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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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19/28

19話

 桜舞堂の前を流れる勝浦川は、四月の陽を受けて、ゆるやかにきらめいていた。


 川面を撫でる風はまだ冷たさを残しているが、そこに混じる匂いは確かに春のものだった。土と水と、どこか甘い花の香り。川沿いの桜並木はすでに盛りを過ぎ、薄桃色の花弁がひらひらと舞い落ち、町の路地や瓦屋根、そして桜舞堂の古い看板の縁にまで静かに積もっている。


 毎年見てきたはずの光景なのに、今年はどこか違って見えた。

 澪は店の前に立ち、しばらくその景色から目を離せずにいた。


 ――長い冬が、ようやく終わった。


 そう思った瞬間、胸の奥にじんわりと温度が灯る。

 それは喜びとも安堵ともつかない、けれど確かに前へ進むための感情だった。


 桜舞堂の暖簾は、この朝、久しぶりに新しいものへと掛け替えられている。

 深緋色の布に、白い筆文字で大きく「桜舞堂」と染め抜かれたそれは、以前のものよりわずかに色が明るい。


「……ちょっと、派手かな」


 澪がそう呟くと、隣で店主が喉を鳴らして笑った。


「ええんじゃ。春じゃけぇ」


 短く、それだけ言う。

 だがその声には、長い時間を耐えてきた者だけが持つ柔らかさがあった。


 店主が倒れ、勇人が事故に遭い、瑛二が姿を消したあの冬。

 桜舞堂は、長く深い眠りに沈んでいた。


 再び暖簾を出すという行為は、単なる営業再開ではない。

 それは「戻る」ことでもあり、「進む」ことでもあった。


 澪は暖簾の端にそっと触れ、指先に伝わる布の感触を確かめる。

 現実だ、と自分に言い聞かせるように。


「……行こうか」


 小さく息を吐き、澪は暖簾をくぐった。


 店内には、朝の光が差し込み、木の床を柔らかく照らしている。

 かつては当たり前だったこの光景が、今は少しだけ特別に感じられた。


「澪、おはよう」


 奥から声がして、澪は顔を上げる。


 作業台の前に立っていた勇人は、腕まくりをし、粉まみれのエプロンをつけていた。

 その姿は事故の前とほとんど変わらない。けれど、よく見れば動きには慎重さが残っている。


「今日の仕込みは……あぁ、もう始めてるのか」


「うん。少し早く目が覚めちゃって」


 澪は蒸籠を指差す。

 中では桜餅の生地が、ゆっくりと湯気を立てていた。


「無理はしてない?」


「してないよ」


 そう答えた澪の声は、以前よりも柔らかい。

 勇人はそれに気づき、わずかに目を細めた。


 ――この数週間は、嵐のようだった。


 勇人がそう感じていたのと同じように、澪の中でも時間は歪んでいた。

 ひとつの出来事が終わる前に次が起こり、悲しむ暇も、立ち止まる余裕も与えられなかった。


 店主が倒れた日。

 勇人が事故に遭った夜。

 瑛二が町から姿を消した朝。


 それぞれが別々の出来事でありながら、澪の中では一本の糸のように絡み合っている。


 桜舞堂は、その糸の中心にあった。


 町の人々にとって、桜舞堂は「いつもそこにあるもの」だった。

 だからこそ、突然閉ざされた暖簾は、多くの噂と憶測を呼んだ。


「もう畳むらしいで」

「跡継ぎがおらんのやろ」

「甘さの秘訣で揉めたって聞いた」


 澪の耳にも、そんな声が届いた。

 だが彼女は、それらを否定も肯定もしなかった。


 言葉にしてしまえば、何かが決定的に壊れてしまう気がしたからだ。


 ――あのレシピ帳のことも。


 母が遺した、蜜の配合が記された古い帳面。

 ページを開けば、澪でさえ息を呑むような精緻な数値と、無数の修正跡が並んでいる。


 かつて瑛二は、それを「宝だ」と言った。

 守るべきものだと。

 そして、奪う価値のあるものだとも。


 だが澪は、あの帳面を最後まで読み解くことはなかった。


 封じたのだ。

 自分の意思で。


 帳面は今、桜舞堂の奥座敷、母の仏壇の引き出しに静かに収められている。

 鍵もかけていない。

 必要なら、いつでも取り出せる。


 それでも澪は、そこに手を伸ばそうとはしなかった。


(――使わない、という選択もある)


