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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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22/28

22話

 春の雨が、勝浦町を静かに包んでいた。


 桜舞堂の屋根を叩く雨音は、強くもなく、弱くもない。

 ただ一定のリズムで、時間を刻んでいる。


 澪は、裏口の軒先に立ち、その音に耳を澄ませていた。


 雨の日は、いつも少しだけ、考えすぎてしまう。


 もしも――

 あの日、違う選択をしていたら。


 ***


 もしも、瑛二が去らなかったら。


 もしも、澪が帳面を開き、最後まで“甘さの公式”を読み解いていたら。


 桜舞堂は、今頃どうなっていただろう。


 全国展開。

 メディア露出。

 完璧に再現される蜜。


 職人たちは減り、マニュアルが増える。

 味は一定で、評価は高い。


 成功だ。


 だが、その光景を思い浮かべた瞬間、澪の胸はひどく冷えた。


 鍋の前で、誰とも目を合わせず、数字だけを追う自分。

 甘さに触れながら、何も感じなくなっている自分。


(……それは、私じゃない)


 澪は、ゆっくりと首を振った。


 ***


 もしも、勇人が事故に遭わなかったら。


 いつものように働き、無理をして、身体を壊していたかもしれない。


「大丈夫だ」


 そう言って、誰にも頼らず、誰にも弱さを見せず。


 桜舞堂は続いていただろう。

 だが、気づかぬうちに、何かが削れていったはずだ。


 勇人自身も、

 澪との距離も。


 痛みは、残酷だ。

 けれど、すべてを壊すわけではない。


 勇人は、失ったことで、初めて守り方を知った。


 ***


 もしも、母が生きていたら。


 澪は、いまだに「娘」でいられただろう。


 甘さに迷ったとき、問いかける相手がいた。

 選択を、委ねられる人がいた。


 だが同時に、澪は“自分の甘さ”を探し続けられただろうか。


 母の背中は、あまりにも大きかった。


 ***


 雨は、やがて止んだ。


 雲の切れ間から、淡い光が差し込む。


 選ばれなかった未来は、

 どれも魅力的で、どれも少しだけ怖い。


 澪は、それらを否定しない。


 ただ、選ばなかっただけだ。


 ***


 夕方、勇人が仕込みを終えて、澪の隣に立つ。


「雨、止んだな」


「うん」


 二人はしばらく、黙って空を見ていた。


「……後悔してる?」


 勇人が、唐突に聞いた。


 澪は、少しだけ考えてから答える。


「後悔は、してるよ」


 勇人が驚いたようにこちらを見る。


「でもね」


 澪は、微笑んだ。


「選び直したいとは、思わない」


 勇人は、何も言わずに頷いた。


 その沈黙が、答えだった。

 営業再開の日が、近づいていた。


 町には、少しずつ噂が広がっている。


「桜舞堂、また開くらしいで」

「味、変わったんやろか」

「前より優しくなったって聞いた」


 澪は、それらを聞いても、胸を乱されなくなっていた。


 変わることを、恐れなくなったからだ。


 ***


 前夜、澪は夢を見る。


 桜舞堂の工房に、三人の自分がいる。


 一人は、母の背中を追う澪。

 一人は、瑛二と並び、数字を追う澪。

 一人は、今の自分。


 三人は、同じ鍋を見つめている。

 だが、誰一人、同じ甘さを作っていない。


 夢の中で、母が言う。


「それでええ」


 澪は、そこで目を覚ました。


 ***


 夜明け。


 澪は暖簾を手に取る。


 新しい布。

 けれど、そこに込められた願いは古い。


 ――人が集い、甘さを分け合う場所であること。


 暖簾を掛けた瞬間、風が吹いた。


 それは、過去を振り払う風ではない。

 未来へ送る、静かな追い風だった。

 桜舞堂の正式な営業再開の日は、よく晴れていた。


 雲ひとつない青空というわけではない。

