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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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20話

 海沿いの町から離れた、名もない駅のホームに、瑛二は立っていた。


 時刻表には一日に数本しか列車の名前がない。

 潮の匂いと、錆びた鉄の匂いが混じり合い、風に運ばれてくる。


 勝浦線の無人駅。

 澪と最後に言葉を交わした、あの場所とよく似た構造をしていた。


(……結局、ここに来てしまったな)


 瑛二は自嘲気味に息を吐く。


 奪ったものは、何ひとつ手元に残らなかった。

 蜜の配合も、帳面も、澪の心も。


 残ったのは、記憶だけだ。


 彼女が鍋を見つめる横顔。

 指先で温度を測る仕草。

 甘さを語るときの、真剣すぎる眼差し。


 ――あれは、才能だった。


 瑛二は、心の底からそう思っていた。

 だからこそ、欲しかった。


 守るという名目で。

 愛しているという言葉で。


 だが本当は、奪うことでしか自分の価値を証明できなかっただけだ。


 列車が遠くで警笛を鳴らす。

 その音に、瑛二は目を閉じた。


 ***


 澪の母と初めて会った日のことを、瑛二はよく覚えている。


 桜舞堂の奥座敷。

 まだ若く、だがすでに職人としての芯を持った女性だった。


「甘さはね、数字じゃないのよ」


 そう言って、彼女は笑った。


「でも、数字に落とし込まないと、守れないものもある」


 その矛盾に満ちた言葉が、瑛二の胸に深く刺さった。


 彼はずっと、数字の世界で生きてきた。

 数値化できないものは信用しない。

 だが、目の前の甘さは、確かに人の心を動かしていた。


(――これを、失わせてはいけない)


 その思いは、やがて執着へと変わった。


 守るために管理する。

 管理するために支配する。


 それが歪んだ論理だと気づいたのは、あまりにも遅かった。


 ***


 瑛二は、澪が泣いた顔を忘れられない。


 歩道橋の上。

 夕暮れに沈む町を背に、彼女は震えながら言った。


『甘さは、人の手を離れたら毒になる……あなたの愛も』


 その瞬間、瑛二は理解した。


 自分は、彼女の甘さを愛してなどいなかった。

 自分が欲しい形に変えた甘さしか、見ていなかったのだ。


 守るふりをして、壊していた。


(……だから、去るしかなかった)


 駅のベンチに腰を下ろし、瑛二は古い写真を取り出す。


 澪の母が試作した蜜菓子。

 裏には、かすれた字で書かれた言葉。


『もっと優しい甘さに』


 彼はその写真を、もう何度も見ている。

 答えは、最初からそこにあったのに。


 ***


 列車が到着し、ドアが開く。


 瑛二は立ち上がり、最後に空を見上げた。


 春の雲が、ゆっくりと流れていく。


(……澪)


 声に出すことはしなかった。

 名前を呼ぶ資格が、もう自分にはない。


 列車に乗り込み、ドアが閉まる。


 動き出す車窓の向こうで、ホームが遠ざかっていく。


 彼はポケットの中で、写真をそっと握りしめた。


 それは、贖罪でも希望でもない。

 ただ、忘れないための重みだった。


 ***


 数日後。


 澪の知らない町で、瑛二は小さな菓子工房の求人広告を目にする。


 「経験不問。見習い可」


 その文字を、しばらく見つめてから、彼は紙を折りたたんだ。


(甘さに、触れる資格は……あるのだろうか)


 答えは出ない。


 だが、触れずに生きることも、もうできなかった。


 瑛二は、ゆっくりと歩き出す。


 彼の背中に、春の光が淡く差していた。

 小さな菓子工房は、港町の外れにあった。


 看板は色褪せ、文字もかすれている。

 観光客が立ち寄るような店ではなく、地元の人間が日常的に使う、そんな場所だった。


 瑛二はしばらく店の前に立ち、暖簾を見上げていた。


 ――入っていいのか。


 そう自問する自分に、彼は苦笑する。

 許可を求める相手など、どこにもいないのに。


 意を決して暖簾をくぐると、甘い匂いが鼻をくすぐった。

 だがそれは、かつて知っていた洗練された蜜の香りとは違う。


 どこか粗く、けれど温かい匂いだった。


「いらっしゃい」


 奥から、年配の女性が顔を出す。

 職人というより、家族経営の店主といった雰囲気だ。


「求人を……見たんですが」


 瑛二の声は、少しだけ震えていた。


「見習い、ですよね」


「ああ。うちは人手が足りんでね。経験は?」


「……少しだけ」


 彼は嘘をつかなかった。

 だが、すべてを語ることもしなかった。


 女性は瑛二をしばらく観察するように見つめ、それから頷いた。


「明日から来な。給料は安いけど」


「……ありがとうございます」


 その言葉が、胸の奥に重く落ちる。


 感謝する資格があるのか。

 そう思いながらも、瑛二は頭を下げた。


 ***


 初日は、皿洗いから始まった。


 鍋を洗い、床を拭き、道具を整える。

 甘さに触れることすら許されない作業。


 だが、不思議と苦ではなかった。


 むしろ、心が静かになっていくのを感じた。


 数字も理論も、ここでは役に立たない。

 ただ、手を動かすだけだ。


 昼休み、工房の裏で、瑛二は弁当を広げた。


 海から吹く風が、紙ナプキンを揺らす。


(……澪は、こういう昼を、何度も過ごしてきたんだろうか)


 ふと、そんなことを思う。


 彼女の背中を、彼は知っているつもりでいた。

 だが、見ていたのは結果だけだった。


 過程の孤独も、迷いも、全部、置き去りにして。


 ***


 三日目、店主の女性が言った。


「餡を練ってみるかい」


 瑛二は一瞬、言葉を失った。


「……いいんですか」


「見てたら分かるよ。手が、菓子を壊さん手だ」


 その言葉に、胸が締めつけられる。


 彼は恐る恐る、木鉢に向かった。


 餡に触れた瞬間、指先に温度と重さが伝わる。


 甘さは、ここにある。


 だが、制御すべきものではない。

 対話すべきものだった。


 瑛二は、力を抜いた。


 数字を思い浮かべるのを、やめた。


 代わりに、匂いと感触に集中する。


「……悪くない」


 店主の声が、静かに落ちる。


 瑛二は、息を吐いた。


 初めて、甘さに「触れてもいい」と言われた気がした。


 ***


 夜、借りた部屋で、瑛二は例の写真を机に置いた。


 澪の母の文字。


『もっと優しい甘さに』


 その言葉は、今も彼を責めている。

 だが同時に、導いてもいる。


(……優しい、とは)


 奪わないこと。

 支配しないこと。

 相手の変化を許すこと。


 それは、技術ではなく、態度だった。


 瑛二は写真を裏返し、引き出しにしまう。


 もう、握りしめなくてもいい。

 忘れないと決めたから。


 ***


 数週間後。


 工房の前に、桜が咲いている。


 瑛二は、その下で一瞬足を止めた。


 花弁が風に舞い、アスファルトに落ちる。


 それは、勝浦で見た桜と同じようで、違っていた。


(……それでいい)


 彼は前を向き、暖簾をくぐる。


 澪と交わる未来は、もうない。

 だが、甘さと生きる道は、まだ残されている。


 それで、十分だった。

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