でも、甘くもない、

 ごく普通の味。


 一口食べて、

 ふと、思う。


(……これでいい)


 澪がいたら、

 きっと、こんなことを言うだろう。


「甘さがなくても、ちゃんと美味しいですよ」


 その声は、

 もう隣にはない。


 だが、

 瑛二の中に、確かに残っていた。


 ***


 夜。


 安宿の小さな部屋。


 ベッドに腰を下ろし、

 瑛二は、天井を見つめる。


 ここから先、

 何者にもなれないかもしれない。


 成功しないかもしれない。

 誰にも評価されないかもしれない。


 それでも。


 誰かの人生を、

 甘さで縛ることは、もうしない。


 それだけは、決めていた。


 ***


 電気を消す前、

 瑛二は、もう一度だけ、心の中で祈った。


 ――澪。


 どうか、

 君の甘さが、

 君自身の手の中で、形を変え続けますように。


 誰かに奪われず、

 誰かに管理されず、

 君が選び続けられますように。


 それが叶うかどうかは、わからない。


 祈りとは、

 叶う保証のない感情だ。


 それでも。


 初めて、

 瑛二は“願いを手放したまま”祈ることができた。


 ***


 布団に横になり、

 目を閉じる。


 胸の奥には、

 甘さも、毒もない。


 あるのは、

 静かな痛みと、

 未完成な希望だけ。


 それでいい。


 それが、

 瑛二が選んだ、

 空白の未来だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