19話
桜舞堂の前を流れる勝浦川は、四月の陽を受けて、ゆるやかにきらめいていた。
川面を撫でる風はまだ冷たさを残しているが、そこに混じる匂いは確かに春のものだった。土と水と、どこか甘い花の香り。川沿いの桜並木はすでに盛りを過ぎ、薄桃色の花弁がひらひらと舞い落ち、町の路地や瓦屋根、そして桜舞堂の古い看板の縁にまで静かに積もっている。
毎年見てきたはずの光景なのに、今年はどこか違って見えた。
澪は店の前に立ち、しばらくその景色から目を離せずにいた。
――長い冬が、ようやく終わった。
そう思った瞬間、胸の奥にじんわりと温度が灯る。
それは喜びとも安堵ともつかない、けれど確かに前へ進むための感情だった。
桜舞堂の暖簾は、この朝、久しぶりに新しいものへと掛け替えられている。
深緋色の布に、白い筆文字で大きく「桜舞堂」と染め抜かれたそれは、以前のものよりわずかに色が明るい。
「……ちょっと、派手かな」
澪がそう呟くと、隣で店主が喉を鳴らして笑った。
「ええんじゃ。春じゃけぇ」
短く、それだけ言う。
だがその声には、長い時間を耐えてきた者だけが持つ柔らかさがあった。
店主が倒れ、勇人が事故に遭い、瑛二が姿を消したあの冬。
桜舞堂は、長く深い眠りに沈んでいた。
再び暖簾を出すという行為は、単なる営業再開ではない。
それは「戻る」ことでもあり、「進む」ことでもあった。
澪は暖簾の端にそっと触れ、指先に伝わる布の感触を確かめる。
現実だ、と自分に言い聞かせるように。
「……行こうか」
小さく息を吐き、澪は暖簾をくぐった。
店内には、朝の光が差し込み、木の床を柔らかく照らしている。
かつては当たり前だったこの光景が、今は少しだけ特別に感じられた。
「澪、おはよう」
奥から声がして、澪は顔を上げる。
作業台の前に立っていた勇人は、腕まくりをし、粉まみれのエプロンをつけていた。
その姿は事故の前とほとんど変わらない。けれど、よく見れば動きには慎重さが残っている。
「今日の仕込みは……あぁ、もう始めてるのか」
「うん。少し早く目が覚めちゃって」
澪は蒸籠を指差す。
中では桜餅の生地が、ゆっくりと湯気を立てていた。
「無理はしてない?」
「してないよ」
そう答えた澪の声は、以前よりも柔らかい。
勇人はそれに気づき、わずかに目を細めた。
――この数週間は、嵐のようだった。
勇人がそう感じていたのと同じように、澪の中でも時間は歪んでいた。
ひとつの出来事が終わる前に次が起こり、悲しむ暇も、立ち止まる余裕も与えられなかった。
店主が倒れた日。
勇人が事故に遭った夜。
瑛二が町から姿を消した朝。
それぞれが別々の出来事でありながら、澪の中では一本の糸のように絡み合っている。
桜舞堂は、その糸の中心にあった。
町の人々にとって、桜舞堂は「いつもそこにあるもの」だった。
だからこそ、突然閉ざされた暖簾は、多くの噂と憶測を呼んだ。
「もう畳むらしいで」
「跡継ぎがおらんのやろ」
「甘さの秘訣で揉めたって聞いた」
澪の耳にも、そんな声が届いた。
だが彼女は、それらを否定も肯定もしなかった。
言葉にしてしまえば、何かが決定的に壊れてしまう気がしたからだ。
――あのレシピ帳のことも。
母が遺した、蜜の配合が記された古い帳面。
ページを開けば、澪でさえ息を呑むような精緻な数値と、無数の修正跡が並んでいる。
かつて瑛二は、それを「宝だ」と言った。
守るべきものだと。
そして、奪う価値のあるものだとも。
だが澪は、あの帳面を最後まで読み解くことはなかった。
封じたのだ。
自分の意思で。
帳面は今、桜舞堂の奥座敷、母の仏壇の引き出しに静かに収められている。
鍵もかけていない。
必要なら、いつでも取り出せる。
それでも澪は、そこに手を伸ばそうとはしなかった。
(――使わない、という選択もある)
それを教えてくれたのは、母でも瑛二でもない。
傷だらけになりながら、それでも店に立とうとした勇人の背中だった。
「澪」
勇人の声で、澪は我に返る。
蒸籠の蓋を開けると、ふわりと桜の香りが立ち上った。
生地はちょうどいい具合に蒸し上がっている。
「いい感じ?」
「うん。……ちょっとだけ、火が優しい」
澪はそう言いながら、生地の端を指でつまむ。
弾力と温度を確かめる、その仕草は、もう身体に染みついたものだった。
「最近さ」
勇人が、作業台に視線を落としたまま言う。
「澪の作る蜜、変わったよな」
「……そうかな」
「前はもっと、鋭かった」
その言葉に、澪の手が一瞬止まる。
「甘さが前に出て、後味が追いかけてくる感じ。今は……」
勇人は少し考えてから、言葉を探すように続けた。
「今は、最初から最後まで一緒に歩いてくれる甘さだ」
澪は思わず、ふっと笑った。
「なにそれ」
「褒めてるんだって」
照れたように言う勇人を見て、澪の胸が温かくなる。
――自分が変わったことを、誰かがちゃんと見てくれている。
それだけで、救われる気がした。
***
昼前、店主は一人で中庭に出て、苔の上に落ちた花弁を眺めていた。
澪が声をかけると、店主は振り返り、穏やかな目で彼女を見る。
「ええ顔しとるな」
「……そうですか?」
「悩みきった顔は、もうしとらん」
その言葉に、澪は返事ができなかった。
悩みが消えたわけではない。
ただ、抱え方を覚えただけだ。
店主はゆっくりと腰を下ろし、ぽつりと言った。
「お前さんの母親もな……最後の頃、同じ顔しとった」
澪の胸が、きゅっと縮む。
「甘さはな、極めようとすればするほど、人を孤独にする。せやけど……」
店主は空を見上げた。
「分かち合う覚悟を持った甘さは、人を生かす」
その言葉は、説教でも助言でもなかった。
ただ、長い時間を生きてきた職人の、静かな実感だった。
澪は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼なんぞいらん。お前さんが、ここに立っとる。それだけで十分じゃ」
***
午後、店の裏手で、澪は一通の手紙を焼却炉に入れた。
瑛二から、最後に届いたもの。
開封されないまま、引き出しに眠っていた封筒。
――読むべきだったのかもしれない。
そう思わないわけではない。
だが、読めばきっと、また甘さが歪む。
封筒が火に触れ、ゆっくりと文字が黒く崩れていく。
澪はそれを、最後まで見届けた。
逃げではない。
選択だ。
その瞬間、胸の奥で、何かが静かに終わった。
***
夕方。
店内では、職人たちが互いの試作品を持ち寄り、味見をしていた。
「澪、これどう思う?」
「もう少し、蜜を控えてもいいかも」
意見が飛び交い、笑い声が混じる。
桜舞堂に、音が戻ってきた。
勇人がその光景を眺めながら、静かに言った。
「……やっぱり、ここはこうじゃないとな」
澪は頷いた。
「うん。ここは、人が集まって、甘さを分け合う場所だから」
外では、夕陽が川面を黄金色に染めている。
その光を背に、桜舞堂は、再び息を吹き返そうとしていた。
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