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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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24/28

24話

 澪と過ごした時間のすべてが、支配だったわけではない。


 その事実が、今になって瑛二の胸を締めつける。


 奪わなかった瞬間。

 手を伸ばしながら、引き戻した時間。


 ほんのわずかだが、確かに存在していた。


 ***


 桜舞堂の奥座敷。


 午後の光が、障子越しにやわらかく差し込み、畳に淡い影を落としていた。

 店の表からは、客の話し声や器の触れ合う音がかすかに届く。


 澪は、低い机に向かい、帳面を広げていた。

 蜜菓子の配合を書き留めるための、細かな文字。


 瑛二は、その向かい側に座り、湯のみを手にしていた。


「……そんなに見ないでください」


 視線に気づいた澪が、顔を上げる。

 少しだけ眉を寄せた、その表情。


「見ているつもりはなかった」


「嘘です。ずっとこっち見てました」


 瑛二は、わずかに口元を緩めた。


「集中していると、邪魔になる」


「集中してないから、大丈夫です」


 澪はそう言って、帳面を閉じた。

 ペンを置き、湯のみを両手で包む。


 沈黙。


 それは、不快なものではなかった。

 埋めなくていい間。


 この時間だけは、管理しようと思わなかった。


 瑛二は、ふと自分の手元に視線を落とす。

 何も握っていない。

 命令も、条件も、用意していない。


 ただ、同じ空間にいる。


 それだけで、胸の奥が満たされる感覚があった。


(……こういう時間が)


 続けばいいと、思ってしまった。


 その願いが、すでに危険だったのだと、今ならわかる。


 ***


 別の日。


 店が閉まったあと、澪は表の暖簾を片付けながら言った。


「今日は、海がきれいですよ」


「そうか」


「散歩、行きませんか?」


 一瞬、躊躇が走る。


 予定はなかった。

 だが、こういう誘いは、管理の余地がない。


 行き先も、時間も、澪の選択だ。


 それでも、瑛二は頷いた。


 夕暮れの海沿い。


 波の音と、足元の砂利の音。

 会話は少なく、間が多かった。


「……瑛二さん」


「何だ」


「甘いもの、好きですか?」


 唐突な質問だった。


「……嫌いではない」


「“好き”じゃないんですね」


 澪は、くすっと笑った。


「甘さって、疲れませんか?」


「……疲れる?」


「ずっと甘いと、口の中が麻痺する気がして」


 その言葉に、瑛二は何も返せなかった。


 ああ、この人は。


 最初から、わかっていたのかもしれない。


 甘さの危うさを。

 心を縛る感触を。


 それでも、拒絶しなかった。


 ***


 澪が倒れた日のこと。


 過労と、精神的な疲弊。


 医師の言葉は淡々としていた。


『無理をさせすぎましたね』


 その一言が、胸に突き刺さる。


 瑛二は、その場で反論しそうになった。


 無理はさせていない。

 環境は整えていた。

 支援も、配慮も、十分だった。


 だが。


 澪は、横たわったまま、目を閉じていた。


 その寝顔は、穏やかだった。

 安堵しているようにも見えた。


 ――休める、と。


 瑛二は、初めて理解した。


 自分の存在そのものが、

 彼女にとって“緊張”だったのだと。


 守られているという名の、圧迫。


 逃げ場のない甘さ。


 瑛二は、その場で何も言えなかった。


 手を握ることも、声をかけることもできなかった。


 ***


 無人駅のベンチ。


 瑛二は、目を開ける。


 思い出は、優しいほど、残酷だ。


 奪わなかった時間があった。

 だからこそ、奪った時間の重さが際立つ。


(もし、最初から……)


 考えかけて、やめる。


 “もし”は、免罪の始まりだ。


 澪は、自分の人生を取り戻した。

 それが、唯一の救いだ。


 瑛二ができることは、

 その人生に、二度と影を落とさないこと。


 ***


 列車の音が、遠くから聞こえてくる。


 ホームに立ち上がり、線路を見つめる。


 どこまでも続く、分岐のない線。


 澪の人生とは、もう交わらない。


 それでいい。


 それが、正しい。


 胸の奥に残るのは、

 甘さではなく、静かな痛み。


 その痛みを、瑛二は初めて“自分のもの”として受け取っていた。


 瑛二は、ずっと「赦されたい」と思っていた。


 それを自覚したのは、澪と別れてからだった。

 彼女の姿が視界から消え、連絡も途絶え、

 世界がようやく“彼女抜き”で動き出したとき。


 胸の奥に残ったのは、喪失よりも、空虚だった。


 ――俺は、何を求めていたのか。


 答えは、思っていたよりも醜い。


 赦しだ。


 自分の罪が、帳消しになる瞬間。

 誰かが「仕方なかった」と言ってくれる未来。


 澪に愛されることで、

 澪に必要とされることで、

 過去のすべてが許されると、どこかで期待していた。


 それは、贖罪ではなかった。


 ただの自己救済だった。


 ***


 澪が、最後に見せた表情を、瑛二は忘れられない。


 怒りでも、拒絶でもない。

 諦めでもなかった。


 決断だった。


 自分自身を守るための、静かな決断。


 その表情を見た瞬間、瑛二は理解した。


 ――ああ、これは。


 俺のための別れではない。


 澪のための選択だ。


 それが、何よりも痛かった。


 自分が、物語の中心ではないと突きつけられた瞬間。


 ***


 平塚家を離れると決めたとき、

 瑛二は、すべてを整理した。


 桜舞堂に関する資料。

 母が集めていた技術書。

 契約書の草案。


 それらを澪のもとへ返し、

 平塚家の影響が及ばないよう、手を打った。


 それは、正しい行動だった。


 だが、同時に――

 それで“許されたい”という期待も、確かにあった。


(これで、少しは……)


 その思考に気づいた瞬間、

 瑛二は、自分自身に嫌悪を覚えた。


 行為の正しさと、動機の純粋さは、別物だ。


 正しいことをしても、

 それで罪が消えるわけではない。


 澪は、何も言わなかった。


 感謝も、非難も、拒絶も。


 その沈黙こそが、答えだった。


 ***


 無人駅のホーム。


 列車の接近を知らせる音が、かすかに響く。


 瑛二は、ポケットから小さな紙片を取り出した。


 古い写真。


 澪の母が遺した蜜菓子の試作品。

 色合いも、不揃いで、決して完成品とは言えない。


 だが、そこには“奪う前の甘さ”が写っている。


 平塚家の手が入る前。

 管理される前。

 囲われる前。


 自由だった頃の証。


 瑛二は、その写真をじっと見つめる。


(俺は……)


 赦されたいと思っていた。

 澪に許されることで、自分が救われることを望んでいた。


 だが、それは――

 再び、澪を利用する行為だった。


 彼女の感情を、

 彼女の痛みを、

 自分の救済の材料にすること。


 それは、二度目の加害だ。


 瑛二は、写真をそっと折り畳んだ。


 許されなくていい。


 理解されなくていい。


 ただ、関わらない。


 それが、唯一できる償いだ。


 ***


 列車の音が、はっきりと聞こえてくる。


 ホームの端に立ち、足元の白線を見下ろす。


 ここを越えれば、もう戻らない。


 瑛二は、初めて“自分の選択”をしていた。


 母のためでも、

 澪のためでも、

 誰かに評価されるためでもない。


 ただ、自分が“二度と奪わない人間であるため”の選択。


 それは、誇れるものではない。


 だが、偽りではなかった。


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