13話
夜の勝浦町は、音を失ったように静かだった。
昼間、観光客の足音や車のエンジン音で満ちていた通りは、今はただ、街灯の明かりだけが等間隔に地面を照らしている。
川沿いの桜は、満開をわずかに過ぎていた。
花弁の端が色を失いはじめ、白に近い淡紅色へと変わっている。
風が吹くたび、重力に逆らえなくなった花弁が、音もなく落ちた。
ひとひら。
また、ひとひら。
澪の足元へ、吸い寄せられるように。
――終わりかけのものは、なぜこんなにも美しいのだろう。
そんな考えが浮かび、すぐに振り払う。
感傷に浸るには、今夜は重すぎた。
深呼吸をひとつ。
肺の奥まで夜の空気を吸い込み、ゆっくり吐く。
……行かなければならない。
行って、確かめなければならない。
向かう先は、平塚瑛二が滞在するペントハウス。
あの夜、甘い言葉と静かな音楽に包まれ、心を委ねかけた場所。
あのとき澪は、「安心」という名の檻に、気づいていなかった。
足を進めるたび、靴底がアスファルトを踏みしめる感触が、やけに鮮明に伝わってくる。
逃げたい、と思う。
それでも、逃げない。
勇人が退院した日のことが、頭をよぎった。
病室の白いカーテン。
消毒液の匂い。
そして、彼が絞り出すように語った真実。
――平塚家が、桜舞堂にかけた圧力。
――「再建支援」という名目で用意された買収案。
――母が、誰にも相談できず、孤立していった理由。
澪は、その話を聞きながら、何度も母の背中を思い出していた。
夜遅くまで厨房に立つ背中。
失敗した蜜を、黙って流しに捨てる背中。
「まだ足りない」と呟きながら、レシピ帳を書き直す背中。
――あの背中は、誰に追い詰められていたのか。
そして、最後に告げられた事実。
――瑛二が、母の未完の蜜菓子のレシピ帳を持って姿を消した。
胸の奥が、じくりと痛む。
怒りだけではない。
裏切られたという思いとも、少し違う。
……期待してしまっていたのだ。
瑛二なら、分かってくれるかもしれない、と。
その自分を、澪は許せなかった。
エントランスに着き、名前を告げる。
受付の女性は一瞬だけ澪を見つめ、すぐに端末へ視線を落とした。
「……どうぞ。最上階です」
あまりにもあっさりとした対応に、胸の奥がざわつく。
まるで――
最初から、来ると分かっていたかのように。
エレベーターの扉が閉まる。
密閉された空間で、澪は自分の心臓の音を聞いていた。
どくん。
どくん。
数字が一つずつ増えるたび、過去の記憶が引き上げられる。
瑛二の笑顔。
穏やかな口調。
「君の蜜は特別だ」と言った声。
――あれは、褒め言葉だったのか。
――それとも、値踏みだったのか。
最上階に到着し、扉が開く。
そこに――瑛二がいた。
白いシャツ。
ネクタイもなく、どこか無防備な姿。
だが、その目だけが、異様なほど澄んでいた。
「来てくれたんだね、澪さん」
その声は、以前と変わらず優しい。
だからこそ、澪の胸は締めつけられた。
「……お話があります」
言葉を選ぶ余裕は、なかった。
「レシピ帳、返してください」
一瞬、空気が止まる。
瑛二の表情が、ほんのわずかに揺れた。
彼は微かに眉を下げ、困ったように、寂しそうに笑う。
「返すよ。君が望むなら。でも……その前に、少しだけ、聞いてほしい」
その言い方は、懇願に近かった。
拒む前に、彼は背を向け、部屋の奥へ歩き出す。
澪は、ためらいながらも後を追った。
暖色の照明。
磨き上げられた床。
静かに流れる音楽。
そして、壁一面に並ぶ古い和菓子の写真。
懐かしさと同時に、胸が詰まる。
その中に――母の蜜菓子があった。
「覚えてる?」
瑛二の声が、背後から届く。
「君のお母さんの菓子。……僕は、これを初めて食べたとき、甘さって、人を狂わせるものなんだって知った」
棚から、封筒が取り出される。
古い書類。
そして、その下に。
母の、未完のレシピ帳。
澪の視界が、一瞬、滲んだ。
「お母さんのこと……僕、ずっと背負ってきたんだ」
その言葉が、静かに、しかし確実に、澪の心を切り裂いた。
澪は、思わず息を呑んだ。
瑛二はレシピ帳を胸元でそっと撫でるようにしながら、続けた。
「……君のお母さんは、僕にとって“救い”だった。あの味に出会わなければ、きっと今の僕はいない。だから——守りたかったんだ。たとえ、君に誤解されても」
その声音には、嘘を混ぜる余地がないように思えた。
だが同時に、澪の胸の奥で、別の疑念が静かに膨らんでいく。
澪の胸の奥で、疑念がゆっくりと形を成していく。
それは、暗い水底から浮かび上がる泡のように、静かで、しかし確実に膨らんでいくものだった。
部屋の空気は、暖色の照明のせいか、どこか甘く、重たかった。
まるで、長い時間をかけて密閉された瓶の中に溜まった香りが、一気に解き放たれたような——そんな濃度を帯びている。
窓の外には、勝浦の夜景が広がっていた。
川面に映る街灯の光が、ゆらゆらと揺れ、まるで息をしているかのように脈動している。
その光が、瑛二の横顔を淡く照らし、影を長く伸ばしていた。
澪は、その影が床を這うように伸びて、自分の足元へ近づいてくるのを見て、思わず息を呑む。
——近づいてくる。
——触れようとしている。
そんな錯覚すら覚えた。
瑛二はレシピ帳を胸元に抱えたまま、ゆっくりと視線を落とした。
その指先は、紙の端を撫でるたびに微かに震えている。
まるで、そこに触れること自体が、痛みを伴う行為であるかのように。
「……守りたかったんだ」
その声は、部屋の静けさに吸い込まれるように小さく響いた。
だが、澪の耳には、やけに鮮明に届く。
暖房の音が、かすかに唸っている。
壁に掛けられた古い時計の秒針が、規則正しく時を刻んでいる。
そのすべてが、澪の鼓動と重なり、妙なリズムを作り出していた。
澪は、唇を噛んだ。
胸の奥で、疑念と怒りと、そして別の何かが渦を巻いている。
瑛二の言葉は、確かに真摯に聞こえる。
だが——
この部屋に漂う甘さ。
壁に飾られた母の菓子の写真。
そして、彼の手にあるレシピ帳。
すべてが、澪の心に別の問いを投げかけていた。
——これは、本当に「守る」ためだったのか。
——それとも、手放したくなかっただけなのか。
瑛二がゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、澄んでいるのに、どこか底が見えない。
「澪さん。君は……どう思っているの?」
その問いは、優しさの形をしていながら、逃げ場を与えない鋭さを持っていた。
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