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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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14話

 瑛二の言葉は、澪の胸の奥に静かに沈んだ。

 「背負ってきた」という言い回しが、妙に重かった。


 それは責任なのか。

 それとも、手放せなかった執着なのか。


 澪は、レシピ帳から目を離せずにいた。

 母の字は、ところどころ掠れている。インクが滲んだ箇所もあれば、何度も書き直された跡もある。

 完成させることより、「辿り着こうとした過程」そのものが、紙に残っていた。


 母は、これを完成させられなかったのではない。

 ――完成させなかったのだ、と澪は思った。


「……背負ってきた、って」


 ようやく、声が出た。


「それは、あなたが選んだことですか?」


 瑛二は、答えるまでに少し時間を要した。

 その間、部屋に流れる音楽だけが、やけに大きく感じられる。


「選んだ、というより……気づいたら、そうなっていた」


 彼は、壁の写真に視線を向けた。


「僕は、幼い頃から“甘さ”の中で育った。正確には、甘さの評価の中で、だね」


 澪は、黙って聞いていた。


「母は、有名な菓子職人だった。……いや、正確には“成功した経営者”だ。彼女にとって、菓子は芸術である前に、結果を出すための道具だった」


 瑛二の声は淡々としている。

 だが、その淡々さが、かえって痛みを浮かび上がらせていた。


「厨房は、いつも完璧だった。温度、湿度、時間。少しでも狂えば、やり直し。失敗作は、誰にも見せずに捨てられた」


 ――失敗は、存在してはいけない。


「食卓に並ぶ菓子も同じだった。美味しいかどうかじゃない。“評価される味かどうか”」


 瑛二は、苦く笑った。


「褒められた記憶は、あるよ。でも、それは僕に向けられたものじゃない。……母が作った甘さを、正しく受け取れた“息子”として、だ」


 澪の胸に、静かな理解が広がる。


 彼は、母にとっての“作品の一部”だった。


「だからかな」


 瑛二は、ふと澪を見る。


「君のお母さんの蜜菓子を食べたとき、怖くなった」


「……怖く?」


「評価できなかったんだ」


 澪は、思わず息を呑む。


「甘い。でも、それだけじゃない。懐かしいのに、痛くて、どこか未完成で……。正解が分からなかった」


 瑛二は、目を伏せる。


「でも、救われた気もした。初めて、“分からなくてもいい甘さ”に触れたから」


 澪の脳裏に、母の姿が浮かぶ。

 失敗した蜜を味見して、少し首を傾げて、それでも捨てずに置いていた夜。


「……だから、あなたは」


 澪は、言葉を選ぶ。


「その甘さを、守ろうとした?」


「……うん」


 短い返事だった。


「守ることで、失わないで済むと思った。……同時に、自分が許される気がした」


 澪の胸が、きしんだ。


「それは、守ることじゃありません」


 言葉は、自然に口をついて出た。


「あなたは、“自分が安心できる形”に、甘さを閉じ込めようとしただけです」


 瑛二の指が、わずかに強張る。


「……それが、支配だと?」


「ええ」


 澪は、視線を逸らさなかった。


「優しい言葉で包んでも、理由を並べても……相手の自由を奪うなら、それは支配です」


 沈黙。


 瑛二の中で、何かが崩れる音がした気がした。


「……分かってた」


 彼は、低く呟く。


「どこかで、ずっと。……でも、認めたくなかった」


 澪は、一歩、距離を詰めた。

 近づきすぎない、けれど逃げもしない距離。


「あなたは、甘さを通して、母親と同じことをしている」


 瑛二の瞳が、揺れる。


「“正しい甘さ”を、他人に求めている」


 しばらくの間、瑛二は何も言えなかった。

 やがて、絞り出すように口を開く。


「……勇人さんの事故」


 空気が、再び張り詰めた。


「僕は、関わっていない。……でも、調べさせたのは事実だ」


 澪は、ゆっくりと頷いた。


「知っています。あなたの言葉は、嘘じゃない」


 その言い方に、瑛二が驚いたように顔を上げる。


「でも」


 澪は続ける。


「あなたの“恐れ”は、誰かを巻き込む。意図せずとも、です」


 瑛二は、両手で顔を覆った。


「……怖かった」


 子どものような声だった。


「また、失うのが。君も、甘さも」


 澪は、その姿を見つめながら、はっきりと理解した。


 ――この人は、誰かを愛することと、依存することの区別を、教えられなかったのだ。


「瑛二さん」


 澪は、静かに言う。


「あなたが失うべきだったのは、私じゃない」


 彼の肩が、ぴくりと揺れる。


「失うべきだったのは……“誰かの甘さに救われなければ立てない自分”です」


 瑛二の呼吸が、乱れた。


 長い沈黙の末、彼はレシピ帳を強く抱きしめる。


「……それでも」


 掠れた声。


「それでも、僕は、君を手放したくない」


 澪の胸に、冷たい覚悟が落ちた。


 ――ここから先は、情では進めない。


 澪は、深く息を吸い、はっきりと言葉を選ぶ。


「だからこそ」