 けれど、春らしい柔らかな光が町全体を包み込み、どこか肩の力が抜けるような朝だった。


 澪は、まだ人の少ない通りを歩きながら、深く息を吸った。


 空気に、甘い匂いが混じっている。

 それは店から漂ってくる蜜の香りだけではなく、町そのものが持つ春の匂いだった。


 桜舞堂の前には、すでに数人の客が並んでいる。


「おはようございます」


 澪が声をかけると、年配の女性が笑った。


「待っとったよ。再開するって聞いてな」


 その言葉に、澪の胸が静かに震える。


 期待も、不安も、ここにある。

 だが、逃げる理由はもうなかった。


 ***


 暖簾をくぐると、店内はいつもより少しだけ明るく感じられた。


 勇人はすでに持ち場に立ち、職人たちも各々の準備を整えている。

 店主は、奥で静かに湯を沸かしていた。


「澪」


 勇人が、こちらを見る。


「いけそうか」


 澪は、一瞬だけ目を閉じ、頷いた。


「うん」


 その一言に、これまでのすべてが詰まっていた。


 事故。

 喪失。

 迷い。

 選択。


 それらを経て、今、ここに立っている。


 ***


 開店の時刻。


 暖簾が外に出される。


 風に揺れる布を見た瞬間、澪の胸に、何かがほどけた。


 ――始まる。


 最初の客は、町の常連だった。


「久しぶりやな」


「お待たせしました」


 差し出した桜餅を受け取ったその人は、ゆっくりとひと口かじり、目を細めた。


「……変わったな」


 澪の喉が、わずかに鳴る。


「でもな」


 その人は、微笑んだ。


「ちゃんと、桜舞堂や」


 その言葉で、澪の視界が一瞬揺れた。


 泣かない、と決めていた。

 だが、込み上げるものまでは止められない。


 ***


 昼を過ぎるころ、店内は穏やかな活気に満ちていた。


 観光客も、地元の人も、同じように菓子を選び、言葉を交わす。


 「甘すぎへんのがええな」

 「後味がやさしい」


 澪は、その声をひとつひとつ、胸に刻む。


 評価ではない。

 生きた反応だ。


 ***


 ふと、澪は裏口に出た。


 少しだけ、外の空気が吸いたくなったのだ。


 川沿いでは、桜の花弁が水面を流れている。


 ――母は、この光景を、何度見ただろう。


(お母さん)


 心の中で呼びかける。


(私は、私の甘さで、生きていくよ)


 返事はない。

 だが、風が吹き、花弁が舞った。


 それで十分だった。

 夕方、最後の客を見送ったあと、店内は静まり返った。


 職人たちは互いに労いの言葉を交わし、道具を片付けていく。


「……終わったな」


 勇人が、ぽつりと言った。


「うん」


 澪は、長く息を吐いた。


 達成感と、疲労と、安堵が入り混じる。


「どうだった?」


 勇人の問いに、澪は少し考える。


「怖かった」


 正直な答えだった。


「でも、楽しかった」


 勇人は、静かに笑った。


「それなら、続けられる」


 その言葉が、胸に落ちる。


 続ける。

 それこそが、何よりの答えだ。


 ***


 夜。


 澪は一人、工房に残った。


 灯りの下で、銅鍋を見つめる。


 今日の甘さは、今日だけのもの。

 同じ日は、二度と来ない。


 それでいい。


 澪は、そっと砂糖を鍋に入れ、火を点ける。


 蜜が、静かに煮詰まり始める。


 母から受け取ったもの。

 瑛二と交わした時間。

 勇人と築く日常。


 それらすべてが、澪の中で溶け合っていく。


 ――甘さは、毒にもなる。

 でも、甘さがなければ、人は前へ進めない。


 だから、澪は今日も甘さを作る。


 誰かのためだけではない。

 自分の人生のために。


 ***


 外では、満月が町を照らしていた。


 その光は、蜜の色に似ている。


 澪は、そっと鍋をかき混ぜながら、微笑んだ。


 桜舞堂の新しい季節が、確かに始まっている。

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