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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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21話

 澪の母が、最初から“優しい甘さ”を知っていたわけではない。


 桜舞堂の奥座敷に残る古い写真。

 若い頃の彼女は、今の澪よりもずっと鋭い目をしている。


 勝浦町に戻ってきたのは、二十代の終わりだった。

 都会の菓子店で修業を積み、評価も得ていた。

 甘さの配合は正確で、仕上がりは美しく、無駄がない。


 ――完璧な職人。


 そう呼ばれていた。


 だが、彼女自身は、どこか満たされていなかった。


「数字通りにやれば、同じ味になる。

 でも、それだけでいいの?」


 ある夜、彼女は桜舞堂の先代――今の店主に、そう問いかけた。


 先代はしばらく黙り込み、やがて答えた。


「同じ味を守るのは、大事なことじゃ。

 じゃがな……人は、同じ日を生きとらん」


 その言葉が、彼女の中に引っかかった。


 ***


 母は、蜜に取り憑かれた。


 砂糖の種類、水の温度、湿度、鍋の素材。

 あらゆる条件を書き留め、数値化し、再現性を追い求めた。


 失敗も多かった。


 甘すぎて喉に残る蜜。

 薄く、存在感のない蜜。

 香りだけが立ち、味が追いつかない蜜。


 夜更け、誰もいなくなった工房で、母は一人、鍋の前に立ち続けた。


(――なにが足りない)


 答えは出なかった。


 数字は揃っている。

 理論も間違っていない。


 それでも、心が動かない。


 ***


 転機は、澪が生まれた年だった。


 夜泣きの合間に、母は鍋を火にかけることがあった。

 泣き声を背に、蜜を煮詰める。


 集中しきれない。

 火加減は曖昧。

 時間も、正確ではない。


 ――失敗だ。


 そう思いながら、出来上がった蜜を舐めた瞬間、母は立ち尽くした。


 甘さが、柔らかかった。


 主張しすぎず、けれど確かに残る。

 喉を通るとき、なぜかほっとする。


「……あ」


 声が、漏れた。


 そのとき、背後で澪が泣き止んだ。


 偶然かもしれない。

 だが、母はその出来事を忘れなかった。


 ***


 母は、数値の横に言葉を書き始めた。


 「今日は寒い」

 「澪がよく眠った」

 「雨の匂いがする」


 数字では測れないものを、無理やり言葉に落とし込む。

 それは職人として、ある意味で“敗北”だった。


 だが同時に、解放でもあった。


「甘さは、生活の中にある」


 母は、そう言うようになった。


 客の顔を見て、

 町の空気を吸って、

 その日の自分を確かめてから、蜜を作る。


 再現性は下がった。

 だが、菓子は不思議と人の心に残った。


 ***


 瑛二が現れたのは、その少し後だった。


 数字を愛する青年。

 才能を、危ういほど理解する男。


 母は、彼に蜜の話をした。


 だが、すべては渡さなかった。


「全部教えたら、壊れる」


 そう言って、笑った。


 その意味を、瑛二は理解できなかった。

 澪も、当時は分からなかった。


 ***


 病床で、母は澪の手を握った。


「……澪」


「なに?」


「甘さはね……守ろうとすると、歪むの」


 息が、細くなる。


「でも……手放しすぎても、消える」


 澪は、涙をこらえて頷いた。


「だから……選びなさい」


 それが、最後の言葉だった。


 ***


 現在。


 澪は、母の帳面を開いていた。


 数字と、言葉。

 無数の試行錯誤。


 そして、最後のページに書かれた一行。


『もっと優しい甘さに』


 澪は、そっと帳面を閉じる。


 もう、答えは探さなくていい。


 自分は、すでに選んでいる。


 母とは違う形で。

 けれど、確かに続く道を。

 母の帳面を閉じたあと、澪はしばらくその場に座り込んでいた。


 奥座敷は、昼でも薄暗い。

 障子越しに差し込む光が、埃を浮かび上がらせ、時間そのものが止まっているように見えた。


 母は、ここで何度も帳面を開いただろう。

 悩み、迷い、書き直し、最後にはため息をつきながら頁を閉じたはずだ。


 澪は、母の背中を知っている。


 職人としての姿。

 一人の女性としての弱さ。

 そして、娘を守ろうとする、不器用な優しさ。


(……同じにはなれない)


 その事実を、澪はようやく受け入れていた。


 同じ甘さは作れない。

 同じ生き方もできない。


 それは敗北ではない。


 母が“優しい甘さ”に辿り着いたように、

 自分は自分の答えを見つけるだけだ。


 ***


 その夜、澪は勇人と遅くまで工房に残っていた。


 営業再開に向けて、試作が続く。

 灯りの下で、二人は無言のまま手を動かしていた。


 沈黙が、苦しくない。


 それは、信頼がある証拠だった。


「澪」


 勇人が、ふと手を止める。


「……母さんの帳面、見たのか」


「うん」


 澪は、正直に答えた。


「使わないって、決めた?」


 その問いに、澪は少し考える。


「使わない、とは違うかな」


 蜜を混ぜる手を止め、澪は続けた。


「頼らない、って決めた」


 勇人は、何も言わずに頷いた。


 その反応が、澪にはありがたかった。

 肯定も否定もせず、ただ受け止めてくれる。


「母の甘さは、母の人生だった。

 私は……私の生活の中で、甘さを作りたい」


「それでいい」


 勇人は、迷いなく言った。


「澪が選んだなら」


 その言葉に、澪の胸が少しだけ熱くなる。


 かつて瑛二が求めたのは、“正解”だった。

 だが勇人がくれるのは、“選択の自由”だ。


 それが、どれほど救いになるか。


 ***


 翌日、澪は帳面を元の引き出しに戻した。


 鍵は、かけなかった。


 封じるわけでも、捨てるわけでもない。

 ただ、距離を置く。


 母の甘さは、ここにある。

 だが、自分は今、別の場所に立っている。


 それでいい。


 ***


 営業再開前夜。


 桜舞堂の暖簾は、まだ表に出されていない。

 だが店内には、確かな緊張と期待が満ちていた。


 職人たちは各々の持ち場を確認し、道具を磨き、無駄口を叩く。


 店主は、その様子を少し離れたところから見ていた。


「……ええ店になったな」


 誰にともなく、そう呟く。


 澪はその言葉を聞き、胸の奥で静かに応えた。


(まだ、途中です)


 完成など、きっと一生しない。

 それでも、続ける。


 甘さを作るという行為を通して、生き続ける。


 ***


 深夜。


 澪は一人、工房に残っていた。


 最後にもう一度、蜜を仕込む。


 今日の気温。

 湿度。

 自分の呼吸。


 母のように、言葉に書き留めることはしない。

 ただ、身体に刻む。


 出来上がった蜜を、そっと舐める。


 ――優しい。


 だが、母の甘さとは違う。


 もう少し、曖昧で、揺れている。

 それでも、不思議と胸に残る。


(……これでいい)


 澪は、そう思った。


 ***


 夜明け前、外が白み始める。


 澪は工房の灯りを消し、静かに戸を閉めた。


 桜舞堂は、眠っている。

 だがその眠りは、再生のためのものだ。


 母から受け取ったもの。

 手放したもの。

 選び取ったもの。


 それらすべてを胸に、澪は歩き出す。


 甘さは、受け継ぐものではない。

 生きる中で、育て続けるものだ。

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