 彼女は、レシピ帳を見つめたまま、告げる。


「私は、この蜜を――完成させません」


 瑛二が、顔を上げる。


「……完成させたら、あなたはまた、誰かを縛る。甘さは、未完成のままでいい。そうでなければ、毒になる」


 その瞬間、瑛二の手が震えた。


 恐怖か。

 解放か。

 それとも、初めて“選ばされない”痛みか。


 答えは、まだ出ない。


 瑛二は、震える指先を見つめたまま、何かを掴もうとして、しかし掴めずにいるようだった。

 澪は、その揺らぎを真正面から受け止める。

 未完成の甘さが、二人のあいだに、かすかな余白として残った。

 その余白こそが、これからの選択を決めるのだと、澪は静かに悟った。


「完成させない、って……」


 瑛二の声は、ひどく掠れていた。

 まるで、長い間握りしめてきたものを、突然奪われたかのように。


「それは……逃げじゃないのか?」


 問いかけは、澪に向けられているようでいて、実際には自分自身へ向いている。


 澪は、ゆっくりと首を振った。


「逃げではありません。選択です」


 はっきりと、断言する。


「母は、完成させることができなかったんじゃない。……完成させなかった。その理由を、私はずっと考えてきました」


 瑛二は、レシピ帳を見つめたまま、動かない。


「この蜜は、強すぎる。人の記憶や孤独に、直接触れてしまう甘さです」


 澪は、自分の胸に手を当てた。


「だから母は、途中で止めた。誰かを救う代わりに、誰かを壊してしまうかもしれないって……分かっていたから」


 瑛二の喉が、ひくりと動く。


「……じゃあ、君は」


「ええ」


 澪は、静かに頷いた。


「私は、母と同じ選択をします」


 その言葉は、宣言だった。

 誰の理解も必要としない、澪自身の意思。


 瑛二の表情が、ゆっくりと崩れていく。


「それじゃ……僕は、どうすればいい?」


 縋るような声だった。

 大人の男の声ではない。

 長い間、正解だけを与えられてきた子どもの声。


「君の甘さがなければ……僕は、立てない」


 その瞬間、澪の中で、最後の迷いが消えた。


「それが、依存です」


 冷たいほど、はっきりと。


「あなたは、誰かの甘さに寄りかからなければ、自分を保てないと思い込んでいる」


 瑛二は、かぶりを振る。


「違う……違うよ、澪さん。僕は、ただ……」


「失うのが怖い?」


 澪は、言葉を継いだ。


「それとも、“甘さがない自分”と向き合うのが怖い?」


 沈黙。


 瑛二の呼吸が、荒くなる。


 澪は続ける。


「あなたのお母さんは、甘さを武器にして生きた。でも、その代わりに、あなたに“自分で立つ機会”を与えなかった」


 瑛二の目が、大きく見開かれる。


「だから、あなたはずっと、誰かの甘さを探してきた」


 言葉が、ゆっくりと、確実に刺さっていく。


「……最初は、母の甘さ。次は、評価される甘さ。……そして、私の甘さ」


 瑛二は、唇を噛みしめ、首を振った。


「……いやだ」


 その声は、ほとんど泣き声だった。


「そんなの、認めたくない」


 澪の胸が、わずかに痛んだ。

 だが、ここで引くわけにはいかない。


「認めなければ、終わりません」


 澪は、一歩だけ前に出る。


「瑛二さん。あなたが“怖い”と言えるのは、今が初めてじゃないですか?」


 彼の肩が、びくりと跳ねた。


 澪は、確信する。


 ――この人は、弱さを許されたことがなかった。


「……僕は」


 瑛二の声が、震える。


「僕は……誰かに、“そのままでいい”って言われたかった」


 その告白は、あまりにも幼く、あまりにも真実だった。


 澪は、目を伏せた。


「それを、私に求めてしまった」


 瑛二が、かすかに頷く。


「……君の蜜は、条件がなかった。だから、そこにいれば……救われる気がした」


 澪は、胸の奥で、静かにため息をついた。


「でも」


 顔を上げ、はっきりと言う。


「“そのままでいい”と言われるために、誰かを縛ることはできません」


 瑛二の目に、涙が滲む。


「……じゃあ、僕は」


「一人で立つんです」


 澪は、残酷なほど静かに言った。


「甘さがなくても。誰かに評価されなくても」


 その言葉は、救いではない。

 だが、真実だった。


 長い沈黙の末、瑛二はレシピ帳を、胸から少しだけ離した。


「……怖い」


 正直な言葉。


「ええ」


 澪は、否定しなかった。


「でも、その怖さを引き受けるのは、あなたです」


 瑛二の指が、レシピ帳の角をなぞる。


「……僕は、また同じことをするかもしれない」


「かもしれません」


 澪は、はっきりと答える。


「でも、それでも向き合うしかない」


 瑛二は、長い時間、動かなかった。

 やがて、深く、深く息を吐く。


「……澪さん」


「はい」


「君は、残酷だ」


 澪は、少しだけ笑った。


「そうですね」


 そして、続ける。


「でも……誰かの人生を奪わないための残酷さです」


 瑛二の手が、ゆっくりと開かれる。


 レシピ帳が、澪と瑛二の間に置かれた。


 まだ、渡されてはいない。

 だが――境界線は、確かに引かれた。

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