16話
勝浦町の夜は、春の終わりに差しかかると、昼とはまったく違う顔を見せる。
昼間、観光客の笑い声と足音で満ちていた通りは、日が落ちると途端に静まり返り、家々の軒先から漏れる灯りだけが、川沿いの道を細く照らす。
潮の匂いは薄れ、代わりに川の湿り気と、山から下りてくる若葉の青い香りが混ざり合う。その匂いは、春が終わろうとしていることを、誰に言われるでもなく知らせてくる。
桜はすでに散った。
けれど、完全に姿を消したわけではない。
勝浦川の水面を覗き込めば、夜の闇を映した流れの中に、淡い花弁がいくつも揺れている。
流されながら、ぶつかり、重なり、やがてほどける。
まるで、季節そのものが名残を惜しんでいるかのようだった。
澪は、その光景を何度も見てきたはずなのに、この夜はなぜか胸の奥に長く残った。
桜舞堂の裏手、川に面した小さな道を歩きながら、澪は足元の砂利の音に耳を澄ませる。
自分の足音が、いつもよりはっきり聞こえた。
——あの夜から、二週間。
瑛二と別れ、母のレシピ帳を取り戻してから、たしかに時間は流れていた。
朝が来て、夜が来て、菓子を作り、眠り、また朝を迎える。
同じ繰り返しのはずなのに、その一日一日が、以前とは微妙に違って感じられる。
長かったようで、短かった。
重かったようで、気づけば指の間からこぼれ落ちていたような、不思議な時間。
桜舞堂は相変わらず忙しかった。
連休の名残で観光客は途切れず、店の前には甘味を求める人の列ができる。
名物の蜜団子、季節限定の柏餅、そして母の代から続く最中。
次々に注文が入り、仕込み場では火と水の音が絶えない。
けれど、店主——澪の父は、まだ戻っていなかった。
病院の白い天井の下で、少しずつ回復していると聞いている。
声も、笑顔も、以前と同じように穏やかだという。
それでも、桜舞堂の空気は、どこか張り詰めたままだった。
澪は職人たちと役割を分担し、朝から晩まで菓子を作り続けた。
蜜を煮詰め、餡を炊き、餅を搗き、成形する。
木べらの重さ、鍋の熱、砂糖が溶ける音。
すべてが身体に染みついた作業だった。
けれど、同じ工程をなぞっているはずなのに、出来上がる甘さは、以前とはどこか違っていた。
蜜のとろみは、ほんのわずかに軽い。
餡の後味は、舌の奥に残る時間が短い。
甘さそのものが、少しだけ風通しを良くしたような感触。
理由は分からない。
いや、本当は分かっているのかもしれない。
——あの夜、瑛二が最後に見せた表情。
自分の手から、母のレシピ帳が離れていった瞬間。
そして、「もう戻らない」と決めた、胸の奥の静かな断絶。
それらが、知らず知らずのうちに、澪の指先に影を落としていた。
(変わるって……こういうことなんだろうな)
仕込み場の隅で、澪は小さく息を吐く。
蜜をすくい上げると、鍋から細い糸を引きながら、ゆっくりと落ちていく。
照明の光を受けて、その糸は淡く輝いた。
母の蜜よりも、少しだけ軽やか。
けれど、芯がないわけじゃない。
それは、誰かに褒められるための甘さではなかった。
誰かの記憶をなぞるための甘さでもない。
——自分のために作った甘さ。
その事実に、澪はようやく気づき始めていた。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
***
閉店後の桜舞堂は、昼とは別の生き物のようだった。
暖簾を下ろし、表の明かりを落とすと、店内には木と砂糖の匂いだけが残る。
職人たちが帰ったあと、広いはずの店は急に狭く感じられた。
帳場の整理を終え、澪が暖簾を外そうとした、その時。
「澪」
背後から、静かな声がした。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは勇人だった。
退院してから、まだ数日。
以前と変わらない穏やかな表情。
けれど、近くで見ると、その目の奥には、前よりも深い色が宿っている。
痛みや、不安や、時間を越えた何かを、ちゃんと通り抜けてきた人の目だった。
「もう終わり?」
「うん。今、片づけ終わったところ」
「そっか」
勇人は一歩、店内に足を踏み入れる。
遠慮がちで、けれど自然な仕草だった。
「……ちょっと、散歩しない?」
その誘い方は、強引でも、ためらいがちでもない。
ただ、澪の気持ちを確かめるような間があった。
「うん」
澪が頷くと、勇人はほっとしたように息を吐き、柔らかく微笑んだ。
その表情を見て、澪は胸の奥が少しだけ痛んだ。
自分がどれほど彼に心配をかけてきたのか、今さらながら思い知らされる。
二人は並んで、夜の通りへ出た。
夕暮れの名残はすでに消え、空は深い藍色に染まっている。
川面には、街灯と星の光が混ざり合って揺れていた。
風が柔らかい。
昼間の熱をほんの少しだけ残しながら、春の匂いを名残惜しそうに運んでくる。
「最近……どう?」
勇人が、前を向いたまま尋ねた。
声は低く、穏やかで、澪を急かさない。
「忙しいよ。でも……変わった」
「変わった?」
「うん。いろんなことが」
それだけで、勇人は分かったように小さく笑った。
「……そりゃ、あれだけのことがあったらな」
責める響きは、どこにもない。
ただ、事実を受け止めるだけの声。
二人の歩幅は、自然と揃っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、勇人が少しだけ言い淀む。
「……瑛二さんのこと、気になる?」
慎重に選ばれた言葉だった。
澪は立ち止まり、川の方へ視線を向ける。
水の流れは、変わらず、淡々と夜を運んでいる。
「気になるっていうのとは……違うかな」
澪は、言葉を探しながら続けた。
「ただ……あの時の言葉が、まだ胸に残ってる」
「言葉?」
「『甘さは、毒になることもある』って……」
澪は小さく息を吸い込む。
「私も、それを自分の手で確かめなきゃいけない気がしてる」
勇人は何も言わず、ただ隣に立ってくれる。
昔から変わらないところだった。
澪は、その沈黙に背中を押されるように、言葉を続けた。
「瑛二さんのこと、嫌いにはなれないよ。
でも……好きでもない」
夜風が、二人の間を通り抜ける。
「瑛二さんが求めていたのは、私じゃなくて……
“私の甘さ”だったから」
勇人はゆっくりと息を吐いた。
「……澪は、優しすぎる」
「優しくないよ」
澪は首を振る。
「私、あの日……瑛二さんを突き放したんだもの」
勇人は、澪の方を見た。
「突き放したんじゃない。
澪は選んだんだよ」
「……選んだ?」
「自分の甘さも、自分の道も」
その言葉は、静かで、強かった。
「ありがとう、勇人」
澪の声は、思ったよりも震えていた。
「あなたがいたから……
私、逃げずに立てたんだと思う」
勇人は一瞬、言葉を失ったように目を見開き、それから照れたように笑った。
「そんなこと言われたら……また、好きになるだろ」
「……!」
澪の顔が一気に熱くなる。
「じょ、冗談……?」
「冗談半分。……本気も半分」
勇人は苦笑した。
「でも、今は言うだけでいい」
彼は視線を夜空へ向ける。
「澪が、自分の甘さを決めるまで、俺は待つよ」
澪は、勇人の横顔を見つめた。
「甘さってさ、急いで結晶させようとすると濁るだろ?
ゆっくり、時間をかけないと、澄んだ蜜にならない」
その言葉は、澪の胸に静かに広がっていった。
支配ではない。
束縛でもない。
ただ、見守るための距離。
——瑛二が、決して持てなかった優しさ。
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