第5話 SCP-NUK-03 歴史の修正
【SCP-NUK-03 監視記録(レベル5アクセス限定)】
アイテム #: SCP-NUK-03
オブジェクトクラス: Keter
特別収容プロトコル:
現在の世界線(Timeline-Alpha)において、SCP-NUK-03による歴史改変プロセスは「正常」と定義される。
担当職員は、改変前の記憶を保持する「汚染者」を発見次第、直ちに報告および終了処分を行うこと。
現在、愛の総量は安定供給されている。
説明:
SCP-NUK-03は、「愛の総量保存の法則」に基づき、
歴史上の「不要な悲劇」を自動的に剪定・削除する自律システムである。
削除された領域のリソース(存在確率)は、優先度の高い「愛される存在」へと再配分される。
シーン1(認識のズレ):美しすぎる世界
「いやあ、昨日のニュース見たか? ██共和国のトマト祭りが今年も盛況だったらしいな」
サイト-███のカフェテリアで、同僚の研究員がスプーンを動かしながら笑った。
「ああ、あそこのトマトは世界一だからな。平和な国だよ、昔から」
私は、手元のコーヒーカップを握りしめ、震えを止めるのに必死だった。
(違う。██共和国は、先週まで30年以上続く凄惨な内戦の最中だった。
飢餓と虐殺で、トマトどころか草木一本残っていない焦土だったはずだ)
私は周囲を見渡す。
誰も彼もが、穏やかな顔をしている。
彼らの認識では、あの国の内戦など「最初からなかったこと」になっている。
(吐き気がする。何百万人もの死者と難民がいた事実が、綺麗さっぱり拭い去られている。
そして、誰もその「空白」に気づいていない。……いや、空白すらない。
不自然なほど美しい「平和な歴史」で埋め合わされている)
私の胸ポケットにある、暗号化ドライブが微かに熱を帯びている。
これが私の認識を現実に繋ぎ止める「錨」となり、世界規模の歴史改変から私だけを取り残したのだ。
「おい、どうした? 顔色が悪いぞ」
同僚が心配そうに覗き込んでくる。その瞳には、一点の曇りもない善意が宿っている。
「……いや、少し寝不足でな。資料室で休んでくる」
私は逃げるように席を立った。
この世界は狂っている。いや、美しすぎる。
雑音が完全に除去された録音テープのように、不気味なほどクリアだ。
(世界中が「美しい嘘」を信じている中で、私だけが「汚れた真実」を抱えている。
この孤独は、Keterクラスの精神汚染よりもたちが悪い)
シーン2(愛されない存在の悲劇):システムによるガベージコレクション
私は任務を装い、かつて紛争地帯だったはずの座標へ向かった。
そこには、牧歌的な農村が広がっているはずだった。改変された歴史によれば。
だが、現地に降り立った私が目にしたのは、「白」だった。
「……なんだ、これは」
風景がない。音がない。
地図上には村が存在するはずの場所に、認識を拒絶するような「無の空間」が広がっている。
その中心に、それはいた。
SCP-NUK-03。
巨大な、脈打つ心臓のような紙の集合体。
それは、周囲の空間から「何か」を吸い上げ続けている。
(あれは、歴史を食べているのか? いや、違う。
「誰からも愛されなかった時間」を回収しているんだ)
足元を見ると、瓦礫の山や、誰かが持っていたであろう古びた人形が、
白い砂のように分解され、SCP-NUK-03へと吸い込まれていく。
ここは、紛争地域の孤児院があった場所だ。
世界中から見捨てられ、支援も届かず、誰も関心を向けなかった場所。
(これはエラーじゃない。「ガベージコレクション(不要領域回収)」だ。
システムは、愛というリソースが注がれていない場所を「無駄なデータ」と判断し、
削除している。最初から存在しなかったことにして、メモリを空けているんだ)
SCP-NUK-03が脈打つたびに、世界は少しずつ「綺麗」になっていく。
悲劇は消え、代わりにどこかの先進国で、誰かが幸福な朝を迎える確率が上がるのだろう。
(なんて効率的なんだ。悲しみを癒やすのではなく、
悲しむ存在そのものを消去して「平和」を作るなんて。
これが創設者の望んだ理想郷なのか)
シーン3(愛の総量保存の法則):創設者の冷徹な数式
私は現地のセーフハウスに潜伏し、持ち出したドライブの最終プロテクトを解除した。
モニターに、ノイズ混じりの映像ログが再生される。
映し出されたのは、穏やかな老紳士――創設者███だった。
彼は、今日の天気の話でもするかのように、悪魔的な理論を語り始めた。
『愛とは、無限の感情ではない。物理法則に縛られた、有限のリソース(エネルギー)だ』
彼は黒板に数式を書く。
それは冷徹で、反論の余地がないほど論理的な等式だった。
『これを「愛の総量保存の法則」と呼ぶ』
『世界を幸福にするには、愛の総量を増やすことはできない。
人類のキャパシティには限界があるからだ。ならば、どうするか?』
老紳士は微笑み、分母の数字をチョークで塗りつぶした。
『分母を減らせばいい。100の愛を1000人で分ければ飢える。
だが、愛されない500人を削除すれば、残りの500人は2倍の愛で満たされる。
これが我々の救済だ』
私は椅子から崩れ落ちそうになった。
(救済……? これが?
