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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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23話

 潮の匂いが、薄い朝霧と混ざり合いながら、静かに鼻腔へ入り込んでくる。


 海沿いの無人駅だった。


 観光地として名が知られているわけでもなく、地図を眺めなければ通り過ぎてしまいそうな、小さな駅。

 古びた木製のベンチは、長年潮風に晒されてきたせいか、角が丸く削れ、色も褪せている。


 瑛二はそのベンチに腰を下ろし、コートの裾を整えることもなく、ただ波音に耳を澄ませていた。


 寄せては返す波。

 砕ける白。

 その規則正しさは、どこか残酷なほど正確で、瑛二の中に残る不規則な感情を浮き彫りにする。


 町の気配は、ほとんど届かない。

 人の声も、車の音も、ここまでは上ってこなかった。


 あるのは、風と海と、そして――自分の呼吸だけ。


(……静かだな)


 そう思った瞬間、胸の奥にわずかな違和感が走る。

 静けさは、昔から嫌いではなかった。

 むしろ好んでいたはずだ。


 だが今は、その静けさが、耳鳴りのように重くのしかかってくる。


 澪と別れてから、どれほどの時間が経ったのか。


 数日かもしれないし、数週間かもしれない。

 手帳を見れば日付はわかる。

 スマートフォンを開けば、正確な時間も表示される。


 それでも――数字が、意味を失っていた。


 時間は流れているはずなのに、自分だけが取り残されているような感覚。

 あるいは、すでに終わった場所に、ひとり立ち尽くしているような錯覚。


 ――失うということを、俺は知らなかった。


 ふいに、その言葉が胸の奥から浮かび上がる。


 知識としては知っていた。

 失敗も、喪失も、裏切りも、瑛二の人生に無縁だったわけではない。


 だがそれらはすべて、「処理できるもの」だった。


 金で解決できる。

 権限で封じ込められる。

 あるいは、誰かに押し付けてしまえばいい。


 そうやって、瑛二は生きてきた。


 ――いや、生かされてきた。


 母に支配されていた幼少期。

 思い出すのは、甘い匂いと、低く優しい声。


『欲しいなら、手に入れなさい』

『奪うことは、悪じゃないのよ』

『守るためには、囲わなきゃいけない』


 それらは命令ではなかった。

 教えだった。

 “愛”の名をした教育だった。


 母の言葉はいつも穏やかで、否定を含まなかった。

 だからこそ、拒む余地がなかった。


 欲したものは、手に入れる方法を教えられた。

 拒まれたことは、一度もない。


 それが――愛情だと、信じ込まされて育った。


 奪うこと。

 囲うこと。

 管理すること。

 所有すること。


 それらすべてを、母は「守る」と呼んだ。


 そして、その言葉の端々には、必ず“甘さ”が混ぜ込まれていた。


 それは蜜のように舌に絡みつき、思考を鈍らせる。

 疑う力を奪い、違和感を麻痺させる。


 気づいたときには、もう自分の価値観になっている。

 それが、瑛二の世界だった。


 ――そして。


 澪にも、同じ甘さを与えようとした。


『君を守るためなら、すべてを犠牲にしていい』


 それは、母が何度も口にしてきた言葉と、ほとんど同じ形をしていた。

 瑛二自身、そのことに気づいていなかった。


 守る。

 支える。

 導く。


 その裏に潜む「支配」を、愛だと信じていた。


 いや――

 信じようとしていた。


 だが。


『甘さは、人の手を離れたら毒になる』


 澪の言葉は、刃物よりも鋭かった。

 けれど、刺すための言葉ではなかった。


 その声音は静かで、震えていて、

 それでも逃げなかった。


 瑛二の胸に突き刺さったのは、言葉そのものではない。

 その言葉を選ぶまでに、澪がどれほど悩み、苦しんだかという事実だった。


 優しさは、ときに暴力より残酷だ。


 “毒になっていたのは、俺の甘さだった”


