17話
二人は川沿いの道を外れ、少し奥まった場所にある小さなベンチへ向かった。
桜の木が何本か残っている一角で、葉はすでに若草色に変わっている。
昼間は観光客が休憩に使う場所だが、夜になると人影はなく、川の流れる音だけが静かに響いていた。
澪はベンチに腰を下ろし、スカートの裾を軽く整える。
木製の板は昼の熱をまだ少しだけ残していて、掌に触れるとほのかに温かい。
空を見上げると、星が二つ、三つと浮かび始めていた。
町の灯りが完全に消えることはないが、それでも春の終わりの空は澄んでいる。
星は控えめに、けれど確かにそこにあった。
「……静かだね」
澪がぽつりと言う。
「この時間の勝浦は、昔からこんな感じだよ」
勇人はベンチの背もたれに軽く寄りかかり、川の方を見つめていた。
「子どもの頃さ、夜になると川が怖くてさ。
暗いと、水の音が大きく聞こえるだろ?」
「分かる。私も苦手だった」
澪は小さく笑う。
「でも今は……」
「今は?」
「今は、流れてるって分かるから」
勇人は一瞬、澪の方を見て、それから静かに頷いた。
「……そうだな」
沈黙が、二人の間に落ちる。
けれどそれは気まずさを伴わない、柔らかな沈黙だった。
澪は、勇人の横顔を盗み見る。
入院していたせいか、以前より少しだけ痩せたように見える。
けれど、その輪郭は以前よりも落ち着いていた。
この人は、ちゃんと時間を通り抜けてきた。
痛みも、不安も、恐怖も、すべて抱えたまま。
「……そういえば」
勇人が思い出したように言う。
「澪、母さんのレシピ帳……戻したんだって?」
澪は小さく息を吸い、ゆっくり頷いた。
「うん。奥の棚に」
「もう……開かない?」
「うん。たぶん、もう」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。
それでも、後悔の感触はなかった。
「後悔……してない?」
勇人の声は、確かめるように慎重だった。
澪は目を閉じ、あの時のことを思い出す。
古い紙の匂い。
湿った空気。
ページを閉じたときの、胸を締めつけるような静けさ。
けれど、それは恐怖ではなかった。
むしろ、決別のあとに訪れる、奇妙な安堵に近い。
「後悔してない」
澪は、はっきりと言った。
「母の蜜は、母のものだもの」
風が、桜の葉を揺らす。
「私は……私の甘さを作るよ」
勇人は深く頷いた。
「そっか」
その一言には、余計な感情が含まれていなかった。
ただ、澪の選択を受け止めるだけの、静かな肯定。
「じゃあさ」
勇人は、少しだけ笑った。
「桜舞堂の新しい看板メニュー、楽しみにしてる」
「え……?」
澪は驚いて勇人を見る。
「澪の甘さで作った菓子。
俺は、それを一番楽しみにしてる」
その言葉は、期待でもあり、信頼でもあった。
責任を押しつけるものではなく、ただ未来を指差すだけの言葉。
澪の胸が、じんわりと熱くなる。
(私の甘さ……)
誰かのために作る甘さではない。
誰かに認められるための甘さでもない。
自分が「美味しい」と思える甘さ。
その先にどんな未来が待っているのか、澪にはまだ分からない。
けれど、川を渡ってくる風に吹かれた瞬間、
その未来が、ほんの少しだけ形を持ち始めた気がした。
澪はベンチから立ち上がる。
「……私、店に戻る」
「今から?」
「うん。どうしても、やりたいことがあって」
勇人は驚いたように眉を上げ、それから苦笑した。
「相変わらずだな」
「ごめん」
「いいよ」
勇人は立ち上がり、澪の前に立つ。
「無理はするなよ」
「しない。……たぶん」
二人は目を合わせ、ほんの一瞬、言葉を失った。
何かを期待すれば、何かを失う。
けれど、今はそれでいい。
勇人は、軽く手を振った。
「じゃあ、また明日」
「うん。おやすみ」
澪はそう言って、桜舞堂の方へ歩き出した。
背後で、勇人の足音が遠ざかっていく。
その距離が、不思議と心地よかった。
***
桜舞堂に戻ると、店は完全に闇に沈んでいた。
表の戸は閉まり、暖簾も外されている。
昼間の喧騒が嘘のように、音がない。
澪は裏口から店に入り、靴を脱いだ。
古い木の床が、きしりと小さな音を立てる。
その音さえも、今は愛おしい。
仕込み場へ向かう途中、澪は一度立ち止まる。
奥の棚。
母のレシピ帳が眠る場所。
視線が、自然とそこへ向かう。
(もう、開かない)
そう決めたはずなのに、胸の奥が微かに揺れた。
けれど、澪は首を振り、仕込み場へ足を向ける。
灯りをつけると、白熱灯がぼんやりと周囲を照らした。
鍋や木べら、計量器が、昼とは違う表情で浮かび上がる。
澪は鍋の前に立ち、深く息を吸った。
甘さを作る。
それは、いつもと同じ行為のはずなのに、今夜は違って感じられる。
火をつける。
静かな音とともに、青い炎が揺れた。
鍋に水を入れ、砂糖を加える。
白い粒が、水の中でゆっくりと沈んでいく。
木べらを手に取り、澪はそっと混ぜ始めた。
「……ただいま」
誰に言うわけでもなく、澪はつぶやく。
母にか。
店にか。
それとも、自分自身にか。
答えは、分からなかった。
蜜が温まり始めると、甘い香りがゆっくりと立ちのぼる。
砂糖が溶ける音は、雨のように静かだ。
澪は温度計を見つめ、火加減を調整する。
いつもより、少しだけ低め。
焦らない。
急がない。
時間をかけて、澄ませていく。
そのとき——
背後で、ふっと風が吹いた。
空気が、一瞬だけ揺れた。
澪の肩が、びくりと震える。
裏口は、確かに閉めたはずだった。
鍵の音も、確認した。
「……気のせい?」
そう思おうとする。
けれど、胸の奥に、微かなざわめきが残った。
(瑛二さん……?)
振り返る。
仕込み場には、誰もいない。
鍋の中の蜜が、静かに揺れているだけだ。
澪は目を閉じ、深呼吸をひとつした。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように。
「……もう、私は縛られない」
その言葉を口に出した瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。
澪は再び鍋に向き直る。
木べらを動かし、蜜の様子を確かめる。
透明だった液体は、少しずつ淡い金色を帯び始めていた。
光の粒が、ゆっくりと増えていく。
それは、母の蜜とも、瑛二が求めた甘さとも違う。
軽やかで、風のようで、
それでいて、確かな芯を持った甘さ。
春の終わりと、初夏の始まりを、同時に抱え込んだような味。
澪は木べらを止め、蜜をすくい上げる。
灯りに透かした瞬間、胸の奥に熱が広がった。
(これが……私の甘さ)
蜜の滴が、鍋に落ちるたび、
澪の胸の中に、静かな確信が芽生えていく。
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