愛されない者を間引き、燃料にすることで成り立つ楽園だと?)
窓の外を見る。
今、世界が平和で美しいのは、紛争地帯の子供たちが、スラムの住人たちが、
孤独な老人たちが、「削除」されたからだ。
そして、私自身が今こうして生きていられるのも、誰かの削除されたリソースの上に成り立っている。
(私が今日食べたパンは、消された誰かの命と引き換えだったのか?
私が家族を愛したいと願うことすら、リソースの奪い合いとなり、誰かの削除を加速させるのか?)
私の生存そのものが、罪だった。
だが、このシステムは、そんな葛藤すら「無駄なノイズ」として処理するだろう。
シーン4(警告):次は君の番だ
その時、モニターの警告音が鳴り響いた。
『警告:不正な観測者を検知。システム干渉を確認』
(見つかった!? いや、違う。これは……)
私が肌身離さず持っていた、失われた家族の写真。
机の上に置いたその写真に、黒いノイズが走り始めた。
写真の中の妻と娘の顔が、歪み、薄れていく。
まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように、背景の風景と同化していく。
『警告:愛の供給量が不足しています。対象オブジェクト(観測者の家族の記憶)は、
リソース回収対象に指定されました。削除まで、あと120秒』
「やめろ……やめてくれ!」
私は写真を鷲掴みにした。
「それだけは、それだけは私の全てなんだ! 私のリソースを全部持っていってもいい!
だから彼女たちを消さないでくれ!」
私の叫びは、無機質なカウントダウンにかき消される。
『削除プロセス、開始』
写真が白くフェードアウトしていく。
私の記憶の中からも、彼女たちの声や、匂いや、温もりが、
砂のようにさらわれていく感覚がある。
(思い出せない。彼女の好きな花は何だった? 娘の誕生日は?
……嫌だ、消えるな、消えないでくれ!)
その時。
ザザッ……ザザザッ……。
完全に消えかけた写真の奥、あるいはモニターのスピーカーから、奇妙なノイズが聞こえた。
『……こ……で……』
それは、風の音ではない。
先ほど「削除」されたはずの、紛争地域の子供たちの声。
そして、今まさに消えようとしている、妻の声にも聞こえた。
『……パ……パ……まだ、いる……よ……』
私は息を止めた。
(聞こえる。これは幻聴じゃない。「削除されたデータ」は、完全には消えていない。
世界の裏側、システムのごみ箱の中で、バグとして蠢いている)
彼女たちは、まだそこにいる。
美しい歴史の裏側に捨てられた、暗くて冷たい「虚空」の中で、私の助けを待っている。
『削除完了。システムは正常です』
手元の写真は、ただの白い紙になった。
だが、私はもう泣いていなかった。
「……正常、だと?」
私は立ち上がり、ドライブをシステムポートに乱暴に突き刺した。
(上等だ。お前たちが「ゴミ箱」と呼ぶ場所へ、私自ら行ってやる。
削除された全ての愛を引き連れて、このふざけた「正常な世界」をひっくり返してやる)
私はコンソールのエンターキーを叩き、自らの意識を、
SCP-NUK-03の内部(虚空)へとダイブさせた。
これは自殺ではない。
「虚空の帰還」への、最初の一歩だ。




