曲がり道
一途な彼、自分が分からない彼女。
曲がり道の先で二人はどんな景色を見るのでしょうか。
彼目線、彼女目線を交互にしてお送りします。
何も変わらない街、何も変わらない日々。この街は良い意味でも悪い意味でも動きを止めていた。疎らな喧噪。自転車のベルの音。流れる音も変わらない。
真夜中に橋の中ほどで海を見ていた。いつもと変わらない風が吹き抜けていく。どうすれば良いのだろう。どうしたらこの気持ちが伝わるのだろう。彼女は蝶のようにあちらこちらを飛び回っている。いつまでもその手を掴めなかった。もどかしい。あの日から。彼女に会わなければこんな思いはしなかったのに。こんな気持ちになるなら出会わなければ良かった。でも、出会わない方がもっと嫌だった。どうしたって彼女のことばかり考えている。彼女はずっと離れたり近づいたりで考えが読めない。なんだか声だけ聴きたくなって電話をかけた。その電話は繋がる訳がないと思っていたのにあっさりと繋がった。
私は好きが分からなかった。だからあちこちに媚びを売った。「好き」って良いながら。でも、どれも違う。好きってなんだろう。お金?友達?いくら考えても分からなかった。一人だけ重い人はいるけど。あれも違う。もう疲れた。分からない。皆はなんで楽しそうなんだろう。一人で街に立ち尽くしてそれらを見ていた。誰か教えて欲しい。誰も教えてくれない。明日も誰かに「好き」って言うんだろうか。デートしても楽しいけど楽しくない。好きだけど好きじゃない。本音が自分でも分からなかった。でも、なんでこんなに固執しているんだろう。別に一人でも良いのに。考えたら途端に寂しくなった。常に誰かといたかったのかもしれない。恋じゃなくて人肌恋しかっただけ。もう考えるのはやめた。そんな時、電話が鳴った。ディスプレイには彼の名前がある。ちょっと迷って通話ボタンを押した。
「どうしたの?」
「なんか、声が聴きたくなって」
「そうなんだ」
「……」
お互いに黙り込んでしまった。二の句が継げない。
「ごめん、それだけ」
二人の会話はそれで終わってしまった。
電子音が空に消えていく。欄干から見る景色は何も変わらない。ひとつ溜息をついて家に帰った。部屋の灯りをつけて雑誌をパラパラとめくる。面白くなくてそのまま寝てしまった。翌日は馴染みの店で友達と昼間から酒を呑む。変わらない日常。ループする毎日。でもなんだかんだ楽しかった。散々飲んだ後の帰り道、向こうから彼女が歩いてくるのが見えた。寂しそうな顔をしているのが見ていて苦しかった。自分ならそんな顔をさせないのに。でも彼女は自分に見向きもしない。そんな彼女がデートに誘ってきた。きっとまた気まぐれだ。でもどうしようもなく嬉しかった。
電話を切って取り残された街を見つめる。なんか嫌になってそのまま家に帰った。でも、その翌日にはまた車の助手席に座って楽しくデートしていた。色んな物を買ってもらってまた嬉しくなった。やっぱりお金持ちが好き。いつでも願いを叶えてくれる。でも、帰り道はまた寂しくなった。見慣れた一本道を歩く。遠くに、彼が歩いてくるのが見えた。何故か安心した。寂しい時に知った顔を見ると安心する。正直違う人が良かったけど、デートを取りつけた。明日は夏祭りだった。どうせつまんないだろうけど、その時は何故か彼が良かった。自分でも分からない。
