24話
澪と過ごした時間のすべてが、支配だったわけではない。
その事実が、今になって瑛二の胸を締めつける。
奪わなかった瞬間。
手を伸ばしながら、引き戻した時間。
ほんのわずかだが、確かに存在していた。
***
桜舞堂の奥座敷。
午後の光が、障子越しにやわらかく差し込み、畳に淡い影を落としていた。
店の表からは、客の話し声や器の触れ合う音がかすかに届く。
澪は、低い机に向かい、帳面を広げていた。
蜜菓子の配合を書き留めるための、細かな文字。
瑛二は、その向かい側に座り、湯のみを手にしていた。
「……そんなに見ないでください」
視線に気づいた澪が、顔を上げる。
少しだけ眉を寄せた、その表情。
「見ているつもりはなかった」
「嘘です。ずっとこっち見てました」
瑛二は、わずかに口元を緩めた。
「集中していると、邪魔になる」
「集中してないから、大丈夫です」
澪はそう言って、帳面を閉じた。
ペンを置き、湯のみを両手で包む。
沈黙。
それは、不快なものではなかった。
埋めなくていい間。
この時間だけは、管理しようと思わなかった。
瑛二は、ふと自分の手元に視線を落とす。
何も握っていない。
命令も、条件も、用意していない。
ただ、同じ空間にいる。
それだけで、胸の奥が満たされる感覚があった。
(……こういう時間が)
続けばいいと、思ってしまった。
その願いが、すでに危険だったのだと、今ならわかる。
***
別の日。
店が閉まったあと、澪は表の暖簾を片付けながら言った。
「今日は、海がきれいですよ」
「そうか」
「散歩、行きませんか?」
一瞬、躊躇が走る。
予定はなかった。
だが、こういう誘いは、管理の余地がない。
行き先も、時間も、澪の選択だ。
それでも、瑛二は頷いた。
夕暮れの海沿い。
波の音と、足元の砂利の音。
会話は少なく、間が多かった。
「……瑛二さん」
「何だ」
「甘いもの、好きですか?」
唐突な質問だった。
「……嫌いではない」
「“好き”じゃないんですね」
澪は、くすっと笑った。
「甘さって、疲れませんか?」
「……疲れる?」
「ずっと甘いと、口の中が麻痺する気がして」
その言葉に、瑛二は何も返せなかった。
ああ、この人は。
最初から、わかっていたのかもしれない。
甘さの危うさを。
心を縛る感触を。
それでも、拒絶しなかった。
***
澪が倒れた日のこと。
過労と、精神的な疲弊。
医師の言葉は淡々としていた。
『無理をさせすぎましたね』
その一言が、胸に突き刺さる。
瑛二は、その場で反論しそうになった。
無理はさせていない。
環境は整えていた。
支援も、配慮も、十分だった。
だが。
澪は、横たわったまま、目を閉じていた。
その寝顔は、穏やかだった。
安堵しているようにも見えた。
――休める、と。
瑛二は、初めて理解した。
自分の存在そのものが、
彼女にとって“緊張”だったのだと。
守られているという名の、圧迫。
逃げ場のない甘さ。
瑛二は、その場で何も言えなかった。
手を握ることも、声をかけることもできなかった。
***
無人駅のベンチ。
瑛二は、目を開ける。
思い出は、優しいほど、残酷だ。
奪わなかった時間があった。
だからこそ、奪った時間の重さが際立つ。
(もし、最初から……)
考えかけて、やめる。
“もし”は、免罪の始まりだ。
澪は、自分の人生を取り戻した。
それが、唯一の救いだ。
瑛二ができることは、
その人生に、二度と影を落とさないこと。
***
列車の音が、遠くから聞こえてくる。
ホームに立ち上がり、線路を見つめる。
どこまでも続く、分岐のない線。
澪の人生とは、もう交わらない。
それでいい。
それが、正しい。
胸の奥に残るのは、
甘さではなく、静かな痛み。
その痛みを、瑛二は初めて“自分のもの”として受け取っていた。
瑛二は、ずっと「赦されたい」と思っていた。
それを自覚したのは、澪と別れてからだった。
彼女の姿が視界から消え、連絡も途絶え、
世界がようやく“彼女抜き”で動き出したとき。
胸の奥に残ったのは、喪失よりも、空虚だった。
――俺は、何を求めていたのか。
答えは、思っていたよりも醜い。
赦しだ。
自分の罪が、帳消しになる瞬間。
誰かが「仕方なかった」と言ってくれる未来。
澪に愛されることで、
澪に必要とされることで、
過去のすべてが許されると、どこかで期待していた。
それは、贖罪ではなかった。
ただの自己救済だった。
***
澪が、最後に見せた表情を、瑛二は忘れられない。
怒りでも、拒絶でもない。
諦めでもなかった。
決断だった。
自分自身を守るための、静かな決断。
その表情を見た瞬間、瑛二は理解した。
――ああ、これは。
俺のための別れではない。
澪のための選択だ。
それが、何よりも痛かった。
自分が、物語の中心ではないと突きつけられた瞬間。
***
平塚家を離れると決めたとき、
瑛二は、すべてを整理した。
桜舞堂に関する資料。
母が集めていた技術書。
契約書の草案。
それらを澪のもとへ返し、
平塚家の影響が及ばないよう、手を打った。
それは、正しい行動だった。
だが、同時に――
それで“許されたい”という期待も、確かにあった。
(これで、少しは……)
その思考に気づいた瞬間、
瑛二は、自分自身に嫌悪を覚えた。
行為の正しさと、動機の純粋さは、別物だ。
正しいことをしても、
それで罪が消えるわけではない。
澪は、何も言わなかった。
感謝も、非難も、拒絶も。
その沈黙こそが、答えだった。
***
無人駅のホーム。
列車の接近を知らせる音が、かすかに響く。
瑛二は、ポケットから小さな紙片を取り出した。
古い写真。
澪の母が遺した蜜菓子の試作品。
色合いも、不揃いで、決して完成品とは言えない。
だが、そこには“奪う前の甘さ”が写っている。
平塚家の手が入る前。
管理される前。
囲われる前。
自由だった頃の証。
瑛二は、その写真をじっと見つめる。
(俺は……)
赦されたいと思っていた。
澪に許されることで、自分が救われることを望んでいた。
だが、それは――
再び、澪を利用する行為だった。
彼女の感情を、
彼女の痛みを、
自分の救済の材料にすること。
それは、二度目の加害だ。
瑛二は、写真をそっと折り畳んだ。
許されなくていい。
理解されなくていい。
ただ、関わらない。
それが、唯一できる償いだ。
***
列車の音が、はっきりと聞こえてくる。
ホームの端に立ち、足元の白線を見下ろす。
ここを越えれば、もう戻らない。
瑛二は、初めて“自分の選択”をしていた。
母のためでも、
澪のためでも、
誰かに評価されるためでもない。
ただ、自分が“二度と奪わない人間であるため”の選択。
それは、誇れるものではない。
だが、偽りではなかった。
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