15話
レシピ帳は、二人の間に置かれたまま、しばらく動かなかった。
誰も触れない。
誰も、急がない。
その沈黙は、重かった。
言葉を探すための沈黙ではない。
もう、言葉が尽きたあとに残る沈黙だった。
瑛二は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
膝の上で組まれた指が、何度もほどけては、また絡まる。
「……君は」
低く、掠れた声。
「僕を、許さないんだね」
澪は、すぐには答えなかった。
その問いの重さを、きちんと受け取るために。
「はい」
短く、しかし曖昧さのない返事。
瑛二は、目を閉じた。
そのまま、しばらく動かなかった。
拒絶されることを、彼はずっと恐れてきた。
だが同時に、どこかで求めてもいたのだ。
条件付きの許しではない、
甘さで覆われない、
真正面からの否定を。
「……それでも」
瑛二は、ゆっくりと顔を上げた。
「君は、僕を突き放しながら……見捨てない」
澪は、わずかに眉を下げた。
「見捨てません。ただし――」
言葉を区切る。
「救いません」
その宣言は、冷たく、そして誠実だった。
「あなたが欲しがっている救いは、依存を延命させるだけです」
瑛二の喉が、ひくりと鳴る。
「……君は、本当に残酷だ」
「ええ」
澪は、はっきりと認めた。
「でも、それが、私の選んだ優しさです」
瑛二は、苦笑した。
「母と……似ているな」
澪の胸が、微かに揺れる。
「違います」
即答だった。
「母は、人を黙らせました。私は、黙らせません」
瑛二は、その違いを、ゆっくりと噛みしめるように目を伏せた。
「……君のお母さんは」
彼は、過去を探るように言葉を選ぶ。
「最後まで、自分の甘さを“完成”させなかった。それは……誰かを信じていなかったからだと思っていた」
澪は、静かに首を振る。
「逆です」
レシピ帳に、そっと視線を落とす。
「信じすぎていたんです。人の弱さも、欲望も」
瑛二の指が、わずかに震えた。
「だから……止めた」
澪は、続ける。
「完成させたら、この甘さは、誰かの人生を支配してしまう。そう分かっていたから」
沈黙が、再び降りる。
瑛二は、ゆっくりと立ち上がった。
レシピ帳の前に立ち、しばらくそれを見下ろす。
「……僕は」
彼の声は、もう逃げ場を探していなかった。
「君の甘さを、“人生の言い訳”にしていた」
澪は、黙って聞いている。
「母に支配されたこと。自分が空っぽなこと。……全部、君の甘さで埋められる気がしていた」
彼は、深く息を吸い込む。
「それは、愛じゃない」
自分自身に言い聞かせるように。
「……依存だ」
その言葉が、ようやく形を持った瞬間だった。
澪の胸に、わずかな緩みが生まれる。
同情ではない。
安堵でもない。
ただ――認識が、現実になったという感覚。
「依存は」
澪は、静かに言う。
「自分の人生を、他人に預けることです」
瑛二は、ゆっくりと頷いた。
「……預けていた。君に」
そして、視線を上げる。
「返してもらえないか?」
その問いは、懇願ではなかった。
初めて、対等な位置から発せられた言葉だった。
澪は、一歩前に出る。
「返します」
はっきりと。
「あなたの人生は、あなたのものです」
瑛二は、目を閉じた。
そのまま、長く、深く息を吐く。
そして――レシピ帳を、両手で持ち上げた。
差し出すまでに、ほんの数秒。
だが、その数秒には、何年分もの執着が詰まっていた。
「……澪さん」
最後に、彼は言う。
「君は、僕を救わなかった。でも……現実に戻してくれた」
澪は、静かに受け取る。
指先が触れ合う。
以前のような熱は、もうない。
「それで、十分です」
レシピ帳が、澪の腕の中に戻った。
瑛二は、一歩、後ろへ下がる。
距離が、生まれる。
だがそれは、拒絶の距離ではない。
それぞれが、それぞれの人生へ戻るための距離だった。
澪がレシピ帳を抱えた瞬間、部屋の空気が変わった。
何かが終わった、というより。
何かが、これ以上続かなくなった――そんな感覚だった。
瑛二は、何も言わなかった。
引き止める言葉も、後悔の言葉も、もう用意されていない。
彼はただ、澪の立つ場所から一歩距離を取り、静かに立っている。
それが、彼なりの「手放し方」だった。
澪は、一度だけ彼を見た。
もう、かつてのような「救いを求める目」ではない。
かといって、未来を見据える強さがあるわけでもない。
ただ――現実に立っている目だった。
「……さようなら」
澪は、深く頭を下げることはしなかった。
儀礼的な別れは、この関係には似合わない。
「……さようなら」
瑛二の声は低く、落ち着いていた。
「君の甘さが……誰かの人生を、奪いませんように」
それは祈りであり、
同時に、自分自身への戒めだった。
澪は、答えなかった。
答えは、言葉ではなく、これからの選択で示すものだからだ。
静かに踵を返し、部屋を出る。
ドアが閉まる音は、驚くほど小さかった。
――これでいい。
そう思えるまで、澪は廊下を歩き続けた。
長い廊下。
柔らかいカーペット。
足音は、ほとんど響かない。
エレベーターの前に立ち、ボタンを押す。
待つ時間が、やけに長く感じられた。
――母は、こんな夜を、いくつ越えてきたのだろう。
誰にも見せない不安を抱えたまま、
誰にも渡さない甘さを胸にしまって。
扉が開く。
エレベーターに乗り込み、扉が閉まる。
下降が始まった瞬間、澪はふっと力を抜いた。
レシピ帳を開く。
ページの隅に、母の走り書きが残っている。
【甘さは、必要な分だけでいい】
【それ以上は、誰かの人生を曇らせる】
澪は、ゆっくりとページを閉じた。
「……お母さん」
声に出すと、不思議と涙は出なかった。
「私は……完成させない」
それは、諦めではない。
放棄でもない。
選択だった。
エレベーターが一階に到着し、扉が開く。
外に出ると、夜風が澪の頬を撫でた。
冷たく、現実的で、
それでも確かに、生きている風。
桜の花弁が、また一枚、足元に落ちる。
もう、甘い香りはほとんど残っていない。
終わりかけの季節の匂い。
――甘すぎる蜜の季節は、終わった。
澪は、夜の勝浦町を歩き出す。
胸の奥には、痛みが残っている。
完全に癒えることは、きっとない。
だが、その痛みは、
誰かに預けるためのものではなかった。
自分で抱え、
自分で歩くための重さだった。
遠くで、川の流れる音が聞こえる。
桜は散り、川は何も語らず、ただ流れる。
澪は、前を見る。
そこに、完成された甘さはない。
けれど――
自分で選び取る、未来がある。
甘さは、人生を支配するものじゃない。
生きる力を、少しだけ支えるものだ。
それ以上になったとき、
蜜は、毒になる。
澪は、そのことを知っている。
だから、歩く。
甘さに縛られず、
甘さを捨てることもなく。
自分の手で、量を決めながら。
春の夜は、静かだった。
そして確かに――
新しい季節の入口だった。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