翌日、デートの日がやってきた。今日は夏祭りだ。幾度となく会っているしデートもしたけど、やっぱり緊張する。彼女にその気がなかったとしても。変わらない表情で彼女はやってきた。貼り付けたような笑顔。本当の笑顔をいつか見ることは出来るのだろうか。いや、自分が引き出すんだ。そう思いながら適当な場所を歩いた。だいたい同じところをぐるぐると回るだけ。夏祭りの会場に着くと沢山の人が溢れかえっていた。はぐれたら危ないということを利用して手を繋いだ。その手はひんやり冷たかった。何をしていてもつまらなさそうな彼女の手を半ば強引に引っ張って開けた場所まで来た。もうすぐ花火だったから。手を振りほどかれて彼女が去っていこうとしたら、花火が上がった。弾けるような音と共に光りの輪が空に現れる。それを見ながらしばらく立ち尽くしていた。彼女が帰るのが見える。でも追いかけられずにもう何も無い空を見ていた。そしてとぼとぼと家に帰った。
デートの日が来た。なんで昨日約束しちゃったんだろう。カバンを手にして家を出た。待ち合わせ場所にはもう彼がいた。後ろからいつものように話しかける。彼には笑顔を浮かべた中に緊張の色が見えた。いつも他の人とは違う顔。デート以外で話す時もいつもそんな感じ。夏祭りの会場に着いた。沢山の人に酔いそうになる。こんなに人がいるところなんてあんまりなかった。そんな時、彼が手を繋いできた。その手はあたたかかった。でも、何をしてもつまらない。その時、彼が強引に手を引っ張る。痛いとか言っても止まってくれない。ようやく開けた場所に着いた。思い切り手を振りほどく。帰ろうとした時、花火が上がった。空に満開の花々が咲く。綺麗だった。せっかくだから一人で見たかったと思いを巡らせる。やっぱりつまらなかった。ありきたりで腕を引っ張ってまで見せたのは結局これ。つまらない。踵を返して家に帰った。帰り道は相変わらず寂しかった。誰かに会いたい。
帰り道、二人は対峙した。帰り道は一本道で時間があればすれ違うのは当然のこと。長い沈黙が続く。
「やっぱり楽しくなかった?」
「つまんなかった」
「なんでいつもつまんないんだよ」
「分かんない」
「分かんないってなんなんだよ」
「それも分かんない!もうほっといてよ!」
と言って彼女は走り去っていった。
「ちょっと待てよ!」
それでも止まらない彼女を彼はそのまま見送るしかなかった。
見送った後、見飽きた店でビールを浴びるように飲んだ。なんでこんなに上手くいかないんだろう。つまらなさそうな顔が蘇る。他の人のデート帰りはとても楽しそうなのに自分だけが違う。何が違うのか。彼女しか見ていないのに。楽しむ顔が見たくてずっと考えているのに。何が足りないんだろう。悔しい。つまらない顔と嫌そうな顔。そのくせ、デートには誘う。つまらなければわざわざ誘わなければ良いのに。そういえば、他の人とのデートの後には買ってもらったものを見せびらかしていたっけ。結局は金なのか。次は欲しいものを買おう。そう思って帰った。
家に帰って、今日を振り返った。やっぱり行くんじゃなかった。つまらなかった。何にも買ってくれなかった。じゃあなんで誘ったんだろう。なんで行ったんだろう。自分でも分からなかった。分からないことが多くてむしゃくしゃしてくる。でも、あの時の手のあたたかさが今も忘れられない。これが好きという感情の芽生えなんだろうか。まさか、そんな訳ないと軽く笑ってひとつ溜息をつく。他人の気持ちも自分の気持ちも全てが分からない。いつからこうなってしまったんだろう。寂しさは何で満たされるんだろう。一人でも誰といても埋まらない。悲しくなってそのまま寝てしまった。
今日は雨が降っていた。窓にはパチパチと雨粒が打ちつけている。昨日の晴れが嘘みたいだ。夏祭りが昨日で良かったと心底思った。でも、正直夏祭りなんてどうでもよかった。それよりも、帰り道の潤んだ瞳と寂しそうな後ろ姿が忘れられなかった。なんであの時抱きしめてあげられなかったんだろう。ほっといてよ!、という言葉が耳から離れない。そうだ、その言葉で動けなくなったんだ。ただ、あの時初めて素の彼女を見た気がした。でも、あれが本音だとしたらどうすればいいのだろう。助けたかったけど、本人ですら分からない物事を助けることはできない。唯一できることは寄り添うこと、そしていつも通り振る舞うことだけだ。そんな時、着信音が響いた。彼女からだった。
