10話
夜道は静かだった。
雨は上がっているのに、空気はまだ湿り気を含み、肌にまとわりつく。
街灯の光が、濡れたアスファルトににじみ、歪んだ影を落としている。
(……贖罪)
瑛二の言葉が、何度も頭の中で反響する。
彼の声は、嘘をついているようには聞こえなかった。
けれど、すべてを信じるには、あまりにも多くのものが欠けている。
——もう一つの家。
——母を追っていた存在。
——和菓子界が変わるほどの蜜。
(……お母さん)
澪は、歩きながら拳を強く握りしめた。
自分が知っている母は、静かで、穏やかで、
ただ菓子を作ることが好きな人だった。
誰かと争うような人ではなかった。
誰かを出し抜くような人でもなかった。
それなのに。
(そんな世界に、巻き込まれていたなんて……)
住宅街に入ると、音がさらに減った。
遠くで犬が吠え、どこかの家の換気扇が低く唸っている。
自宅の前に立ったとき、澪は違和感を覚えた。
(……暗い)
玄関の灯りが、点いていない。
(……私、消して出たっけ)
心臓が、嫌な速さで脈打つ。
澪はしばらく、その場から動けずにいた。
ドアノブに手をかけるまでに、数秒——いや、数十秒かかった気がする。
鍵を開ける音が、夜にやけに大きく響いた。
玄関を開ける。
中は、しんと静まり返っている。
生活の匂いが、薄い。
「……ただいま」
誰に向けたわけでもない声は、すぐに闇に吸い込まれた。
靴を脱ぎ、そっと廊下に足を踏み入れる。
床板が、わずかに軋んだ。
その瞬間。
——カサッ
奥の部屋から、紙が擦れるような音がした。
全身の血が、一気に冷える。
(……今の、何)
耳鳴りがする。
呼吸が浅くなり、胸が苦しい。
誰かが、いる。
理性はそう叫んでいるのに、身体が動かない。
逃げるべきだと分かっているのに、足が床に縫い止められたようだった。
(……何を、探された?)
母のレシピ。
作業ノート。
それとも、もっと別の——
澪は、意を決して廊下を進んだ。
一歩ごとに、足音がやけに大きく感じられる。
闇の中で、何かが動き出しそうな錯覚。
部屋の前に立ち、深く息を吸う。
(……大丈夫)
そう思い込もうとして、扉を開けた。
——暗闇。
月明かりだけが、カーテンの隙間から差し込み、部屋を薄く照らしている。
そして。
机の引き出しが——
すべて、開いていた。
(……うそ)
背筋が、凍りつく。
引き出しの中身は、乱雑に引き抜かれ、戻されている。
探し物をした痕跡。
しかし、壊された形跡はない。
(……前と、同じ)
壊さず、荒らさず、
ただ「見た」だけ。
それが、何よりも怖かった。
澪は震える手で、壁のスイッチに触れた。
——ピッ
電気が点く、その直前。
——バタン
玄関のドアが、閉まる音がした。
(……っ!)
全身が、硬直する。
誰かが、今——
確かに、この家にいて、
そして、出ていった。
心臓の音が、耳を塞ぐ。
声が、出ない。
叫べない。
追いかけることも、できない。
しばらくしてから、ようやく息を吸い、吐いた。
(……逃げた?)
それとも。
(……目的は、もう果たした?)
視線を彷徨わせたとき、澪は気づいた。
テーブルの上に、何かが置かれている。
白い封筒。
見覚えはない。
だが、あまりにも堂々と、そこにあった。
恐る恐る、近づく。
宛名は、書かれていない。
指先が冷たくなりながら、封を切る。
中に入っていたのは——
たった一枚の紙。
黒い文字で、こう書かれていた。
桜舞堂の蜜は、誰のものでもない》
その下に。
朱色で押された、見覚えのない家紋。
(……誰)
頭の中が、真っ白になる。
その瞬間。
——ブブッ
スマートフォンが、震えた。
澪は、びくりと肩を跳ねさせ、画面を見る。
表示された名前。
平塚瑛二
澪さん、家には僕以外、入れていないよね?》
(……どうして)
どうして、今。
どうして、分かる。
手から、スマホが滑り落ちた。
床に当たる音が、やけに響く。
甘かった世界が、音を立てて崩れていく。
守ると言う人。
疑うべき人。
狙う人。
そして。
母が残した、“蜜よりも重い秘密”。
澪は、ようやく理解する。
これは、ただの恋ではない。
ただの継承でもない。
——これは、逃げ場のない戦いだ。
その夜。
雨上がりの静寂の中で。
蜜よりも濃い闇が、
確かに、澪の心へと入り込んだ。
床に落ちたスマートフォンは、まだ微かに振動していた。
通知の余韻が、澪の神経を逆撫でする。
(……どうして、分かるの)
瑛二は「見ていた」とは言っていない。
それなのに、家に“何か”が起きたことを、まるで当然のように察している。
澪はゆっくりとしゃがみ込み、スマートフォンを拾い上げた。
画面には、さきほどのメッセージだけが表示されたままだ。
澪さん、家には僕以外入れていないよね?》
否定も、肯定も含まれていない。
ただの確認。
それが、いちばん怖かった。
指が震え、画面に触れそうになる。
だが、すぐには返せなかった。
(……返事をしたら)
何かが、決定してしまう気がした。
澪は視線を上げ、もう一度部屋を見渡す。
引き出し。
机。
棚。
荒らされているのに、壊れてはいない。
必要なものだけを確認し、不要なものには触れていない。
——探し慣れている手つき。
(……母の、関係者?)
