18話
蜜の鍋から立ち上る湯気は、仕込み場の天井へゆっくりと溶けていった。
白熱灯の光を受けて、淡い金色の粒子が空気の中を漂う。
澪は木べらを持ったまま、しばらく動けずにいた。
自分の手の中にある甘さ。
それは、確かに今ここで生まれている。
けれど同時に、胸の奥には、まだ消えきらない影があった。
——瑛二。
名前を思い浮かべるだけで、心のどこかが微かに軋む。
憎しみでも、恋慕でもない。
もっと曖昧で、厄介な感情。
澪は鍋の火を少し弱め、蜜の様子を見つめる。
瑛二と出会った日のことが、ふいに脳裏に浮かんだ。
初めて店を訪れた日の、彼の視線。
蜜を口に含んだ瞬間の、わずかな表情の変化。
まるで、長く探していた何かを見つけたかのような、あの目。
——甘さに、飢えていた目。
(あの人は……)
澪は、ゆっくりと息を吸う。
(私を見ていたんじゃない。
私の中にある“甘さ”を見ていた)
その事実に気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
瑛二は、甘さを信じていなかった。
信じられなかった、と言った方が近いのかもしれない。
甘さは、人を堕落させる。
甘さは、人を依存させる。
甘さは、いつか必ず裏切る。
だから彼は、甘さを支配しようとした。
毒になる前に、自分のものにしようとした。
その対象が、たまたま澪だっただけだ。
澪は木べらを鍋の縁に置き、両手で鍋を見つめた。
蜜は静かに揺れている。
泡は立たず、濁りもない。
澪は、ふと母の背中を思い出す。
仕込み場で、黙々と蜜を炊く母。
背筋はいつもまっすぐで、無駄な動きがなかった。
けれど、母の甘さは、時に重かった。
誰かを喜ばせたい。
誰かを満たしたい。
その想いが、少しずつ蜜に溶け込み、濃くなっていった。
澪は、母を責めることはできない。
それが母の生き方であり、桜舞堂を守るための選択だったから。
でも——
(私は、同じやり方は選ばない)
澪は、静かに心の中で言い切った。
母の甘さは、母のもの。
瑛二が求めた甘さも、瑛二のもの。
私の甘さは、私が決める。
その瞬間、仕込み場の空気が、ほんのわずかに変わった気がした。
澪は背後を振り返る。
もちろん、誰もいない。
それでも、確かに感じた。
誰かの視線のような、残響のようなものが、静かにほどけていくのを。
「……もう、いいよね」
澪は、小さく呟いた。
母に向けてか。
瑛二に向けてか。
それとも、自分自身に向けてか。
答えは、やはり分からない。
ただ、胸の奥にあった重みが、確実に軽くなっていた。
***
蜜の温度が、ちょうどいいところまで下がった。
澪は鍋の火を止め、ゆっくりと蜜を容器に移し替える。
ガラスの器に注がれた蜜は、淡い金色の光を抱え込んでいる。
照明の下で揺らすと、透明な層が幾重にも重なって見えた。
それは、過去の記憶の層のようでもあった。
澪は器を両手で持ち上げ、その重みを確かめる。
重すぎない。
軽すぎない。
ちょうどいい。
胸の奥に、穏やかな満足感が広がった。
そのとき、ふと涙がこぼれた。
理由は、はっきりしない。
悲しいわけでも、苦しいわけでもない。
ただ、長い時間、張りつめていた何かが、静かに解けたのだ。
「……ありがとう」
澪は、誰にともなく言った。
母へ。
瑛二へ。
そして、ずっと甘さに向き合ってきた、自分自身へ。
仕込み場の外では、風が吹いている。
戸の隙間から、夜の匂いが流れ込んでくる。
春の終わりの匂い。
そして、初夏の気配。
澪は器を作業台に置き、ふと奥の棚へ視線を向けた。
母のレシピ帳。
今もそこにある。
触れれば、すぐに手に取れる距離。
けれど、澪は動かなかった。
(もう、必要ない)
その確信は、揺るがなかった。
澪は灯りを少し落とし、仕込み場を見渡す。
長年使われてきた鍋。
擦り切れた木べら。
壁に染みついた甘い匂い。
ここは、母の場所であり、父の場所であり、
そして、これからは——
(私の場所でもある)
その事実を、ようやく素直に受け入れられた。
***
店の外に出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。
桜舞堂の灯りが、静かに店先を照らしている。
その光は、強すぎず、弱すぎず、ただそこに在る。
澪は深呼吸をし、空を見上げた。
星が、いくつも瞬いている。
川の流れと同じように、変わらず、そこにある光。
過去は変えられない。
母の死も。
瑛二の痛みも。
勇人の想いも。
けれど——
未来の甘さは、自分で選べる。
澪は、出来上がった蜜の器を胸に抱き、ゆっくりと店に戻った。
この甘さを、いつ誰に届けるのか。