「昨日はごめんね」
「いや、こちらこそごめん」
「ねえ」
ふと、黙り込む。
「どうした?」
「今日デートしよ」
「いいよ、どこがいい?」
「どこでもいい」
プツリと電話が切れた。
朝起きると雨が降っていた。私の心みたい。ぐちゃぐちゃで訳が分からなくて、何がしたいかも分からなくて、自分が分からなくて。また寂しくなった。誰かに会いたい。適当に声をかけようと暗がりの部屋で連絡先を眺める。でも、会いたくなる人はいなかった。また溜息をつく。またむしゃくしゃする。こんな繰り返しの毎日から抜け出したかった。皆、どうやって生きてるんだろう。皆、分からないまま平気なフリして過ごしているのかな。少し涙が出てきた。何か手掛かりが欲しい。そんな時、昨日のことを思い出した。初めて人に大声を出した夜。その後の寂しさ。いつもより寂しかった。気付くと、あんなに会いたくなかった名前をディスプレイに呼び出していた。
雨が降る中、傘を差して街を歩く。待ち合わせはあの時の一本道。あんなにつまらなさそうだったのに今日も会うことになった。今でも信じられない。でも、声に覇気がなかったのが気がかりだった。今日は急ごしらえでラッピングした少し高価なものを鞄に忍ばせている。これを渡せば、少しは気が晴れるだろうか。いや、晴れる気がしなかった。でも、少しの足しにはなって欲しい。そんな風に思っていると向こうから彼女が歩いてくるのが見える。いつもみたいにつまらなさそうな顔をしている。やっぱり元気がなさそうだった。また沈黙。その時、彼女が傘を捨てて抱き締めてきた。思いもよらないことに抱き締め返すことが出来なかった。でも、それも一瞬のことだった。きっとまた気まぐれなんだろう。それでも嬉しかった。鞄の中の包みを渡すと嬉しそうに受け取る。また切なくなった。
待ち合わせは一本道。大声を上げて帰ったあの一本道。自分から言い出したのに憂鬱だった。帰りたい。向こうから彼が歩いてくるのが見えた。これからどこに行くんだろう。どうせまたありきたりな場所を歩き回るんだろうな。つまんない。二人ともピタリと足を止める。沈黙とは裏腹に雨がパチパチとうるさい音をたてる。無意識に傘を捨てて抱き締めていた。あたたかい。自分で自分に驚いた。抱き締めるなんて媚びを売る時だけだった。なんで今こんなことをしたんだろう。一瞬で離れて傘を拾う。昨日より気持ちが落ち着いている自分にまた驚く。そんな時、彼が小包を取り出して渡してきた。ようやくありつけたプレゼントに気分が上がる。やっぱりこうでなくちゃ。
どこに行けばいいか分からなくて、いつもみたいに馴染みの店や道を歩いて回るだけになってしまった。またつまらないと思われているのだろうけど、お洒落な店も知らないし高級な店も敷居が高くて入れない。不甲斐なさに悔しさが募る。思案していると彼女がいきなり手を引っ張り、ずかずかと歩いていく。ああ、またつまらないから帰るんだと思っていたら、辿り着いたのはホテルだった。半ば強引に部屋にぶち込まれるとそのままベッドに叩きつけられる。明らかに彼女の手が震えている。初めて見る鋭い目付きに更に胸が苦しくなった。
いつもの道、いつもの店、つまらない。結局行く場所は同じ。やっぱり誘わなければ良かった。余計にむしゃくしゃしてくる。もう全てがどうでも良くなってきた。今までの金持ちのデートも横にいる彼のデートも帰り道は同じ。寂しさが募るだけ。ならいっそ、と横にいる彼の手を引っ張って、辿り着いたのはホテルだった。高いビルに明かりがギラギラと光っている。つまらなさと寂しさが限界に達していた。戸惑う彼をそのまま部屋に押し込んで、強引にベッドに叩きつけた。こんなことは初めてで手が震えてきた。虚勢を張って睨みつける。
