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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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11話

 勇人が退院したのは、事故から三週間後のことだった。


 春の光は、いつの間にか冬の名残を押し流し、病院の白い壁に鋭く跳ね返っていた。ガラス越しに差し込む陽射しは、やけに現実的で、祝福というよりも「日常へ戻れ」と命じているようだった。


 澪は、その光をまともに見ることができなかった。


 勇人がゆっくりと歩く後ろ姿を、少し距離を取って見つめる。退院とはいえ、完全に元通りというわけではない。歩幅は以前より狭く、無意識に身体の片側をかばう癖が抜けていなかった。


 ――それでも、生きている。


 その事実だけが、澪の胸をかろうじて支えていた。


 桜舞堂に戻る道すがら、二人の会話は必要最低限だった。

 天気のこと、医師の注意事項、店の近況。どれも言葉としては軽いのに、その裏に沈殿した「話すべきこと」が、重く澪の喉を塞いでいた。


 店の暖簾をくぐると、甘い匂いが空気に満ちていた。


 砂糖を煮詰める香り。

 小豆の熱。

 それらが混じり合った、桜舞堂だけの匂い。


 一瞬、胸が締めつけられる。


(……母さん)


 その甘さは、守られているはずだった。

 奪われるものでは、なかった。


「……ここ、座って」


 澪は、奥座敷の襖を開けた。


 母が生きていた頃、取引先や古くからの職人と話すときに使っていた、低い卓。艶を失いかけた木目には、長年の時間と、数え切れない会話の痕跡が染みついている。


 勇人は一瞬、その卓を見てから、ゆっくりと腰を下ろした。

 小さく息を整えるその仕草に、澪は胸の奥がちくりと痛んだ。


 湯呑みに注いだ熱い茶から、細い湯気が立ちのぼる。


 その白い揺らぎが、二人の間を曖昧にし、同時に逃げ道を塞いでいた。


「澪」


 勇人が、先に口を開いた。


「……俺、退院したら話すって決めてたことがある」


 その声は、事故の前よりも低かった。

 かすれはない。だが、どこか腹の底で重さを帯びている。


 澪は、湯呑みを持ったまま、黙って頷いた。


「平塚家のことだ」


 その一言で、指先が止まる。

 湯呑みの縁が、わずかに震え、湯が波打つ。


「……やっぱり」


 予感は、ずっとあった。

 事故も、視線も、言葉の端々も――すべてが、一本の糸で繋がっている気がしてならなかった。


「桜舞堂に、買収の話が来てた」


 勇人は、視線を落としたまま続ける。


「表向きは“提携”だった。資本支援、流通拡大、職人育成……聞こえはよかった。でも、実際は」


 一度、言葉を切る。


「レシピと屋号を吸い上げるつもりだった」


 澪の胸が、静かに軋む。


 条件が悪くなかった、という言葉の裏が分かってしまう。

 資金に余裕のない個人店にとって、それは“救い”にも見える提案だったはずだ。


「でも……」


 勇人は、ゆっくりと息を吸った。


「お前の母さんは、拒んだ」


 その瞬間、澪の視界が揺れた。

 母の背中が浮かぶ。

 白衣の袖をまくり、熱い鍋の前に立ち続けていた姿。

 誰よりも柔らかく、誰よりも頑なだった人。


「理由、聞いたことあるか?」


 澪は、静かに首を振った。


「『甘さは、人を幸せにするためにある』って」


 勇人の声が、少しだけ震える。


「『支配の道具にするなら、私は菓子を捨てる』って言ったそうだ」


 湯気が、ふっと消えた。


 澪は、何も言えなかった。


 あまりにも――母らしい言葉だったからだ。


 人を拒まず、でも、譲らない。

 その在り方が、どれほど危うく、どれほど美しかったか。


「……らしいだろ」


 勇人は、苦く笑った。

 その笑みは、諦めと敬意が入り混じったものだった。

 沈黙が、奥座敷を満たす。

 外では、誰かが菓子を包む音がかすかに響いていた。

 日常は、何事もなかったかのように続いている。


「それで……」


 勇人は、拳を握った。


「平塚家は引いた。少なくとも、表向きはな」


 だが、と続く言葉を、澪は息を詰めて待った。


「水面下で、圧力が続いた。材料の流通、職人への引き抜き、嫌がらせ……」


 澪の背中に、冷たいものが走る。

 思い当たる節は、いくつもあった。

 急に途切れた取引。

 理由の分からないキャンセル。

 説明のつかない噂。


「そして最後に、“未完のレシピ帳”の話が出た」


