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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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16/28

16話

 勝浦町の夜は、春の終わりに差しかかると、昼とはまったく違う顔を見せる。


 昼間、観光客の笑い声と足音で満ちていた通りは、日が落ちると途端に静まり返り、家々の軒先から漏れる灯りだけが、川沿いの道を細く照らす。

 潮の匂いは薄れ、代わりに川の湿り気と、山から下りてくる若葉の青い香りが混ざり合う。その匂いは、春が終わろうとしていることを、誰に言われるでもなく知らせてくる。


 桜はすでに散った。

 けれど、完全に姿を消したわけではない。


 勝浦川の水面を覗き込めば、夜の闇を映した流れの中に、淡い花弁がいくつも揺れている。

 流されながら、ぶつかり、重なり、やがてほどける。

 まるで、季節そのものが名残を惜しんでいるかのようだった。


 澪は、その光景を何度も見てきたはずなのに、この夜はなぜか胸の奥に長く残った。


 桜舞堂の裏手、川に面した小さな道を歩きながら、澪は足元の砂利の音に耳を澄ませる。

 自分の足音が、いつもよりはっきり聞こえた。


 ——あの夜から、二週間。


 瑛二と別れ、母のレシピ帳を取り戻してから、たしかに時間は流れていた。

 朝が来て、夜が来て、菓子を作り、眠り、また朝を迎える。

 同じ繰り返しのはずなのに、その一日一日が、以前とは微妙に違って感じられる。


 長かったようで、短かった。

 重かったようで、気づけば指の間からこぼれ落ちていたような、不思議な時間。


 桜舞堂は相変わらず忙しかった。


 連休の名残で観光客は途切れず、店の前には甘味を求める人の列ができる。

 名物の蜜団子、季節限定の柏餅、そして母の代から続く最中。

 次々に注文が入り、仕込み場では火と水の音が絶えない。


 けれど、店主——澪の父は、まだ戻っていなかった。


 病院の白い天井の下で、少しずつ回復していると聞いている。

 声も、笑顔も、以前と同じように穏やかだという。

 それでも、桜舞堂の空気は、どこか張り詰めたままだった。


 澪は職人たちと役割を分担し、朝から晩まで菓子を作り続けた。


 蜜を煮詰め、餡を炊き、餅を搗き、成形する。

 木べらの重さ、鍋の熱、砂糖が溶ける音。

 すべてが身体に染みついた作業だった。


 けれど、同じ工程をなぞっているはずなのに、出来上がる甘さは、以前とはどこか違っていた。


 蜜のとろみは、ほんのわずかに軽い。

 餡の後味は、舌の奥に残る時間が短い。

 甘さそのものが、少しだけ風通しを良くしたような感触。


 理由は分からない。

 いや、本当は分かっているのかもしれない。


 ——あの夜、瑛二が最後に見せた表情。

 自分の手から、母のレシピ帳が離れていった瞬間。

 そして、「もう戻らない」と決めた、胸の奥の静かな断絶。


 それらが、知らず知らずのうちに、澪の指先に影を落としていた。


(変わるって……こういうことなんだろうな)


