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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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12/28

12話

 夜の勝浦町は、静まり返っていた。

 昼間の観光客のざわめきは消え、川のせせらぎだけが、一定のリズムで流れている。時折聞こえてくる虫の声も、まばらに音楽を奏でていた。


 川沿いの桜が、闇の中で淡く浮かび上がっていた。夜には似つかわしくない色合いだ。

 満開には少し早い。

 だが、その未完成さが、今の澪にはしっくりきた。


 立ち止まり、空を見上げる。

 星は少なく、雲が薄く流れている。


(……行かなければならない)


 それは、義務ではなかった。

 誰かに強いられた選択でもない。

 自分で選んだ、道だった。

 母が遺した甘さ。

 奪われ、歪められ、縛りとなった蜜。


 それでも、完全には失われていないと、澪は信じたかった。

 その中心にいるのが、平塚瑛二。

 澪は、ゆっくりと歩き出す。

 向かう先は、あの夜と同じ場所。

 言葉が交わされなかった場所。

 真実と、甘さと、罪が待つ場所。


 ――砂糖より甘い蜜の、正体を確かめるために。


 その場所は、昔と変わっていなかった。

 港へ向かう途中、古い倉庫を改装した建物。

 観光客が立ち寄ることもない、夜になると人の気配が消える一角。街灯もほとんどない。

 澪は、足を止めた。

 あの夜と同じ、微かな甘い匂いが漂っている。

 桜舞堂のものとは違う、もっと人工的で、どこか執着を孕んだ香り。

 扉の前に立つと、心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。胸を手を当て、落ち着かせるように深呼吸をした。


 ――逃げない。


 澪は、ノックをした。

 間を置かず、扉が開く。


「……来ると思ってた」


 平塚瑛二は、そこにいた。


 以前より痩せたように見えた。

 整えられていた髪は無造作で、シャツの袖口には、乾いた蜜の跡が残っている。


 だが、その目だけは――

 澪を見た瞬間、確かに安堵の色を帯びた。


「澪」


 名前を呼ぶ声は、優しい。

 それが、余計に胸を締めつけた。


「話があります」


 澪は、視線を逸らさずに言った。


「……未完のレシピ帳のことです」


 瑛二の表情が、わずかに揺れた。


「入って」


 短く言い、身体をずらす。

 室内は、簡易的な厨房になっていた。

 鍋、温度計、試作途中の瓶。

 そして、卓の上に置かれた、見覚えのある古い帳面。


 澪の喉が、鳴る。


「……それが」


 瑛二は、帳面に手を置いた。


「君のお母さんの、最後の蜜だ」


 その言い方が、澪の中の何かを逆撫でした。


「“最後”じゃありません」


 はっきりと言う。


「母は、完成させなかった。それを、奪っただけです」


 瑛二は、苦く笑った。


「奪った……か。否定はできないな」


 澪は、一歩踏み出す。


「どうしてですか」


 問いは、単純だった。


「どうして、母の意志を踏みにじってまで」


 瑛二は、しばらく黙っていた。

 やがて、鍋に視線を落とす。


「……怖かったんだ」


 低い声だった。


「君のお母さんの甘さは、人を変える。幸福にする。でも同時に、依存させる」


 澪は、息を呑む。


「それを、他の誰かが使うのが耐えられなかった」


 瑛二は、澪を見る。


「だから、僕が管理しようと思った。正しく使えば、守れると思った」


「それは……」


 澪の声が、震える。


「支配です」


 瑛二は、否定しなかった。


「そうだ」


 はっきりと言う。


「僕は、甘さを信じすぎた。信じるあまり、縛ってしまった」


 帳面を、そっと開く。

 そこには、母の筆跡があった。

 途中で止まり、余白が残されたページ。


「未完なのはね」


 瑛二が、静かに言う。


「配合が足りないからじゃない」


 澪は、顔を上げる。


「“渡す覚悟”が、書かれていないからだ」


 その瞬間、すべてが繋がった。

 母は、完成させなかったのではない。

 “完成させる相手”を、選ばなかったのだ。


「澪」


 瑛二は、帳面から手を離す。


「君なら、完成させられる」


 その言葉に、澪の胸が熱くなる。


 だが――


「いいえ」


 澪は、首を振った。決意は堅かった。


「私は、完成させません」


 瑛二が、驚いたように目を見開く。


「母と同じです」


 澪は、帳面を見る。


「甘さは、誰かを縛るためにあるものじゃない。未完であることも、守りなんです」


 沈黙が落ちる。


 やがて、瑛二は小さく笑った。


「……敵わないな」


 その笑みは、初めて力が抜けていた。

 瑛二は、帳面を澪の前に差し出す。


「返すよ。これは、僕が持つべきものじゃなかった」


 澪は、静かに受け取った。

 帳面の重みが、手に伝わる。

 それは、奪われた甘さの残骸ではなく――

 選ばれなかった未来そのものだった。


「澪」


 瑛二は、最後に言った。


「君を守るつもりで、傷つけた。それだけは、忘れないでほしい」


 澪は、頷いた。


「忘れません」


 許しでも、拒絶でもない。

 ただの、事実として。


 外に出ると、夜風が頬を撫でた。


 胸の奥に残っていた重さが、少しだけ軽くなっている。


 川沿いの桜が、静かに揺れていた。

 澪は、帳面を抱きしめる。


 奪われた甘さは、完全には戻らない。

 でも、残された熱は――

 次へ渡すことができる。


 携帯が震えた。


〈戻ってこい〉


 勇人からの、短いメッセージ。

 澪は、小さく笑う。


「……帰ります」


 呟き、歩き出す。

 未完の蜜とともに。

 縛られない甘さを、未来へ残すために。


 夜の空気はまだ冷たい。けれど、その冷たささえ、澪の背中をそっと押していた。

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