2話
開店の時刻になると、桜舞堂の店内はゆっくりと息を吹き返した。
暖簾が掛けられ、戸が全開になると、外の光とともに町の気配が流れ込んでくる。
常連客が二、三人。
勝浦町では見慣れた顔ぶれだ。
彼らは澪に軽く会釈をし、棚の和菓子を眺めながら世間話を交わす。
その一方で、瑛二は店の一角、窓際の席に腰を下ろし、まるで時間を味わうかのように静かに柑橘蜜大福を眺めていた。
包みを開く所作が丁寧だった。
大福を持ち上げる指先には無駄がなく、食べ物に対して“慣れている”人間の動きだった。
澪は作業をしながらも、ついその姿を目で追ってしまう。
(……変な人)
そう思いながらも、視線を外せない。
瑛二は一口ごとに大福を噛みしめ、舌の上で転がすように食べている。
「……」
無言。
だが、その沈黙は空白ではなく、何かを計測しているように澪には感じられた。
(甘さ……見られてる?)
澪がそう感じたのは、彼の目がふと、こちらへ向いたからではない。
その視線が、澪自身ではなく、澪の“背後”を捉えていたからだ。
——棚。
作業場の奥、引き戸の向こうにある古いレシピ棚。
店主しか触れない、桜舞堂の心臓部ともいえる場所。
瑛二の視線は、はっきりとそこに向けられていた。
(……どうして、あそこを?)
澪の指先が、無意識に止まる。
しゃもじを持つ手に、わずかな震えが走った。
だが瑛二は、すぐに視線を戻し、大福の最後の一口を口に運んだ。
ゆっくり噛み、目を閉じる。
そして、息を吐くように言った。
「……素晴らしい」
それは感想というより、確認だった。
澪は喉の奥が、きゅっと詰まるのを感じた。
会計の際、瑛二はカウンターに近づき、代金を差し出した。
その距離は、必要以上に近い。
「ごちそうさまでした」
低く、柔らかな声。
そのまま去るのかと思いきや、瑛二はほんの少しだけ声を落とした。
「澪さんの蜜は——砂糖より甘い」
澪の胸が、ひくりと跳ねた。
砂糖より甘い。
褒め言葉としては、ありふれているはずなのに。
その言い方には、甘さの裏側を知っている者の響きがあった。
「……ありがとうございます」
そう答えながら、澪は自分の声が少し震えているのに気づいた。
瑛二はそれに気づいた様子もなく、軽く会釈をして店を出ていった。
暖簾が揺れ、再び店内に静けさが戻る。
だが澪の中では、何かが確実にずれ始めていた。
その日の夜。
店が閉まり、常連も帰り、親方も奥へ引っ込んだあと。
澪は一人、裏手で道具を片付けていた。
昼間の瑛二の視線が、どうしても頭から離れなかった。
(気のせい……だよね)
そう自分に言い聞かせながら、何気なく作業場の奥へ目を向ける。
——レシピ棚。
暗がりの中で、金具がかすかに光っている。
(……あれ?)
近づいて、澪は息を止めた。
鍵が、わずかに緩んでいる。
普段なら、店主が閉めたあと、澪が触れることはない。
それなのに、鍵穴には小さな引っかき傷が残っていた。
恐る恐る、棚を開ける。
中のレシピ帳は、数え切れないほどある。
母の代、そのまた前から受け継がれてきた、桜舞堂の歴史そのもの。
——そのうちの一冊が、いつもと違う位置にあった。
(……動かされてる)
誰かが、確かに触った痕跡。
澪の背筋を、冷たいものが這い上がった。
(誰……?)
答えは、頭に浮かばないふりをした。
浮かべてしまえば、何かが壊れる気がしたから。
棚を閉め、鍵を掛け直す。
金属音が、夜の静寂にやけに大きく響いた。
その夜、澪はなかなか眠れなかった。
蜜の香りと、低い声と、
棚を見つめる視線が、頭の中で混ざり合って離れない。
♢♢♢
翌朝。
澪が作業場で餡を練っていると、背後から聞き慣れた声がした。
「澪」
振り返ると、幼馴染の谷川勇人が立っていた。
作業着姿で、腕にはうっすらと粉が付いている。
「勇人。おはよう」
「昨日さ……あの客」
一瞬の間。
「話してただろ」
澪の手が止まる。
「え? ああ……開店前に来た人?」
勇人は曖昧に頷き、視線を逸らした。
「……気をつけたほうがいい」
低い声。
普段の軽口とは違う、硬さがあった。
「どうして?」
澪が聞くと、勇人は言葉を探すように唇を噛んだ。
「目つきがな……普通じゃなかった。あれは、何かを企んでいる顔だった」
「普通じゃない?」
「品定めするみたいな目だ。和菓子じゃなくて……」
勇人は、そこで言葉を切った。
「棚、見てただろ」
澪の胸が、強く脈打つ。
「……裏から見てたんだ。俺」
勇人は澪をまっすぐ見つめる。
「澪の母さんのレシピ、全部あそこにある。
誰かに触られたら……困るだろ」
その言葉に、澪は息を呑んだ。
(どうして勇人、こんなに……)
ただの心配以上の何かが、声に滲んでいた。
「……うん。ありがとう」
そう答えるのが精一杯だった。
その時、店主の声が作業場に響いた。
「おーい、勇人! 荷が来たぞ!」
「はい!」
勇人はそう返事をして、去っていく。
その背中を見送りながら、澪は胸のざわめきが消えないのを感じていた。
春の空気は甘い。
だが、その甘さは、どこか危うい。
——瑛二の言葉が、耳の奥で繰り返される。
砂糖より甘い。
それは褒め言葉ではない。
何かを測るための言葉だったのではないか。
その夜。
澪は、もう一度レシピ棚を確認した。
……また、ほんのわずかに動かされている。
鍵を掛け直し、安堵した、その瞬間。
背後の気配。
振り返る。
誰もいない。
ただ、夜気の静寂だけが残っていた。
——この時点では、澪はまだ知らなかった。
甘さに惹かれる優しげな声の奥に、
過去と罪と、支配の影が潜んでいることを。
そして、その影がすでに澪へと、
静かに手を伸ばし始めていることを。
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