12話
夜の勝浦町は、静まり返っていた。
昼間の観光客のざわめきは消え、川のせせらぎだけが、一定のリズムで流れている。時折聞こえてくる虫の声も、まばらに音楽を奏でていた。
川沿いの桜が、闇の中で淡く浮かび上がっていた。夜には似つかわしくない色合いだ。
満開には少し早い。
だが、その未完成さが、今の澪にはしっくりきた。
立ち止まり、空を見上げる。
星は少なく、雲が薄く流れている。
(……行かなければならない)
それは、義務ではなかった。
誰かに強いられた選択でもない。
自分で選んだ、道だった。
母が遺した甘さ。
奪われ、歪められ、縛りとなった蜜。
それでも、完全には失われていないと、澪は信じたかった。
その中心にいるのが、平塚瑛二。
澪は、ゆっくりと歩き出す。
向かう先は、あの夜と同じ場所。
言葉が交わされなかった場所。
真実と、甘さと、罪が待つ場所。
――砂糖より甘い蜜の、正体を確かめるために。
その場所は、昔と変わっていなかった。
港へ向かう途中、古い倉庫を改装した建物。
観光客が立ち寄ることもない、夜になると人の気配が消える一角。街灯もほとんどない。
澪は、足を止めた。
あの夜と同じ、微かな甘い匂いが漂っている。
桜舞堂のものとは違う、もっと人工的で、どこか執着を孕んだ香り。
扉の前に立つと、心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。胸を手を当て、落ち着かせるように深呼吸をした。
――逃げない。
澪は、ノックをした。
間を置かず、扉が開く。
「……来ると思ってた」
平塚瑛二は、そこにいた。
以前より痩せたように見えた。
整えられていた髪は無造作で、シャツの袖口には、乾いた蜜の跡が残っている。
だが、その目だけは――
澪を見た瞬間、確かに安堵の色を帯びた。
「澪」
名前を呼ぶ声は、優しい。
それが、余計に胸を締めつけた。
「話があります」
澪は、視線を逸らさずに言った。
「……未完のレシピ帳のことです」
瑛二の表情が、わずかに揺れた。
「入って」
短く言い、身体をずらす。
室内は、簡易的な厨房になっていた。
鍋、温度計、試作途中の瓶。
そして、卓の上に置かれた、見覚えのある古い帳面。
澪の喉が、鳴る。
「……それが」
瑛二は、帳面に手を置いた。
「君のお母さんの、最後の蜜だ」
その言い方が、澪の中の何かを逆撫でした。
「“最後”じゃありません」
はっきりと言う。
「母は、完成させなかった。それを、奪っただけです」
瑛二は、苦く笑った。
「奪った……か。否定はできないな」
澪は、一歩踏み出す。
「どうしてですか」
問いは、単純だった。
「どうして、母の意志を踏みにじってまで」
瑛二は、しばらく黙っていた。
やがて、鍋に視線を落とす。
「……怖かったんだ」
低い声だった。
「君のお母さんの甘さは、人を変える。幸福にする。でも同時に、依存させる」
澪は、息を呑む。
「それを、他の誰かが使うのが耐えられなかった」
瑛二は、澪を見る。
「だから、僕が管理しようと思った。正しく使えば、守れると思った」
「それは……」
澪の声が、震える。
「支配です」
瑛二は、否定しなかった。
「そうだ」
はっきりと言う。
「僕は、甘さを信じすぎた。信じるあまり、縛ってしまった」
帳面を、そっと開く。
そこには、母の筆跡があった。
途中で止まり、余白が残されたページ。
「未完なのはね」
瑛二が、静かに言う。
「配合が足りないからじゃない」
澪は、顔を上げる。
「“渡す覚悟”が、書かれていないからだ」
その瞬間、すべてが繋がった。
母は、完成させなかったのではない。
“完成させる相手”を、選ばなかったのだ。
「澪」
瑛二は、帳面から手を離す。
「君なら、完成させられる」
その言葉に、澪の胸が熱くなる。
だが――
「いいえ」
澪は、首を振った。決意は堅かった。
「私は、完成させません」
瑛二が、驚いたように目を見開く。
「母と同じです」
澪は、帳面を見る。
「甘さは、誰かを縛るためにあるものじゃない。未完であることも、守りなんです」
沈黙が落ちる。
やがて、瑛二は小さく笑った。
「……敵わないな」
その笑みは、初めて力が抜けていた。
瑛二は、帳面を澪の前に差し出す。
「返すよ。これは、僕が持つべきものじゃなかった」
澪は、静かに受け取った。
帳面の重みが、手に伝わる。
それは、奪われた甘さの残骸ではなく――
選ばれなかった未来そのものだった。
「澪」
瑛二は、最後に言った。
「君を守るつもりで、傷つけた。それだけは、忘れないでほしい」
澪は、頷いた。
「忘れません」
許しでも、拒絶でもない。
ただの、事実として。
外に出ると、夜風が頬を撫でた。
胸の奥に残っていた重さが、少しだけ軽くなっている。
川沿いの桜が、静かに揺れていた。
澪は、帳面を抱きしめる。
奪われた甘さは、完全には戻らない。
でも、残された熱は――
次へ渡すことができる。
携帯が震えた。
〈戻ってこい〉
勇人からの、短いメッセージ。
澪は、小さく笑う。
「……帰ります」
呟き、歩き出す。
未完の蜜とともに。
縛られない甘さを、未来へ残すために。
夜の空気はまだ冷たい。けれど、その冷たささえ、澪の背中をそっと押していた。




