1話 雪の出会い
あの時は、そう。雪が降っていた。
穏やかに落ちる雪を見ていると、時間までゆっくり流れていくように感じる。肌に触れた雪片が、少しの冷たさを残して消えた。
生命の気配が薄く雪が降るだけの森で、僕はひとり走っていた。理由は特にない。ただ楽しくて走りたくなっただけである。
いつもはすぐに尽きる体力も、高揚した気分によって無尽蔵に増えていて不思議なぐらいに長く走れる。どんなに走っても疲れることはなく、神秘的な景色が視界を走り過ぎていった。
いつもとは違う世界。
僕は他の何より、雪が一等好きだった。
凍えるように寒いのに心は暖かく、何処か落ち着かないような心地がする。心のままに、駆けて。駆けて。駆けて。
気が付いた時には見知らぬ場所にいた。
長年、人が踏みしめて出来た山道ではなく、自然に出来た草の裂け目に立っている。後ろを振り返っても道らしきものはなく、足跡は降り続ける雪が隠していた。
そもそも僕は森の入口辺りで少し遊ぶだけの予定だったのだ。森に慣れている従者に案内をしてもらい、防寒具だけ身につけて軽い気持ちで森に立ち入った。当然帰り道など分からないし、遭難用の装備など何も持っていない。
そんな状態での遭難。天気は雪。降り止む気配はなく。
楽しい気持ちが萎んでいき、不安と焦りが心を満たす。もう立ち止まっているはずなのに心拍数はどんどん上がり、冷たい汗が背を伝った。
セト、十歳。前世での歳を足せば、およそ三十年になる人生での、最も致命的なミスである。
♢♢♢♢♢♢
「詰んだ…」
僕は震える喉を無理やり動かして呟いた。
足先の感覚は疾うになく、冷たい空気を吸い込み続けた喉は痛みを訴えている。数十分前までは永遠に走り続けられるのではないかと思っていたのに、今は足が重くて歩くのでさえ億劫だった。
歩けど歩けど道は見つからず、寧ろより鬱蒼とした風景に変わっていく。日も暮れてきて不安が増していった。腹の鳴り具合から察するに、きっと晩御飯の時間は過ぎているに違いない。僕は運よく前世も今世も恵まれた家で生まれ育ったため、これほどの空腹を感じるのは初めてだった。
歩き続けること数分。当たりはもう真っ暗。
もはや獣の足跡さえ無くなってきた時、雪が積もった木々の間に屋敷が見えた。
僕は目を見開いて、悲鳴に似た歓声を上げる。屋敷の二階の窓が開いているのが見えたのだ。
(人がいる!)
絶望的な状況に萎んでいた気力が一気に戻ってきた。
僕は期待に胸を踊らせながら屋敷に近付く。意気揚々と突撃訪問する気で敷地の門の前に立った時、ふと我に返った。今の僕は、お世辞にも綺麗とは言えない姿なのである。
走り回ったのと汗で髪はぐちゃぐちゃだし、雪道を歩いた服は濡れている。一見すると不審者だ。
このまま呼び鈴を鳴らしていいものだろうか。
(もしかしたら門前払いされるかもしれない)
何度も述べるが、僕は前世でも今世でも恵まれた環境で育った。ある程度の常識を持ち、礼儀作法は身に付いているという自負がある。しかし知っているのと実践するのは、また別の話であった。
(よし、不法侵入しよう。二階にいる人に直接話せば分かってくれる)
加えて僕は楽観主義者である。痛い目に遭ってもすぐに忘れてしまう性質も持ち合わせていた。
周りを見渡して手頃な木を見つけると、迷いなく木に飛び付いた。凹凸に足をかけて枝をよじ登っていく。いつもは尖った部分があるため、もっと慎重に登らないと怪我をするのだが、現在は雪が積もっていて登りやすかった。
箱入りの貴族が見たら卒倒する程の危険行為だが、僕は木登りが出来るタイプの貴族なので問題はない。
それにしても、とため息混じりに枝を見た。
枝はしっかりと太くて、子供とはいえ僕の体重を乗せても安定している。さほど高さはないが塀よりは高かったし、枝の先は敷地内に伸びているので容易に侵入できる。