それは、まだ決めなくていい。
今はただ、自分の中に生まれた確信を、温めていればいい。
春の夜風が、町を包み込む。
澪の歩みは、迷いなく、静かだった。
夜は、いつの間にか深さを増していた。
桜舞堂の仕込み場に戻った澪は、出来上がった蜜の器を棚に置き、しばらくその前に立っていた。
灯りを落とした店内は静まり返り、昼間の賑わいが遠い記憶のように感じられる。
蜜は、もう動かない。
完全に落ち着き、器の中で静かな光を抱えている。
澪は、その光を見つめながら、胸の奥に残っていた最後のざわめきに気づいた。
——瑛二。
もう、彼の姿を思い浮かべても、心は大きく揺れない。
それでも、何かを言い残しているような感覚が、どこかにあった。
澪はそっと目を閉じる。
瑛二が口にした言葉。
強引な態度の裏に隠れていた、不安と焦り。
甘さを恐れながらも、求めずにはいられなかった、その矛盾。
彼もまた、甘さに傷ついた人だったのだろう。
だからといって、澪が差し出すべきものではない。
救うべき相手でもない。
それを、今ならはっきりと言える。
「……さよなら、瑛二さん」
澪は、声に出して言った。
それは、拒絶ではない。
許しでもない。
ただ、境界線を引くための言葉だった。
その瞬間、胸の奥に、澄んだ静けさが広がった。
***
澪は店の戸を開け、外へ出た。
夜の勝浦町は、穏やかに眠っている。
遠くで川の流れる音が、一定のリズムを刻んでいた。
春の終わりの風が、頬をなぞる。
もう、桜の香りはほとんど残っていない。
代わりに、草と土と、水の匂いが混ざった、初夏の気配が強くなっていた。
澪は、店の前に立ち、夜空を見上げる。
星は、はっきりと瞬いている。
雲に隠れることなく、澄んだ光を放っていた。
甘い季節は、終わった。
母の甘さに守られていた時間。
瑛二の甘さに揺さぶられた時間。
それらはすべて、澪の中で役割を終えた。
けれど、甘さそのものが消えたわけではない。
澪は、静かに気づく。
甘さとは、依存でも、支配でもない。
ましてや、毒である必要もない。
選び取った甘さだけが、人を生かす。
澪は、店内に戻り、仕込み場の棚から蜜の器を取り上げた。
その重みは、確かだった。
この蜜は、誰かを縛らない。
誰かを満たすためだけに存在しない。
自分が、自分であるための甘さ。
澪は器を胸に抱き、静かに微笑んだ。
***
数日後。
桜舞堂の朝は、いつもより少しだけ明るかった。
店主——澪の父が、退院して戻ってきたのだ。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、澪の胸に温かいものが広がる。
「おかえり」
短い言葉のやり取り。
けれど、その中には、長い時間の重みがあった。
父は店の様子を見渡し、ゆっくりと頷く。
「……澪、よく守ってくれたな」
「守ったっていうか……」
澪は少し照れながら言う。
「作ってただけ」
父は小さく笑った。
「それで十分だ」
仕込み場に立ち、澪は新しい蜜を使った菓子を父に差し出す。
「食べてみて」
父は一口、ゆっくりと口に運んだ。
しばらく黙り込んだあと、静かに言う。
「……軽いな。でも、薄くない」
その言葉に、澪の胸がきゅっと締まる。
「澪の味だ」
それ以上の評価は、必要なかった。
***
店が開く頃、勇人が顔を出した。
「お、開店早いな」
「試作があるから」
澪は少しだけ笑う。
「じゃあ、俺も試食係?」
「一番目のお客さん」
勇人は嬉しそうに頷いた。
菓子を口にした勇人は、目を見開き、それからゆっくりと息を吐いた。
「……澄んでる」
「甘さが?」
「うん。澪そのものみたいだ」
澪は言葉を失い、視線を逸らす。
「……それ、褒めてる?」
「もちろん」
勇人は照れくさそうに笑った。
二人の間に、穏やかな空気が流れる。
急ぐ必要はない。
確かめ合う必要もない。
ただ、同じ時間を生きていけばいい。
***
夕方。
桜舞堂の前を、観光客が通り過ぎていく。
風が暖かく、空は淡い橙色に染まっている。
澪は暖簾を整え、店の前に立った。
この町で。
この店で。
自分の甘さを作り続ける。
それが、今の澪の選んだ道だった。
甘さの向こう側には、何もないわけじゃない。
そこには、澄んだ光がある。
澪は、静かに息を吸い、胸の奥で呟く。
(もう、誰にも奪わせない)
澪の手の中にある透明な蜜のように——
彼女自身の人生は、これから、確かな光をまといながら進んでいく。
春が終わり、季節は夏へ向かう。
新しい甘さとともに。
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