22話
春の雨が、勝浦町を静かに包んでいた。
桜舞堂の屋根を叩く雨音は、強くもなく、弱くもない。
ただ一定のリズムで、時間を刻んでいる。
澪は、裏口の軒先に立ち、その音に耳を澄ませていた。
雨の日は、いつも少しだけ、考えすぎてしまう。
もしも――
あの日、違う選択をしていたら。
***
もしも、瑛二が去らなかったら。
もしも、澪が帳面を開き、最後まで“甘さの公式”を読み解いていたら。
桜舞堂は、今頃どうなっていただろう。
全国展開。
メディア露出。
完璧に再現される蜜。
職人たちは減り、マニュアルが増える。
味は一定で、評価は高い。
成功だ。
だが、その光景を思い浮かべた瞬間、澪の胸はひどく冷えた。
鍋の前で、誰とも目を合わせず、数字だけを追う自分。
甘さに触れながら、何も感じなくなっている自分。
(……それは、私じゃない)
澪は、ゆっくりと首を振った。
***
もしも、勇人が事故に遭わなかったら。
いつものように働き、無理をして、身体を壊していたかもしれない。
「大丈夫だ」
そう言って、誰にも頼らず、誰にも弱さを見せず。
桜舞堂は続いていただろう。
だが、気づかぬうちに、何かが削れていったはずだ。
勇人自身も、
澪との距離も。
痛みは、残酷だ。
けれど、すべてを壊すわけではない。
勇人は、失ったことで、初めて守り方を知った。
***
もしも、母が生きていたら。
澪は、いまだに「娘」でいられただろう。
甘さに迷ったとき、問いかける相手がいた。
選択を、委ねられる人がいた。
だが同時に、澪は“自分の甘さ”を探し続けられただろうか。
母の背中は、あまりにも大きかった。
***
雨は、やがて止んだ。
雲の切れ間から、淡い光が差し込む。
選ばれなかった未来は、
どれも魅力的で、どれも少しだけ怖い。
澪は、それらを否定しない。
ただ、選ばなかっただけだ。
***
夕方、勇人が仕込みを終えて、澪の隣に立つ。
「雨、止んだな」
「うん」
二人はしばらく、黙って空を見ていた。
「……後悔してる?」
勇人が、唐突に聞いた。
澪は、少しだけ考えてから答える。
「後悔は、してるよ」
勇人が驚いたようにこちらを見る。
「でもね」
澪は、微笑んだ。
「選び直したいとは、思わない」
勇人は、何も言わずに頷いた。
その沈黙が、答えだった。
営業再開の日が、近づいていた。
町には、少しずつ噂が広がっている。
「桜舞堂、また開くらしいで」
「味、変わったんやろか」
「前より優しくなったって聞いた」
澪は、それらを聞いても、胸を乱されなくなっていた。
変わることを、恐れなくなったからだ。
***
前夜、澪は夢を見る。
桜舞堂の工房に、三人の自分がいる。
一人は、母の背中を追う澪。
一人は、瑛二と並び、数字を追う澪。
一人は、今の自分。
三人は、同じ鍋を見つめている。
だが、誰一人、同じ甘さを作っていない。
夢の中で、母が言う。
「それでええ」
澪は、そこで目を覚ました。
***
夜明け。
澪は暖簾を手に取る。
新しい布。
けれど、そこに込められた願いは古い。
――人が集い、甘さを分け合う場所であること。
暖簾を掛けた瞬間、風が吹いた。
それは、過去を振り払う風ではない。
未来へ送る、静かな追い風だった。
桜舞堂の正式な営業再開の日は、よく晴れていた。
雲ひとつない青空というわけではない。
けれど、春らしい柔らかな光が町全体を包み込み、どこか肩の力が抜けるような朝だった。
澪は、まだ人の少ない通りを歩きながら、深く息を吸った。
空気に、甘い匂いが混じっている。
それは店から漂ってくる蜜の香りだけではなく、町そのものが持つ春の匂いだった。
桜舞堂の前には、すでに数人の客が並んでいる。
「おはようございます」
澪が声をかけると、年配の女性が笑った。
「待っとったよ。再開するって聞いてな」
その言葉に、澪の胸が静かに震える。
期待も、不安も、ここにある。
だが、逃げる理由はもうなかった。
***
暖簾をくぐると、店内はいつもより少しだけ明るく感じられた。
勇人はすでに持ち場に立ち、職人たちも各々の準備を整えている。
店主は、奥で静かに湯を沸かしていた。
「澪」
勇人が、こちらを見る。
「いけそうか」
澪は、一瞬だけ目を閉じ、頷いた。
「うん」
その一言に、これまでのすべてが詰まっていた。
事故。
喪失。
迷い。
選択。
それらを経て、今、ここに立っている。
***
開店の時刻。
暖簾が外に出される。
風に揺れる布を見た瞬間、澪の胸に、何かがほどけた。
――始まる。
最初の客は、町の常連だった。
「久しぶりやな」
「お待たせしました」
差し出した桜餅を受け取ったその人は、ゆっくりとひと口かじり、目を細めた。
「……変わったな」
澪の喉が、わずかに鳴る。
「でもな」
その人は、微笑んだ。
「ちゃんと、桜舞堂や」
その言葉で、澪の視界が一瞬揺れた。
泣かない、と決めていた。
だが、込み上げるものまでは止められない。
***
昼を過ぎるころ、店内は穏やかな活気に満ちていた。
観光客も、地元の人も、同じように菓子を選び、言葉を交わす。
「甘すぎへんのがええな」
「後味がやさしい」
澪は、その声をひとつひとつ、胸に刻む。
評価ではない。
生きた反応だ。
***
ふと、澪は裏口に出た。
少しだけ、外の空気が吸いたくなったのだ。
川沿いでは、桜の花弁が水面を流れている。
――母は、この光景を、何度見ただろう。
(お母さん)
心の中で呼びかける。
(私は、私の甘さで、生きていくよ)
返事はない。
だが、風が吹き、花弁が舞った。
それで十分だった。
夕方、最後の客を見送ったあと、店内は静まり返った。
職人たちは互いに労いの言葉を交わし、道具を片付けていく。
「……終わったな」
勇人が、ぽつりと言った。
「うん」
澪は、長く息を吐いた。
達成感と、疲労と、安堵が入り混じる。
「どうだった?」
勇人の問いに、澪は少し考える。
「怖かった」
正直な答えだった。
「でも、楽しかった」
勇人は、静かに笑った。
「それなら、続けられる」
その言葉が、胸に落ちる。
続ける。
それこそが、何よりの答えだ。
***
夜。
澪は一人、工房に残った。
灯りの下で、銅鍋を見つめる。
今日の甘さは、今日だけのもの。
同じ日は、二度と来ない。
それでいい。
澪は、そっと砂糖を鍋に入れ、火を点ける。
蜜が、静かに煮詰まり始める。
母から受け取ったもの。
瑛二と交わした時間。
勇人と築く日常。
それらすべてが、澪の中で溶け合っていく。
――甘さは、毒にもなる。
でも、甘さがなければ、人は前へ進めない。
だから、澪は今日も甘さを作る。
誰かのためだけではない。
自分の人生のために。
***
外では、満月が町を照らしていた。
その光は、蜜の色に似ている。
澪は、そっと鍋をかき混ぜながら、微笑んだ。
桜舞堂の新しい季節が、確かに始まっている。
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