 その言葉に、澪の心臓が強く跳ねる。


「……未完の」


「完成していない蜜の配合だ。お前の母さんが、“最後まで書かなかったもの”」


 澪は、唇を噛んだ。

 母が、決して他人に渡さなかったページ。

 完成させなかったのではなく――完成させなかった“まま”、遺したもの。


「それを……?」


「誰かが、ずっと狙ってた」


 勇人は、ゆっくりと顔を上げる。


「……そして」


 澪の視線と、真正面からぶつかった。


「平塚瑛二が、それを持って消えた」


 空気が、凍りついた。


 勇人の言葉は、淡々としていた。

 だが、その静けさがかえって現実感を伴い、澪の胸を強く打った。


「……瑛二さんが?」


 声が、思ったよりも掠れていた。

 頭の中で、何かが噛み合わないまま回転する。

 穏やかな口調。

 人当たりのいい笑顔。

 澪の作る菓子を、誰よりも丁寧に味わっていた横顔。


 ――奪う人間には、見えなかった。


「母親とは違う」


 勇人は、即座に言った。


「平塚家の中でも、あいつは異質だった。強引なやり方を嫌ってたし、数字よりも“味”を語るタイプだ」


 それは、澪の知る瑛二と重なる。

 だからこそ、胸がざわついた。


「……じゃあ、どうして」


「無関係でもない、って話だ」


 勇人は、視線を外し、障子の向こうに目を向けた。

 淡い光が、紙の向こうで揺れている。


「平塚家は、甘さを“商品”じゃなく、“支配力”として見てる」


 その言葉に、澪は息を呑む。


「ブランド。独占。再現不能性。希少であるほど、価値は跳ね上がる。……その中心にあるのが、お前の母さんの蜜だ」


 母が遺したもの。

 守ろうとしたもの。

 誰にも渡さなかった、甘さ。


「瑛二は、その価値を“分かってしまった側”なんだ」


 勇人は、静かに続ける。


「だから、利用された。家の中で、唯一、良心を盾にできる存在だったからな」


 良心。

 その言葉が、澪の胸に引っかかる。

 善意が、最も搾取されやすいという事実を、澪はこの数年で嫌というほど学んでいた。


「……事故の日」


 澪は、ふいに口を開いた。


「瑛二さん、来てました」


 勇人の眉が、わずかに動く。


「店の前に、立ってたんです。何か言いたそうで……でも、何も言わなかった」


 あの夜の光景が、はっきりと蘇る。

 街灯の下。

 甘い匂いの残る空気。

 伸ばしかけて、引っ込められた手。


「勇人さん。あの人……怖がってるように見えた」


 勇人は、しばらく黙っていた。

 やがて、小さく息を吐く。


「……あいつはな」


 言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。


「自分が奪ってるって、自覚してるタイプだ」


 その一言が、澪の胸に重く落ちる。


「悪人じゃない」


 勇人は、澪を見る。


「でも、善人でもない。

 瑛二は“甘さ”に溺れる人間だ。……お前の母さんと、同じでな」


 澪は、目を伏せた。

 母の背中と、瑛二の横顔が、重なって見えた。

 ――甘さを信じた人間は、同時に、その危険も引き受けてしまう。


「澪」


 勇人の声が、少しだけ柔らかくなる。


「会いに行く気だろ」


 否定できなかった。

 自分の中で、もう答えは出ていた。


「……止めない」


 勇人は、そう言ってから、一拍置いた。


「だが、覚えとけ」


 声が、低く引き締まる。


「瑛二は、“守る”って言葉を使う。その実、自分が安心できる場所に相手を閉じ込める」


 澪は、はっとする。

 思い当たる節が、多すぎた。


「優しい言葉で、逃げ道を塞ぐ。

 それが、あいつのやり方だ」


 沈黙が落ちる。

 澪の中で、記憶が次々に反転していく。

 あのときの視線。

 あのときの沈黙。

 あのときの「君のため」という言葉。


「私……」


 澪は、小さく言った。


「知りたいんです」


 勇人は、何も言わずに聞いている。


「奪われた甘さが、何を生んだのか。

 そして……あの人が、何を抱えているのか」


 自分の声が、震えているのが分かった。

 怖い。

 それでも、目を逸らせなかった。

 勇人は、しばらく澪を見つめていた。

 やがて、目を閉じる。


「……行け」


 短く、しかし重い言葉だった。


「だが、戻ってこい」


 目を開き、微かに笑う。


「必ずだ」


 その笑みには、信頼と、諦念と、祈りが混じっていた。

 澪は、深く頷いた。

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