「玉座の目覚め、黒神盤の囁き」
空気が、淀んでいた。
冷たく、重い。
それはただの温度でも、湿度でもない。
まるで空間そのものが腐りかけた臓物のように、じっとりと張りついてくる。
目を開けた瞬間、俺は息を呑んだ。
――いや、“リオン”という名にすら、いまの自分は違和感を覚えていた。
天井は黒く、石の彫刻に覆われていた。
複雑な魔法文字と禍々しい紋様が這うように刻まれている。
灰色の光に照らされているにもかかわらず、まるで影がこちらを睨んでいるかのような気配すらあった。
玉座の間。
かつて、勇者として訪れた魔王城とはまるで別物だった。
重たい金属音がどこからともなく響き、空気が軋む。
壁が――呼吸している。
(……ここは……本当に……あの世界か?)
視界を巡らせながら、俺はゆっくりと立ち上がった。
足元は、漆黒の石。
そこに浮かぶ魔法陣のような紋様が、自分の動きに合わせて脈動している。
そして、自分の手を見て――思わず立ちすくんだ。
皮膚は白を通り越して青白く、爪は黒く染まり、わずかに尖っている。
手首には細く刻まれた魔族の印。
以前の自分とは明らかに異なる肉体。
(これは……俺の、体か……?)
慌てて足元に映った金属装飾を覗き込む。
そこには、見知らぬ“男”の姿。
長い黒銀の髪。
紅い瞳。
深紅の紋章を胸に刻んだ漆黒のローブ。
それでも、その顔立ちにはかすかに見覚えがあった――だがそれは、鏡越しに見た“昔の自分”に似ているだけ。
「……これが……俺……?」
つぶやいた瞬間、胸の奥で何かが共鳴するように疼いた。
その左手の甲に、光が浮かんだ。
黒い魔法陣。
中心に、黄金の“目”が開く。
生きているように動き、見ている。
こちらを、そしてこの世界を――
黒神盤。
(お前は、リオンではない。お前の名は――リヴァン)
声がした。
誰のものでもない、だが確かに自分の奥から響いてくる。
「……リヴァン……」
その名を口にした瞬間、世界が軋んだ。
黒神盤が脈動し、空間が赤くひび割れる。
呼吸を呑む間もなく、神盤がその名を祝福するように光を放った。
リヴァン――それが今の、自分の名前。
あの時、勇者として女神に裏切られ、処刑された自分はもういない。
目覚めたこの世界で、自分は――
(魔王、なのか……)
視線を上げると、そこにあった。
巨大な黒曜石の玉座。
背もたれには骸骨の彫刻。
その眼窩の奥から、赤い光がこちらを見つめていた。
自分はそこに座っていた。
目覚めたのは、玉座の真下――玉座の主として。
足を踏み出す。
その一歩に、広間全体が低く唸った。
「……俺は……本当に……」
呟いた言葉に応えるように、広間の先にあるステンドグラスが目に入った。
そこに描かれていたのは――
「俺……?」
金の髪、金の瞳。聖剣を掲げ、仲間たちと笑う“英雄リオン”の姿。
あの時、笑ってなんかいなかった。
魔王を倒した直後、自分は仲間に裏切られ、処刑された。
女神の声が降り、「お前は不要だ」と言い放たれた。
それが事実だったはずだ。
なのに、この絵は――そんな過去を、嘘に変えている。
「ふざけんなよ……」
リヴァンの声が低く震えた。
世界は、自分を裏切ったくせに、都合よく“英雄”として描き残した。
その時――
キィィ……と、音もなく玉座の間の扉が開いた。
入ってきたのは、一人の少女。
白銀の髪、紅の瞳、深紅のローブ。
死霊族――魔族の中でも、最も古く知を重んじる種族。
「目覚められたのですね、魔王様」
少女は深く頭を下げた。
その所作は滑らかで美しいが、冷え切っていた。
「……誰だ、お前は」
「アルヴィアと申します。
死霊族の記録官として、百年の間、あなた様の覚醒をお待ちしておりました」
「……百年……?」
言葉の意味が、理解できなかった。
「あなた様が“処刑”されたのは、今からちょうど百年と十二日前。
現在、地上では第五代聖王政が施行されております。
あなたの名は、いまや伝説の勇者として人々に語られておりますよ。
“魔王を討ち、平和をもたらした英雄リオン”――と」
リヴァンは、ただ黙っていた。
百年。
自分が死に、世界が好き勝手に自分を語り継ぎ、裏切りも処刑もすべて“美化”された百年。
そして今、そんな世界に再び目覚めた自分は――
「……いいだろう」
黒神盤が強く脈動した。
空間に小さな雷光が走る。
「俺がこの世界をどうするか――それを決めるのは、俺だ」
リヴァンは、玉座に背を向け、歩き出した。
その背に、アルヴィアは深く頭を下げる。
「了解しました、魔王様。
これより、あなた様の意志のままに、世界を動かしましょう」
扉が音を立てて開かれる。
今、世界は新たな魔王の覚醒を知る。
そして――
彼の選ぶ未来は、誰にもわからない。