8話 吉兆の青い鳥 下
青い鳥はカルフィスと僕の間を優雅に飛んでいる。
僕たちは、それを呆然と目で追った。数時間探し続け、捜索の中止で揉め始めたタイミングでの登場。理解が追いついていなかった。美しい鳥だとか思ったよりも花っぽいだとか、そういう他愛のない考えばかりが思考を満たし、どう行動すればいいか分からず硬直している。
二人のことなど認識すらしていないようにゆっくりと飛ぶ青い鳥はふわりふわりと移動し、少しずつ遠ざかっていく。
「「青い鳥!!」」
僕たちが我に返ったのは、視界の中で青い鳥がコイン程の大きさになってからだった。叫び声を被せて、同時に駆け出す。視線を青い鳥に固定して全力ダッシュ。地鳴りのような音を聞いて初めて追跡者に気付いた青い鳥は、先程までの優雅な飛行が嘘のように慌ただしく飛んでいる。
鳥と人間とほぼ人間。本来ならば僕たちが鳥に追いつくことなど出来なかっただろう。しかし、勝負の場が僕たちにとって庭のような森であり、勝負の時がまだ雪の残る冬だったことが幸をなした。全力疾走して辛うじて、寒さで鈍っている鳥の後をついて行くことが出来る。
徐々に縮んでいく距離と無くなっていく体力。先になくなったのは距離であった。
僕よりも少し前で走っているカルフィスの伸ばした手が、青い鳥の尾に迫る。青い羽を掴むことが出来ず、指先を掠めて離れてしまう。それを何度か繰り返す度、少しずつ距離が近くなっていく。
もうすぐ、あとちょっと。
今度こそはと手を伸ばしたカルフィスが、いきなり急停止した。突然の奇行に理解が及ばず、何しているんだと言おうといた時、カルフィスの向こう側の地面が無くなっていることに気が付いた。
崖。その言葉が頭を過ぎる時には、もうすでにカルフィスの背中が視界いっぱいに広がっていた。衝撃に備えて自然と固まった僕は、安堵の溜息をつきながら崖下を見下ろすカルフィスの背中に突撃する。ドン、という鈍い音が鳴った。視界の全てがスローモーションで動く中、上半身を捻って振り返ったカルフィスは驚きの顔をしている。
僕たちの体は崖から投げ出され、空中に浮かんでいた。勢いが失われ重力が働き出し、自然落下が始まった時、カルフィスが僕の頭を抱き込んだ。離さぬようにしっかりと。
もう嗅ぎ慣れたカルフィスの香りが、ふんわりと鼻腔をくすぐった。こんな状況なのにどこか安心してしまうのは、きっとカルフィスと一緒にいるからだ。
嗚呼、幸せとはこういうものなのか。
僕はカルフィスに抱きつき、その温度を胸いっぱいに感じた。この幸せの中で死ねるのならば、死もそれほど悪くはない。
永遠にも思える落下が終わって感じた衝撃は想像よりも優しい。肌に触れる水に、崖下が湖だったことを知った。自由落下特有の、臓器が浮くような感覚は完全になくなっている。あの高さからの落下の衝撃を完全に吸収できるほど、この湖は深いらしい。
僕と同じように水中で体制を整えたカルフィスが、周りを見渡しているのが見えた。僕を探しているらしい。水中だからか体を動かすことが難しく、首だけを左右に降っている。何故かカルフィスの背中側にいる僕を見つけるまでは、まだ時間があるだろう。
ふと、悪戯心が疼いた。思いつきのままに目を閉じる。体から力を抜き、口を薄く開いた。口の中に貯めていた空気がなくなり、少しずつ息が苦しくなっていく。気絶する前に見つけてくれると嬉しいのだが。
苦しさが顔に出ないように我慢していた時、水の動きを肌が感じ取った。カルフィスが近付いているのだろう。水の動きは次第に激しくなっていき、遂にカルフィスの手が僕の腕を掴んだ。途端、すごく強い力で抱えられる。水中であるのに、力が入っていない人を一人抱えているとは思えない速度で移動していく。
やはり吸血鬼とは力が強いものなのだろうか。いや、そんなことはないか。今までの生活ではそんな様子はなかった。これは単純に、火事場の馬鹿力だろう。人間も吸血鬼も、そんなに変わりはないものだな。