「全部めちゃくちゃにして」
一番距離が近くなった彼女から放たれたのはそんな言葉だった。切なくなると同時に怒りが込み上げてきた。こんな手が震えるような子に安売りして欲しくなかった。なにより、お互いが愛し合っていないし自分だけが思いを寄せている状況でそんなことは出来るはずがない。そして、こんなむしゃくしゃした顔でそんなことを言われても怒りが増すだけだった。彼女を押しのけて、思わず平手打ちをした。やってしまった。手が震える。伝える手段が結局、言葉じゃなくて平手打ちだった。言葉で伝えるのはもはや手遅れだった。そんな自分に怒りとやるせなさと悲しさが去来する。堪らなくなって部屋を飛び出した。傘なんて忘れて雨に濡れて帰った。
もうめちゃくちゃだった。あんなことを言ったけど、怖かった。目の前の彼が私を押しのけると、私の頬に衝撃が走った。平手打ちだった。あんなに悲しそうで寂しそうで怒りに満ちた表情は初めてみた。彼は手を見て震えている。私みたいに怖かったのかもしれない。少し胸が苦しくなった。彼は走って部屋から飛び出してしまった。私はまたひとりぼっち。前より寂しさが大きくなった。誰も助けてくれない。いや、今の彼は私を救ってくれたのかもしれない。本当にめちゃくちゃにされてたら、今度こそ取り返しのつかないことになっていたかもしれない。あんなに男を振り回してきたのに、今は彼に振り回されている。なんであんな奴に。気に食わなかった。頬がじんじんと痛い。一人になった部屋で膝を抱えて泣いた。
翌日。昨日の雨が嘘みたいに晴れていた。歩いて橋の欄干で景色を眺める。何も変わらない景色。唯一変わったのはぐちゃぐちゃになった心だった。家に帰った後、全く眠れなかった。昨日の夜を思い出す。あれじゃただ彼女を傷付けただけだった。いつだって言葉を紡ぐ時間を与えてくれない。咄嗟の行動しか出来ない。何より彼女を物理的に傷付けた上に怖くて自分勝手に部屋を飛び出して、彼女を一人にしてしまった。悪手中の悪手。謝りたくて電話をしたけど繋がらなかった。当たり前の帰結だろう。悲しくて悲しくて堪らなかった。伸ばした手はきっともう届かない。自分のせいで。欄干に拳を叩きつける。手からは血が滲んでいた。
朝が来た。まだ動けないままでいる。昨日の夜を繰り返し頭に浮かべていた。頬の痛み、私の身勝手な行動、そして彼の表情。寂しさの大きさは増していく一方だった。あんなに色んな男に身勝手なことを散々してきたクセに、罪悪感の波が押し寄せて溺れそうだった。自分は嫌な顔をするクセに、自分から拒絶するのは慣れているクセに、人の嫌な顔を見るのも人から拒絶されるのも大嫌いだった。でも、今回は違った。いつまでもあの表情がこびりついて離れなかった。理由なんて分からない。でも心の穴が大きくなったことには変わりなかった。鞄の中から着信音が聞こえたけど、出る気にはなれなかった。怖かった。
馴染みの店でビールを呑む。もう記憶がなくなるまで呑みたかった。どうにかしてこの苦しさの鎖からほどかれたかった。ほどけないことなんて分かっているのに。少しでも、ほんの少しの時間でも忘れたかった。結局、記憶がなくなるくらいには酔えなくて千鳥足で帰り道を歩んでいた。ふらふらする中、前から彼女が歩いてくる。とうとう幻覚でも見え始めたのか。でも、幻覚じゃなかった。今は会いたくなかったのに。でも、会ってしまった手前無視は出来ない。一本道に逃げ道はない。でも段々眠くなって、電柱にもたれて寝てしまった。