 その自覚が訪れた瞬間、世界が反転した。


 初めて、自分がどれほど歪んだ愛を向けていたのかを知った。

 澪の瞳に浮かんだ涙は、拒絶ではなかった。

 恐怖だけでもなかった。


 あれは――哀しみだった。


 理解してしまった哀しみ。

 それでも、切り捨てなければならないと決意した人の涙。


 瑛二の胸に、初めて“痛み”が生まれた。


 甘さで誤魔化せない、

 管理も、所有も、置き換えもできない、

 ただ純粋な痛み。


 それは、瑛二がこれまで避け続けてきた感情だった。


 ***


 潮風が強まり、瑛二は現実に引き戻される。

 コートの襟を立て、深く息を吸い込んだ。


 ホームの端に立つと、線路が海沿いに伸びているのが見える。

 まっすぐで、無慈悲なほど途切れない線。


 逃げるために来たわけではない。

 だが、戻る場所がないことは理解していた。


 ――澪の前から、姿を消すしかない。


 それは自己犠牲などという美しいものではなく、

 最低限の責任だった。


 平塚家の屋敷は、いつも甘い匂いがしていた。


 焼き菓子の匂いではない。

 果実でも、砂糖でもない。


 もっと重く、粘度のある匂い。

 空気そのものに溶け込んで、肺の奥に沈殿するような――逃げ場のない甘さ。


 瑛二は、幼い頃からその匂いの中で育った。


 広すぎる廊下。

 磨き上げられた床。

 足音が反響する静寂。


 そして、必ず背後からかかる声。


『瑛二』


 呼ばれるだけで、背筋が自然と伸びた。

 怒気を含んでいなくても、逆らうという選択肢は存在しなかった。


 母は、いつも穏やかだった。

 声を荒げることはほとんどない。

 叱責も、暴力も、記憶にはない。


 あるのは、微笑みだけ。


『いい子ね』

『ちゃんと分かってるわ』

『あなたは特別なんだから』


 その言葉の裏に条件があることを、瑛二が理解したのは、ずっと後になってからだ。


 特別でいるためには、母の期待に応え続けなければならない。

 理解している“ふり”をし、疑問を抱かず、言われた通りに動く。


 疑うことは、裏切りだった。

 拒むことは、恩知らずだった。


 だから瑛二は、疑わなかった。


 母の言う「守る」という言葉を、疑わなかった。


『大切なものは、囲ってあげないと壊れてしまうの』

『自由にしたら、必ず誰かに奪われるわ』

『あなたが管理してあげなさい。それが愛よ』


 それは、教えだった。

 愛情の定義だった。


 瑛二の世界には、別の価値観が入り込む隙がなかった。


 学校で学ぶ倫理や、友人たちの家庭の空気は、どこか遠いものに感じられた。

 あれは、弱い家の話だ。

 守る力を持たない者たちの言い訳だ。


 そう思うことで、違和感を切り捨てていた。


 ***


 初めて“異質な甘さ”に触れたのは、桜舞堂だった。


 澪の母が差し出した蜜菓子。

 小さな皿に乗せられたそれは、見た目こそ素朴だったが、口に入れた瞬間、世界が変わった。


 軽い。

 透明だ。

 押し付けてこない。


 甘さが、支配しない。


 舌の上でほどけるように広がり、必要以上に残らない。

 余韻すら、こちらに委ねられている。


 その瞬間、瑛二の中で何かが崩れた。


 ――ああ、これは。


 守られていない甘さだ。

 囲われていない甘さだ。


 それなのに、壊れていない。

 奪われてもいない。


 自由で、美しかった。


 その場で、理解してしまった。


 この甘さは、平塚家のものではない。

 母の支配下に置いてはいけない。


 そう思ったはずなのに。


 次の瞬間、別の感情が湧き上がった。


 ――欲しい。


 理解した瞬間に、欲望が芽生えた。


 守りたい。

 囲いたい。

 管理したい。


 それが「奪う」という行為だと、認識する前に、瑛二は動いていた。


 母に報告したのは、偶然ではない。

 無意識の選択だった。


 母なら、この価値を分かる。

 母なら、この甘さを正しく扱える。


 そう信じていた。


 いや――信じさせられていた。


 ***


『素晴らしいわ、瑛二』


 あの日の母の声を、今でもはっきりと思い出せる。


『その技術は、特別よ』

『放っておいたら、必ず潰される』

『私たちが守ってあげなければ』


 守る。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなった。

 正しい選択をしたという安堵。

 母に認められたという高揚。


 澪の母が困惑する表情も、戸惑いも、

 すべては「必要な摩擦」だと処理された。


 瑛二は、疑問を持たなかった。


 疑問を持つ訓練を、されていなかった。


 結果として起きたこと――

 桜舞堂が追い詰められ、

 澪の母が静かに、確実に、居場所を失っていった事実。


 そのすべてに、瑛二は関与していた。


 直接手を下したわけではない。

 命令を出したわけでもない。


 だが。


 「知らせた」

 「選んだ」

 「黙認した」


 その一つ一つが、罪だった。


 共犯者だった。


 澪と出会った時点で、すでに。


 ***


 澪を見た瞬間、瑛二は理解した。


 この少女は、あの甘さの延長線上にいる。

 自由で、脆く、守られていない。


 だから――守らなければならない。


 それは使命のように感じられた。

 贖罪のようにも見えた。


 澪を愛することで、過去の罪が中和される。

 澪を囲うことで、すべてが正当化される。


 そんな、都合のいい幻想。


 澪が笑うたび、胸が締め付けられた。

 それは喜びではなく、恐怖だった。


 失うことへの恐怖。

 自由なものが、手のひらから零れ落ちる恐怖。


 だから、甘さを与えた。


 母から教わったやり方で。

 相手の選択肢を奪う、優しい言葉で。


『君のためだ』

『守っているだけだ』

『信じてほしい』


 そのすべてが、鎖だった。


 澪は、気づいていた。


 気づいた上で、耐えていた。


 それが、どれほど残酷なことかを、

 瑛二は、最後の最後まで理解しようとしなかった。


 ***


 海風が、強く吹き抜ける。


 無人駅のベンチで、瑛二は目を閉じた。


(俺は……)


 心の中で、言葉を探す。


 被害者だと思っていた。

 母の支配下で育った被害者。


 だがそれは、免罪符にはならない。


 理解してしまった今、

 選んでしまった今、


 瑛二は、加害者だった。


 そして、澪は――

 それを断ち切った唯一の存在だった。

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