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砂糖よりも甘い蜜  作者: 倉木元貴


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1話

 四月の勝浦町は、春と初夏の境目にあるような町だった。

 山の緑はすでに濃く、朝の光を浴びるたびに艶を増している。けれど風にはまだ冷たさが残り、鼻先をくすぐる匂いには、名残の桜や山野草の淡い香りが溶け込んでいた。


 町外れの川沿いに、古い町家を改装した和菓子処「桜舞堂おうぶどう」がある。

 瓦屋根は長い年月を経て柔らかな色にくすみ、格子戸の木目には無数の傷が刻まれている。それでも手入れの行き届いた佇まいは、この店が“時間を大切にする場所”であることを静かに語っていた。

 まだ暖簾のかかっていない店内で、中田澪は一人、銅鍋の前に立っていた。

 火にかけられた鍋の中では、果実と砂糖がゆっくりと溶け合い、黄金色の蜜へと姿を変えつつある。

 沸点に近づくにつれ、細かな泡が表面を覆い、甘く、少し酸味を帯びた香りが作業場いっぱいに広がっていた。


 澪はしゃもじを握る指に力を込め、鍋から立ち上る湯気の向こうに目を細める。


(……あと、ほんの少し)


 温度、粘度、香りの立ち方。

 それらすべてが、澪の中では「数値」として浮かび上がる。


 甘味指数――12.5、12.6、12.7……。


(……0.3)


 目標値は12.8。

 親方が「澪の勘」と笑うその感覚は、澪にとっては曖昧なものではなかった。

 舌の奥、喉の奥、そして頭の奥で、確かに“数字”として感知できる。


 ほんの一瞬の判断の後、澪は火を止め、鍋を冷却台へと移した。

 湯気が静まり、蜜の表面が落ち着いていく。


 ——今日も、ちゃんとできた。


 そう思った瞬間、胸の奥に小さな安堵が広がった。

 だが同時に、いつもの癖で、心のどこかが少しだけ緊張したままでいる。

 失敗できない。

 この蜜は、澪にとって“仕事”である以上に、“証明”だった。

 その時だった。


「すみません、もう入ってもいいですか?」


 唐突にかかった声に、澪は肩をわずかに跳ねさせ、顔を上げた。


 暖簾の向こう、半分ほど開いた引き戸の隙間から、一人の男がこちらを覗いていた。

 白いシャツに紺のジャケット。

 勝浦町ではあまり見かけない、都会的で洗練された服装。

 朝の柔らかな光を受けて、その輪郭は妙にくっきりと浮かび上がっていた。


 澪と目が合うと、男は穏やかに、しかしどこか計算されたような微笑を浮かべた。


「開店前でしたか? でも、どうしても……ここの大福が食べたくて」


 声は低く、なめらかで、耳に心地よい。

 それだけなのに、なぜか澪の胸がざわりと揺れた。


(……この人)


 初対面のはずなのに、妙な存在感があった。

 視線の置き方、立ち姿、間の取り方。

 まるで、この場所に“来るべくして来た”かのような、不自然なほどの馴染み方。


「え、えっと……準備中ではあるんですが……」


 澪が言い淀むと、男は申し訳なさそうに肩をすくめた。


「少しだけでいいんです。朝の静けさの中で食べる和菓子は、格別ですから」


 その言葉に、澪は一瞬だけ言葉を失った。

 和菓子を“そういうふうに”言う人は、この町ではあまりいない。


「……どうぞ。お席はまだ整っていませんが……」


「ありがとうございます」


 男はそう言って、自然な動きで店内へ足を踏み入れた。

 その足取りには迷いがなく、初めて来た店とは思えないほどだった。


 澪はエプロンの裾を整えながら、カウンター越しに声をかける。


「おすすめ、ありますか?」


「そうですね……」


 男は少し考える素振りを見せたあと、柔らかく笑った。


「今日は、何が一番“澪さんらしい”ですか?」


「え……?」


 思わず聞き返すと、男は悪びれずに続ける。


「作り手が一番気に入っているものを、食べたいんです」


 その言葉に、澪の胸がきゅっと縮んだ。

 自分が作ったものを、自分の名を含めて選ばれる感覚。

 それは、これまで何度も求めてきたはずなのに、いざ向けられると戸惑ってしまう。


「……でしたら、季節限定の柑橘蜜大福です」


 そう答えた瞬間だった。

 男の視線が、ふっと澪の背後へと向いた。


 正確には、作業台の上に置かれた銅鍋——

 まだ余熱を残し、ほのかに香りを放つ蜜の鍋へ。

 その目は、ただ眺めているというよりも、

 蜜そのものを読み取ろうとしているように見えた。


「それは……あなたが作った蜜ですか」


 低く、確信を帯びた声。


「……はい。まだ見習いですけど」


 澪がそう答えると、男の表情がわずかに変わった。

 驚きと、安堵と、そして——なにか別の感情。


「見習い、ですか」


 その言葉を繰り返し、男は小さく息を吐いた。


「なら尚更だ。あれほど澄んだ香りは、そう簡単に出せるものじゃない」


 澪の胸が、不意に熱くなった。


 ——認められたい。


 それは澪が、子どもの頃から抱え続けてきた、骨の奥に刻まれた願いだった。

 母のレシピを継ぎ、親方のもとで修業を続けても「才能がある」とは、誰もはっきり言ってくれなかった。

 それなのに。

 見知らぬ男の一言で、心がこんなにも揺れるなんて。


「……ありがとうございます」


 かろうじてそう返すと、男は満足そうに微笑んだ。


「名乗るのが遅れましたね」


 そう前置きしてから、男は静かに言った。


「平塚瑛二です。仕事で勝浦に来ていて……偶然、この店を見つけました」


「中田澪です……」


 名を告げると、瑛二はその音を舌の上で転がすように、ゆっくりと繰り返した。


「澪さん」


 どこか懐かしむように、目を細める。


「いい名前ですね。水の流れみたいで……蜜とも、よく似合う」


 その声音に、澪は自分の鼓動が早くなるのを感じた。


 そして瑛二は、何気ない調子で、しかし確かに核心に触れる言葉を続ける。


「蜜の作り手に会えたのなら、ぜひ教えてほしい」


 一拍。


「……この甘さの秘密を」


 その瞬間、澪は気づかぬまま、

 甘さの境界を一歩、踏み越えた。


 まだ何も知らないまま。

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