チェックアウトの時間が来てしまった。押し出されるように外に出た。日差しに焼かれて消えてしまいそうな空。ふらふらしながら帰路に着く。角を曲がれば一本道。今はそこを通るのが怖くて堪らなかった。意を決して曲がるとやっぱり彼がいた。なるべく平静を装って歩く。距離が徐々に縮まっていく。そんな時に彼が電柱にもたれかかって座り込んだ。通り過ぎながらチラリと彼の方を見ると、すやすやと眠っている。アルコールの匂いが強く残っていた。
どれだけ眠ってしまったのだろう。起きたら夕方だった。ゆっくりと起き上がって伸びをした。ただ、あのタイミングで寝てしまったのは幸運だったのかもしれない。また対峙してしまうと何を言われるのか、何を言ってしまうのかとてつもなく怖かった。そして、また咄嗟に物理的に傷付けてしまうかもしれないと思うと体の芯から凍えるような寒気がする。また右手が震えてきた。頬を叩いた痛みがまだ消えない。欄干で血が滲むほど拳を叩きつけたことより何億倍も痛かった。怖かった。誰かに助けて欲しかった。でも助けてもらう資格はない。この罪はどう贖えば良いのだろう。
ずっと欄干で景色を眺めていた。ホテルはあんなにギラギラした光だったのに、ここは優しい光に包まれている。ふともたれかかっていた場所を見ると赤い血が少し付いていた。気持ち悪くてその場を離れる。何故こんなところに血が。せっかく景色を見ていたのに興醒めした。その足でまた誰かに電話をかけてそのままデートに向かった。キラキラの贈り物も欲しいものも全部手に入れたのに今日は何も楽しくなかった。物なんかもらっても嬉しくなかった。もうデートで埋められるような寂しさではなくなってしまっていることに気づいた。
考えているうちに気がついたら夜になっていた。まだ動けない。涙が零れた。いっぱいいっぱいだった。考えても出ない答えに限界を迎えていた。むしゃくしゃしてきた。頭を掻き乱してみても解決は出来ない。欄干に向かってみる。朝に付いた血はすっかり乾いて橋の錆になっていた。どうすれば良いか分からなくて思いの限り叫んでみる。解決する訳ないのに、声が枯れるほど叫ぶ。何も変わらない景色と何も変わらない事実。あの日に巻き戻して欲しい。そうすればあんなことしなかったのに。いや、していたかもしれない。でも、あの時彼女の通りにしていたらもっと後悔していただろう。それだけが唯一の救いなのかもしれない。
帰り道、とても寂しかった。デートに行かなければ良かった。余計に穴が広がってしまった。どうすればこの心の穴が塞がるのだろう。分からない。彼に会えば塞がるのだろうか。いや、塞がる訳がない。更に穴が広がるだけだろう。でも、会いたかった。でも、今更会いたいなんて言えない。偶然にでも会えたら良いのに。この穴の正体を探したかった。あの夜、間違いなく穴が広がった。だから彼に会ってその塞がらない理由の一端を見つけたかった。偶然なら、とあの一本道に足を運んだ。ここで会えなければどうなるんだろう。普通なら電話をするだろう。でも、電話なんて出来る余裕は持ち合わせていなかった。ここを曲がれば一本道だ。気付けば会えますように、と強く祈っていた。自分でも信じられなかった。でも、信じられないとか分からないとかもうどうでも良かった。
叫びに叫んだあと、しゃがみ込んだ。叫んでもどうしようもない。神様はあの夜を作り出して、諦めろと自分に言おうとしていたんじゃないかとまで思うほどだった。悔しくて寂しくて辛くてどうしようもなくて。こんなにぐちゃぐちゃになるような思いをしたのは初めてだった。電話することも出来る。でも、それは許せなかった。歯を食いしばる。好きな人を傷付けた時点でもう終わりだ。何もかも終わりなのだ。自分が出した答えはこれだった。もう彼女には会わない。会わなければ傷つけることもない。これからは誰も一本道を歩いていない時を待って通ろうと決めた。