テーブルの上の封筒に、再び視線が戻る。
朱色の家紋。
円の中に、重なり合うような蔓草と、簡略化された花弁。
桜舞堂のものとは、明らかに違う。
(……もう一つの家)
瑛二の言葉が、頭をよぎる。
——君の母を追っていた“もう一つの家”。
澪は、封筒を胸に抱きしめるように持った。
紙一枚が、異様に重く感じられる。
そのとき。
——ピン
再び、スマートフォンが鳴った。
今度は、着信。
画面に表示された名前を見て、澪の心臓が跳ねた。
勇人
(……勇人)
通話ボタンを押すまで、少しだけ迷った。
だが、今は声が聞きたかった。
「……もしもし」
『澪? 無事か?』
勇人の声は、病室の静けさの中からでも、焦りがはっきり伝わってきた。
「……うん。大丈夫」
『声、震えてる』
隠したつもりでも、隠しきれていなかった。
「……家に、誰か入ったみたいで」
一瞬の沈黙。
『……やっぱりか』
勇人の声が、低くなる。
『澪、今すぐ俺に言え。何か取られたか?』
「分からない……でも、これが……」
澪は、家紋のことを簡単に説明した。
勇人は、途中で息を飲む。
『……知らない紋だ。でも、ろくな相手じゃない』
その断言に、澪の胸が少しだけ軽くなる。
『澪。今夜、一人でいない方がいい』
「……でも」
『来い』
短く、強い言葉だった。
『俺の家でも、病院の近くでもいい。とにかく、誰かの目がある場所にいろ』
澪は、唇を噛んだ。
(……行けば、勇人は守ってくれる)
それは、疑いようのない事実だった。
彼の「守る」は、分かりやすくて、まっすぐで、身体を張るものだ。
——でも。
スマートフォンの画面に、もう一つの通知が浮かび上がる。
今、君の家の近くにいる。心配だから》
平塚瑛二。
(……いつから?)
背中に、冷たい汗が流れる。
勇人の声が、受話器越しに続く。
『澪、聞いてるか?』
「……聞いてる」
でも、視線は、玄関の方へ向いていた。
『澪』
その呼び方が、いつもより強い。
『選べ』
その一言に、澪の喉が詰まる。
『俺を信じろ』
一方で。
瑛二は、信じろとも、来いとも、言っていない。
ただ、「そこにいる」と告げているだけだ。
(……これが)
(……選ばされる、ってこと?)
守ると言う人。
見守ると言う人。
利用するかもしれない人。
澪は、目を閉じた。
母が遺したもの。
狙われる理由。
自分の立っている場所。
すべてが、絡み合っている。
「……勇人」
『何だ』
「……少しだけ、時間をちょうだい」
『澪——』
通話を切る前に、澪は言った。
「……必ず、連絡する」
通話が切れ、静寂が戻る。
次の瞬間、スマートフォンに、瑛二からのメッセージが届いた。
《無理にとは言わない。
ただ、君が一人でいるのが、いちばん危ない》
(……分かってる)
分かっているからこそ、怖い。
澪は、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと玄関へ向かう。
鍵に手をかける前、もう一度、部屋を振り返った。
母がいた家。
守られていたはずの場所。
——もう、安全な檻ではない。
扉を開けると、夜の湿った空気が流れ込む。
街灯の下。
少し離れた場所に、黒いコートの男が立っていた。
平塚瑛二。
目が合うと、彼は静かに頷いた。
勝利の笑みでも、安心の笑みでもない。
まるで、澪がここへ来ることを「知っていた」かのような表情。
その瞬間、澪ははっきりと理解した。
——甘い檻は、もう壊れている。
——だが、新しい檻は、すぐそばに用意されている。
自分が踏み出す一歩が、
守りになるのか、支配になるのか。
その答えを知らないまま、
澪は夜へと足を踏み出した。
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