 仕込み場の隅で、澪は小さく息を吐く。


 蜜をすくい上げると、鍋から細い糸を引きながら、ゆっくりと落ちていく。

 照明の光を受けて、その糸は淡く輝いた。


 母の蜜よりも、少しだけ軽やか。

 けれど、芯がないわけじゃない。


 それは、誰かに褒められるための甘さではなかった。

 誰かの記憶をなぞるための甘さでもない。


 ——自分のために作った甘さ。


 その事実に、澪はようやく気づき始めていた。


 胸の奥で、何かが静かにほどけていく。


 ***


 閉店後の桜舞堂は、昼とは別の生き物のようだった。


 暖簾を下ろし、表の明かりを落とすと、店内には木と砂糖の匂いだけが残る。

 職人たちが帰ったあと、広いはずの店は急に狭く感じられた。


 帳場の整理を終え、澪が暖簾を外そうとした、その時。


「澪」


 背後から、静かな声がした。


 驚いて振り返ると、そこに立っていたのは勇人だった。


 退院してから、まだ数日。

 以前と変わらない穏やかな表情。

 けれど、近くで見ると、その目の奥には、前よりも深い色が宿っている。


 痛みや、不安や、時間を越えた何かを、ちゃんと通り抜けてきた人の目だった。


「もう終わり?」


「うん。今、片づけ終わったところ」


「そっか」


 勇人は一歩、店内に足を踏み入れる。

 遠慮がちで、けれど自然な仕草だった。


「……ちょっと、散歩しない?」


 その誘い方は、強引でも、ためらいがちでもない。

 ただ、澪の気持ちを確かめるような間があった。


「うん」


 澪が頷くと、勇人はほっとしたように息を吐き、柔らかく微笑んだ。


 その表情を見て、澪は胸の奥が少しだけ痛んだ。

 自分がどれほど彼に心配をかけてきたのか、今さらながら思い知らされる。


 二人は並んで、夜の通りへ出た。


 夕暮れの名残はすでに消え、空は深い藍色に染まっている。

 川面には、街灯と星の光が混ざり合って揺れていた。


 風が柔らかい。

 昼間の熱をほんの少しだけ残しながら、春の匂いを名残惜しそうに運んでくる。


「最近……どう?」


 勇人が、前を向いたまま尋ねた。


 声は低く、穏やかで、澪を急かさない。


「忙しいよ。でも……変わった」


「変わった?」


「うん。いろんなことが」


 それだけで、勇人は分かったように小さく笑った。


「……そりゃ、あれだけのことがあったらな」


 責める響きは、どこにもない。

 ただ、事実を受け止めるだけの声。


 二人の歩幅は、自然と揃っていた。


 しばらく沈黙が続いたあと、勇人が少しだけ言い淀む。


「……瑛二さんのこと、気になる?」


 慎重に選ばれた言葉だった。


 澪は立ち止まり、川の方へ視線を向ける。

 水の流れは、変わらず、淡々と夜を運んでいる。


「気になるっていうのとは……違うかな」


 澪は、言葉を探しながら続けた。


「ただ……あの時の言葉が、まだ胸に残ってる」


「言葉?」


「『甘さは、毒になることもある』って……」


 澪は小さく息を吸い込む。


「私も、それを自分の手で確かめなきゃいけない気がしてる」


 勇人は何も言わず、ただ隣に立ってくれる。

 昔から変わらないところだった。


 澪は、その沈黙に背中を押されるように、言葉を続けた。


「瑛二さんのこと、嫌いにはなれないよ。

 でも……好きでもない」


 夜風が、二人の間を通り抜ける。


「瑛二さんが求めていたのは、私じゃなくて……

 “私の甘さ”だったから」


 勇人はゆっくりと息を吐いた。


「……澪は、優しすぎる」


「優しくないよ」


 澪は首を振る。


「私、あの日……瑛二さんを突き放したんだもの」


 勇人は、澪の方を見た。


「突き放したんじゃない。

 澪は選んだんだよ」


「……選んだ?」


「自分の甘さも、自分の道も」


 その言葉は、静かで、強かった。


「ありがとう、勇人」


 澪の声は、思ったよりも震えていた。


「あなたがいたから……

 私、逃げずに立てたんだと思う」


 勇人は一瞬、言葉を失ったように目を見開き、それから照れたように笑った。


「そんなこと言われたら……また、好きになるだろ」


「……!」


 澪の顔が一気に熱くなる。


「じょ、冗談……?」


「冗談半分。……本気も半分」


 勇人は苦笑した。


「でも、今は言うだけでいい」


 彼は視線を夜空へ向ける。


「澪が、自分の甘さを決めるまで、俺は待つよ」


 澪は、勇人の横顔を見つめた。


「甘さってさ、急いで結晶させようとすると濁るだろ?

 ゆっくり、時間をかけないと、澄んだ蜜にならない」


 その言葉は、澪の胸に静かに広がっていった。


 支配ではない。

 束縛でもない。


 ただ、見守るための距離。


 ——瑛二が、決して持てなかった優しさ。

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