 それを教えてくれたのは、母でも瑛二でもない。

 傷だらけになりながら、それでも店に立とうとした勇人の背中だった。


「澪」


 勇人の声で、澪は我に返る。


 蒸籠の蓋を開けると、ふわりと桜の香りが立ち上った。

 生地はちょうどいい具合に蒸し上がっている。


「いい感じ?」


「うん。……ちょっとだけ、火が優しい」


 澪はそう言いながら、生地の端を指でつまむ。

 弾力と温度を確かめる、その仕草は、もう身体に染みついたものだった。


「最近さ」


 勇人が、作業台に視線を落としたまま言う。


「澪の作る蜜、変わったよな」


「……そうかな」


「前はもっと、鋭かった」


 その言葉に、澪の手が一瞬止まる。


「甘さが前に出て、後味が追いかけてくる感じ。今は……」


 勇人は少し考えてから、言葉を探すように続けた。


「今は、最初から最後まで一緒に歩いてくれる甘さだ」


 澪は思わず、ふっと笑った。


「なにそれ」


「褒めてるんだって」


 照れたように言う勇人を見て、澪の胸が温かくなる。


 ――自分が変わったことを、誰かがちゃんと見てくれている。


 それだけで、救われる気がした。


 ***


 昼前、店主は一人で中庭に出て、苔の上に落ちた花弁を眺めていた。


 澪が声をかけると、店主は振り返り、穏やかな目で彼女を見る。


「ええ顔しとるな」


「……そうですか?」


「悩みきった顔は、もうしとらん」


 その言葉に、澪は返事ができなかった。


 悩みが消えたわけではない。

 ただ、抱え方を覚えただけだ。


 店主はゆっくりと腰を下ろし、ぽつりと言った。


「お前さんの母親もな……最後の頃、同じ顔しとった」


 澪の胸が、きゅっと縮む。


「甘さはな、極めようとすればするほど、人を孤独にする。せやけど……」


 店主は空を見上げた。


「分かち合う覚悟を持った甘さは、人を生かす」


 その言葉は、説教でも助言でもなかった。

 ただ、長い時間を生きてきた職人の、静かな実感だった。


 澪は深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


「礼なんぞいらん。お前さんが、ここに立っとる。それだけで十分じゃ」


 ***


 午後、店の裏手で、澪は一通の手紙を焼却炉に入れた。


 瑛二から、最後に届いたもの。

 開封されないまま、引き出しに眠っていた封筒。


 ――読むべきだったのかもしれない。


 そう思わないわけではない。

 だが、読めばきっと、また甘さが歪む。


 封筒が火に触れ、ゆっくりと文字が黒く崩れていく。


 澪はそれを、最後まで見届けた。


 逃げではない。

 選択だ。


 その瞬間、胸の奥で、何かが静かに終わった。


 ***


 夕方。

 店内では、職人たちが互いの試作品を持ち寄り、味見をしていた。


「澪、これどう思う?」


「もう少し、蜜を控えてもいいかも」


 意見が飛び交い、笑い声が混じる。


 桜舞堂に、音が戻ってきた。


 勇人がその光景を眺めながら、静かに言った。


「……やっぱり、ここはこうじゃないとな」


 澪は頷いた。


「うん。ここは、人が集まって、甘さを分け合う場所だから」


 外では、夕陽が川面を黄金色に染めている。


 その光を背に、桜舞堂は、再び息を吹き返そうとしていた。

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