一本道を曲がった時、誰もいなかった。風だけが虚しく通り過ぎていった。むしろ会えない確率の方が高かったのに、更に心の穴が広がった。ここでようやく気が付いた。私が彼という存在を求めていたことに。遅かった。やっと自分の「分かんない」に気づいた。「つまらない」も傷つきたくなかったからかもしれない。一番「つまらなかった」のはまさに彼とのデートだった。全部遅かったし、とんでもないことをしてしまった自分を恨んだ。あの日の言動、彼の表情の意味、全てが一気に襲いかかってくる。その場にしゃがみ込んで悲鳴をあげた。私は彼を酷く傷つけた。傷つけたんだと気づいてしまった。後悔してもどうしようもなかった。勝手に限界を迎えて、相手の気持ちなんて何も考えず乱暴に振舞った。あの日に戻りたい。戻れない。悲鳴は止まらない。気が狂いそうだった。
橋の欄干にしゃがみ込んでどれくらい経ったのだろう。女性の悲鳴が聞こえた。尋常ではない悲鳴に、誰かが事件に巻き込まれているのかもしれないと一本道に向けて駆け出した。一本道で悲鳴をあげていたのは彼女だった。たった一人で、さっきまでの自分みたいに叫んでいる。全てをちぎっているようなつんざくような悲鳴は、聞いているだけで自分の心までちぎれそうだった。そんな状態の彼女にかける言葉がどうしたって思いつかなくて、行動だって出来なくてそのまま逃げ帰った。後ろではまだ悲鳴が響いている。罪悪感と共に夜の道を走ることしか出来なかった。
今度は涙がボロボロと零れて止まらなくなった。もう彼に会う資格なんてなかった。あの日、全てが無に帰したのだ。そもそもこんな乱暴な女とはもう会いたくないだろう。身勝手で相手のことなんて何一つ考えていなかった女に。自分からあんなことをしておいて、今更会いたいなんて言える訳なかった。でも、どうしても会いたかった。誰か助けて。最後にもう一度だけ、姿だけ見たい。でも、それすらも自分が許さなかった。今までの罪が重くのしかかってくる。夏祭りのあの日、手を引っ張ってまで見せてくれた花火を今更思い出した。今じゃなくて良いのに頭が勝手に記憶を引き出してくる。あの花火は今まで見た花火の中で一番綺麗だった。つまんなかったけど、とても綺麗だったのに。今は暗闇で一人きり。明かりなんてどこにもなかった。
走った。息が上がっても走った。あの悲鳴はいつの間にか聞こえない位置まで来ていた。それでもあの悲鳴が耳にずっと響いている。彼女はまだあの場所で悲鳴をあげているのだろうか。やっぱりこのまま帰るなんて卑怯だと思った。いつだって不機嫌そうだった彼女があんな悲鳴をあげているだなんて相当なことだろう。帰りたい気持ちと彼女の元に戻る気持ちの間で揺れている。でも、気持ちとは裏腹にあの一本道へと駆け出していた。自分が何かを出来るラストチャンスかもしれない。まだ手を差し伸べたら届くのかもしれない。正直、身勝手だと思う。でも、この際身勝手でも狡くてもどうでも良かった。彼女に寄り添えるのは自分だけだと思い上がっていると思われても良かった。彼女に拒絶されても良かった。どうしてもほっておけなかった。一本道まで走るとまだ彼女は悲鳴をあげながら泣いていた。走りながらあんなことを考えていたのにいざ目の前にすると何も声をかけられない。しばらくどうしようか考えていた時、着信音がなった。それと同時に彼女が振り向いた。電話をかけてきていたのは彼女だった。時が止まった。