カルフィスの腕が腹に回って持ち上げられる。気持ちよく体を包んでいた浮力が無くなり、体が一気に重くなった。濡れた服がベッタリとくっつき気持ち悪い。まだ雪が残る季節だ。凍えるような寒さも感じた。
どんなに気持ち悪くても寒くても、表情や体には出さない。傍から見たら至って普通の気絶した少年にしか見えないだろう。俺は悪戯には全力を尽くすタイプだ。
カルフィスの手荒な動作から、彼が相当動揺していることが分かる。今のところ成功。カルフィスは俺を横たえると顔に張り付いていた髪を退けた。顎に指らしいものが触れる感覚。顔を少し上に上げられた。所謂顎クイというものである。その仕草から連想される次の行動に、少し焦りを覚えた。いくら親友と言えど、流石にそれは不味い。
パッと目を開けると、カルフィスの美貌が目の前にあった。近付いてくる唇に手を当てて止める。見開かれた赤い目と視線が交わった。
「やあ、カルフィス。何やっているの」
確かに焦りがあるはずなのだが、声はぼんやりとしていた。心なしか目蓋も重い。酸欠のせいだろうか。
カルフィスは驚愕の表情で固まった後、静かに安堵の息を吐いた。
「嗚呼、よかった。お前が死んでしまったかと思った」
「うん、僕も死んだと思った」
嘘ではない。崖から落ちた時は、本当にこのまま死んでしまうのだと思った。
けれど、とカルフィスを見る。彼も僕を見つめていた。
やけにゆっくりとした時間が流れる。勢いや強い感情を湖の中に置いてきたに違いない。
「でもさ、それでもいい気がしたのだよね」
何かを思い出すようにカルフィスの目が細められる。思い出しているものはきっと同じなのだろう、と僕は笑みを溢した。
「うん、私もだ」
僕たちは、色褪せない幸福に笑い合う。
嗚呼、やはり。青い鳥は吉兆の印に違いない。
♢♢♢♢♢♢
「ところで、なんで青い鳥を見た時に走り出したの?」
「…?セトが走り出したから」
「え、カルフィスの方が先に走ったって。僕はつられただけだもの」
「私もそうだ」
僕とカルフィスは顔を見合わせて首を傾げた。
そもそも、青い鳥は見ただけで良いことが起こるとされている鳥だ。捕まえる必要はないし、普通は捕まえようとは考えない。文明の発達した前世でならばともかく、今世では道具もないのだ。飛ぶ鳥を捕まえることなど不可能である。
であるにも関わらず、僕もカルフィスも青い鳥を目にした瞬間に走り出していた。なぜ捕まえる必要があるのかも捕まえてどうしたいのかも考えていなかった。何も考えず、ただひたすらに駆け出していた。疲れとは恐ろしいものである。
「青い鳥を見たのだから、言い伝えを信じるのならばいいことが起こるのだろうが、捕まえられなかったのは残念だな」
「うん、綺麗だったもんね」
僕たちは揃って肩を落とした。それほど美しい鳥であったのだ。
ため息をつく僕の視界に突然、色鮮やかな青が入った。反射的にそちらを見る。
「あ!羽根!」
ぴんと伸びた指の先。湖の水面に、青い羽根が一枚落ちていた。美しく煌めくそれは、追いかけていた青い鳥の羽根で間違いない。目当ての姿はどこにもないが、幸運なことに羽根を落としてくれたらしい。
カルフィスが拾い上げた羽根は、主人から離れた後でも変わらず輝いている。僕はカルフィスから羽根を受け取り、クルクル回して遊んだ。思わず笑いが溢れる。
僕たち以外は誰も立ち入らないような森の奥地で見つけた青い鳥。吉兆の印の一部を拾うことが出来た者にしては、今の僕たちはなんとも情けない姿ではないか。
二人とも全身ずぶ濡れ。全力疾走した足は重く、死にかけさえした。ここまでして成果は羽根一枚。
(でも、それだけの価値はある)
青い羽根を透かして見た先、カルフィスが満足げに微笑んでいる。