こんなに登りやすい木を屋敷の近くに植えるなんて、なんとも防犯意識の低い屋敷だ。
まだ見ぬ二階の主に言いたいことを脳内のメモに書き加えた僕は、ひとつ頷いて飛び降りた。膝を曲げて着地の衝撃を抑える。軽業師のような動作も、日頃の悪戯で鍛えてきた僕には朝飯前であった。
無事に不法侵入した僕は、二階の窓の近くにも木を発見した。先程と同じ容量ですいすい登っていく。今度は丁度いい枝がなかったので、少し高い枝から窓枠に飛び乗ることにした。
枝の上を数歩走って勢いを付け、窓に飛び込む。僕と共に移動した空気が流れ、白いカーテンがふわりと膨らんだ。光を遮断していたものが取り払われ、月の光が雪に反射して部屋に入る。
外からは見えなかった部屋の中が目の前に広がった。
とても広く、何も無い部屋だった。否、もっと正確に述べるのならば、机や寝具などの必要最低限の家具はあるので何も無いわけではない。しかし、広さに見合わぬ物の少なさが目につき、何も無いという印象を与えている。家具の一つ一つは古くもしっかりとしていて、それなりの価値があるのだろうと一目で分かる物ばかりだ。屋敷の大きさから何となく察してはいたが、階級の高い貴族の屋敷なのかもしれない。
部屋を興味深く見回した後、視界の中に違和感を感じて視線を向けた。
その瞬間、赤い光と目が合った。
闇の中に浮かぶ光は意志を持ち、静かに僕を見つめている。身動ぎひとつせず、僕だけを視界に映すかのようだ。
蝋燭の炎だと思ったそれは、人の目だった。驚くほど整った容姿の少年だ。
薄く光る赤い目を持った少年は僕を見つめたまま、ゆっくりと近付いてくる。相手に衝撃を与えないように慎重に歩く姿は、まるで警戒心の強い小動物に対する態度。モフりたいだけの人間がよくやる行為だ。
僕は目の前の相手がどんな人柄なのか一瞬にして理解した。
まったく、今日は予想外なことが多い日である。同年代に見える少年にそんな扱いをされたことなど、前世も含めて経験がない。
僕はどんな反応をすればいいのか分からず、取り敢えず半目で少年を睨む程度にしておいた。心の中の不満が少しでも少年に伝わったらいいのだが。
少年は窓から差し込む月明かりの一歩手前まで来ると、それから動かなくなった。僕を見る目は変わらないが、その目には迷いがある。
(まさか光が怖いのか?)
先程まで欲望のままに近付いてきたのに、突然の変化だ。何故かは分からないが、僕は少し嫌な気持ちになった。本当に何故かは分からないのだが。
僕は意図して挑発的に微笑むと、一歩後ろに下がった。踵が壁に当たる。視線は少年に向けたまま手探りでカーテンに手をかけ、勢いよく開いた。
一気に視界が明るくなる。雪の夜は明るいのだ。
一歩前が明るくなっても、少年は動揺せずに立っている。怯んで不格好に逃げるだろうと思っていた僕はがっかりした。悪戯が失敗した時のような気分になったのだ。
僕がため息をつく直前、少年が動いた。何かに取り憑かれたようにふらりと、あんなにも躊躇っていた一歩を踏み出す。
月明かりが少年にを照らし、モノクロだった彼を色付けていった。
鮮やかに、繊細に。
僕は世界が輝いていくのを見た。
目を見開いて蓬ける僕のすぐ側で少年が立ち止まった。手を伸ばせば届く距離。少年が僕の顔色を伺うように見ている間も、僕は衝撃から立ち直れないでいた。
少年の容姿が、あまりにも特異だっだ。
汚れひとつない真っ白な髪に、血を透かしたような赤い目。少し開かれた口から覗く、鋭くて長い牙。光の入らぬ暗い部屋に住み、この世のものとは思えぬほどの美貌を持つ。
その姿はまさしく。
「吸血鬼…」
僕たちが出会ったのは、雪の降る夜であった。
この時を思い出しては、何度も考えている。
僕はここから既に、大きな間違いを犯していた。
X(旧Twitter)ではキャラクターのイラストを載せたりするので、注意してください。