涙は止まらない。とめどなく流れる。一人はやっぱり寂しい。世界で一人ぼっち。私にはもう何も無い。男達を振り回して楽しんでいた日々も、あの日見た花火も、そして彼も。何も無くなった。自分の勝手で手放した。さっきから同じことしか頭に浮かばない。何もかもをシュレッダーにかけて全てなかったことにされているみたいだった。でも、最後に残ったのは嬉しそうな顔の彼の笑顔だった。会いたい。最後にもう一度だけ。最後の身勝手を神様は許してくれるだろうか。祈りながら電話する。もうこれで最後にしよう。すると着信音は驚くほど近くから聞こえた。音のする方を見ると彼が立ち尽くしている。その目は泣き腫らしたように赤くなっていた。時が止まった。
沈黙が続く。どちらもいざとなると声が出なくなっていた。声を出そうとしても何かを間違えれば全てが終わる。まるで薄氷の上を歩くような危うさだった。先に口を開いたのは彼だった。
「誰かに何かされた?怪我は無い?」
彼は気付いているのに悲鳴を口実にそう口にする。
「大丈夫」
彼女は強がっていつもの態度で接する。
「なら良かった」
あんなに強い想いがあるのに、また沈黙が訪れた。
夏祭りの日のように彼女の手を引いた。そして走り出した。一つ違うのは彼女の手が震えていたこと。彼女は痛いとは言わなかった。辿り着いたのはあの日のホテル。鍵を受け取って部屋に入る。彼女は嫌そうな顔をしたけど、あの日の彼女みたいに強引に部屋へ引き入れた。ガチャリと閉じるドア。怯える彼女。でも、絶対来なければならないと思っていた。決して、彼女に乱暴をするつもりはない。そんなことではなくて、あの日まで巻き戻したかっただけだった。傷付けあったあの日の夜に。正直「賭け」だった。ここできっと全てが決まる。出来れば良い方に向いて欲しい。彼女はすっかり怯えきった顔をしていた。胸が痛い。でも前に進むにはこれしか思い浮かばなかった。ごめん、と思いながら近くにあった椅子に座った。彼女は少し離れた椅子に座った。
彼は急に手を引いて走り出した。彼の手は震えている。待ってと言っても止まってくれない。まるであの夏祭りみたいに。辿り着いたのは私が全てを壊してしまったあの日と同じホテルだった。一気に怖さが襲いかかってくる。あの日とは逆。まさか彼はあの日の自分みたいにそういう風に言って、ぐちゃぐちゃにされてしまうのではないかと思うと背筋が凍った。手の震えが増す。彼の手は震えが止まっていた。むしろ握る手が強くなっている。部屋の扉が開く。動けない私を強引に部屋に引き入れた。ドアが閉まる。もう戻れない。彼は予想と違って椅子に座った。少しホッとした。私は少し離れた椅子に座った。
彼女の手はまだ震えていた。あの日の乱暴な自分と対面しているから当たり前だ。ただ、彼の手もまた震えていた。暴力をふるってしまった自分と対面しているのだから。
「強引に連れ出してごめん」
「いいよ」
彼らの目は交わらない。沈黙の後、彼女はとうとう泣き出してしまった。彼は傍に行くことが出来なかった。それが謝りの涙だと分かったから。
「殴っちゃってごめん」
そういった彼も泣き出した。部屋には泣き声だけが響いている。懺悔のような悲しげな色々な感情が混じった泣き声だった。二人はバラバラだったのに、今は同じ空間で同じ気持ちで泣いていた。その涙はお互いを救っていた。彼は彼女の涙に。彼女は彼の涙に。彼女は彼に近づいて抱きしめた。まるで許しを乞うように。彼も今度は抱きしめ返した。同じく許しを乞うように。懺悔の涙はやがて一つの涙に流れ着いた。
しばらくした後、彼らはホテルから夜景を眺めていた。手はまだ震えながらも少しだけ重なっていた。遅い時間だから明かりはほとんど点っておらず、星々が綺麗に見えた。その時、遠くの方で花火が上がった。奇跡のようなタイミングだった。二人は見つめ合うこともなく、静かに花火を見ていた。ただ、二人とも嬉しそうな表情を浮かべていた。