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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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13/28

13話

 夜の勝浦町は、音を失ったように静かだった。

 昼間、観光客の足音や車のエンジン音で満ちていた通りは、今はただ、街灯の明かりだけが等間隔に地面を照らしている。


 川沿いの桜は、満開をわずかに過ぎていた。

 花弁の端が色を失いはじめ、白に近い淡紅色へと変わっている。

 風が吹くたび、重力に逆らえなくなった花弁が、音もなく落ちた。


 ひとひら。

 また、ひとひら。


 澪の足元へ、吸い寄せられるように。


 ――終わりかけのものは、なぜこんなにも美しいのだろう。


 そんな考えが浮かび、すぐに振り払う。

 感傷に浸るには、今夜は重すぎた。


 深呼吸をひとつ。

 肺の奥まで夜の空気を吸い込み、ゆっくり吐く。


 ……行かなければならない。

 行って、確かめなければならない。


 向かう先は、平塚瑛二が滞在するペントハウス。

 あの夜、甘い言葉と静かな音楽に包まれ、心を委ねかけた場所。


 あのとき澪は、「安心」という名の檻に、気づいていなかった。


 足を進めるたび、靴底がアスファルトを踏みしめる感触が、やけに鮮明に伝わってくる。

 逃げたい、と思う。

 それでも、逃げない。


 勇人が退院した日のことが、頭をよぎった。


 病室の白いカーテン。

 消毒液の匂い。

 そして、彼が絞り出すように語った真実。


 ――平塚家が、桜舞堂にかけた圧力。

 ――「再建支援」という名目で用意された買収案。

 ――母が、誰にも相談できず、孤立していった理由。


 澪は、その話を聞きながら、何度も母の背中を思い出していた。


 夜遅くまで厨房に立つ背中。

 失敗した蜜を、黙って流しに捨てる背中。

 「まだ足りない」と呟きながら、レシピ帳を書き直す背中。


 ――あの背中は、誰に追い詰められていたのか。


 そして、最後に告げられた事実。


 ――瑛二が、母の未完の蜜菓子のレシピ帳を持って姿を消した。


 胸の奥が、じくりと痛む。

 怒りだけではない。

 裏切られたという思いとも、少し違う。


 ……期待してしまっていたのだ。

 瑛二なら、分かってくれるかもしれない、と。


 その自分を、澪は許せなかった。


 エントランスに着き、名前を告げる。

 受付の女性は一瞬だけ澪を見つめ、すぐに端末へ視線を落とした。


「……どうぞ。最上階です」


 あまりにもあっさりとした対応に、胸の奥がざわつく。


 まるで――

 最初から、来ると分かっていたかのように。


 エレベーターの扉が閉まる。

 密閉された空間で、澪は自分の心臓の音を聞いていた。


 どくん。

 どくん。


 数字が一つずつ増えるたび、過去の記憶が引き上げられる。


 瑛二の笑顔。

 穏やかな口調。

 「君の蜜は特別だ」と言った声。


 ――あれは、褒め言葉だったのか。

 ――それとも、値踏みだったのか。


 最上階に到着し、扉が開く。


 そこに――瑛二がいた。


 白いシャツ。

 ネクタイもなく、どこか無防備な姿。

 だが、その目だけが、異様なほど澄んでいた。


「来てくれたんだね、澪さん」


 その声は、以前と変わらず優しい。

 だからこそ、澪の胸は締めつけられた。


「……お話があります」


 言葉を選ぶ余裕は、なかった。


「レシピ帳、返してください」


 一瞬、空気が止まる。

 瑛二の表情が、ほんのわずかに揺れた。


 彼は微かに眉を下げ、困ったように、寂しそうに笑う。


「返すよ。君が望むなら。でも……その前に、少しだけ、聞いてほしい」


 その言い方は、懇願に近かった。


 拒む前に、彼は背を向け、部屋の奥へ歩き出す。

 澪は、ためらいながらも後を追った。


 暖色の照明。

 磨き上げられた床。

 静かに流れる音楽。


 そして、壁一面に並ぶ古い和菓子の写真。


 懐かしさと同時に、胸が詰まる。


 その中に――母の蜜菓子があった。


「覚えてる?」


 瑛二の声が、背後から届く。


「君のお母さんの菓子。……僕は、これを初めて食べたとき、甘さって、人を狂わせるものなんだって知った」


 棚から、封筒が取り出される。

 古い書類。

 そして、その下に。


 母の、未完のレシピ帳。


 澪の視界が、一瞬、滲んだ。


「お母さんのこと……僕、ずっと背負ってきたんだ」


 その言葉が、静かに、しかし確実に、澪の心を切り裂いた。

 

  澪は、思わず息を呑んだ。

 瑛二はレシピ帳を胸元でそっと撫でるようにしながら、続けた。


「……君のお母さんは、僕にとって“救い”だった。あの味に出会わなければ、きっと今の僕はいない。だから——守りたかったんだ。たとえ、君に誤解されても」


 その声音には、嘘を混ぜる余地がないように思えた。

 だが同時に、澪の胸の奥で、別の疑念が静かに膨らんでいく。

 澪の胸の奥で、疑念がゆっくりと形を成していく。

 それは、暗い水底から浮かび上がる泡のように、静かで、しかし確実に膨らんでいくものだった。


 部屋の空気は、暖色の照明のせいか、どこか甘く、重たかった。

 まるで、長い時間をかけて密閉された瓶の中に溜まった香りが、一気に解き放たれたような——そんな濃度を帯びている。


 窓の外には、勝浦の夜景が広がっていた。

 川面に映る街灯の光が、ゆらゆらと揺れ、まるで息をしているかのように脈動している。

 その光が、瑛二の横顔を淡く照らし、影を長く伸ばしていた。


 澪は、その影が床を這うように伸びて、自分の足元へ近づいてくるのを見て、思わず息を呑む。


 ——近づいてくる。

 ——触れようとしている。


 そんな錯覚すら覚えた。


 瑛二はレシピ帳を胸元に抱えたまま、ゆっくりと視線を落とした。

 その指先は、紙の端を撫でるたびに微かに震えている。

 まるで、そこに触れること自体が、痛みを伴う行為であるかのように。


「……守りたかったんだ」


 その声は、部屋の静けさに吸い込まれるように小さく響いた。

 だが、澪の耳には、やけに鮮明に届く。


 暖房の音が、かすかに唸っている。

 壁に掛けられた古い時計の秒針が、規則正しく時を刻んでいる。

 そのすべてが、澪の鼓動と重なり、妙なリズムを作り出していた。


 澪は、唇を噛んだ。

 胸の奥で、疑念と怒りと、そして別の何かが渦を巻いている。


 瑛二の言葉は、確かに真摯に聞こえる。

 だが——


 この部屋に漂う甘さ。

 壁に飾られた母の菓子の写真。

 そして、彼の手にあるレシピ帳。


 すべてが、澪の心に別の問いを投げかけていた。


 ——これは、本当に「守る」ためだったのか。

 ——それとも、手放したくなかっただけなのか。


 瑛二がゆっくりと顔を上げる。

 その瞳は、澄んでいるのに、どこか底が見えない。


「澪さん。君は……どう思っているの?」


 その問いは、優しさの形をしていながら、逃げ場を与えない鋭さを持っていた。


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