54 奪われた聖騎士の教練書1
アスロック王国の御用商人、禿頭のアンセルスは、現在ドレシア帝国西部の都市ルベントを訪れていた。本来ならアイシラを護る立場の、護衛の剣士ミリアも一緒だ。
(わざわざ自らの護衛をつけて下さるなど、私の仕事をアイシラ様も重視してくれている証拠)
感動に胸を震わせて、アンセルスは今回の任務に取り組んでいた。聖騎士セニアから教練書の行方を聞き出し、何とか入手するのだ。ここに至ってアンセルスもセニアが教練書の何かしらかを知っているのだろうと思い始めていた。
「まさかセニア様が留守とは。ここまで順調だったというのに」
歯ぎしりしてアンセルスはこぼした。
アスロック王国とドレシア帝国の国境を抜くのはもともと出入りしているアンセルスには容易い。また、もともと潜入を得意とするミリアも一緒なのでクリフォードの離宮に潜入することにも成功した。
「まぁ、魔塔の攻略に出向くことすらしない腰抜けと思ってたけど。そこまでじゃなかったのね」
吐き捨てるようにミリアが言う。
今はミリアと2人、離宮の壁を越えて庭園の茂みに身を隠している。ここ以外にも何人かの部下をミリアが潜ませていた。
「セニア様とか主要な戦力がいないなら、力押しもありかもしれないわね」
囁くようにしてミリアが言った。つまり強盗をするということだ。
前方にある庭園の四阿では、お仕着せ姿の美しい紺色の髪の女性と、可愛らしい黒髪の少女がお茶をたしなみながら、おしゃべりをしている。くつろいだ雰囲気だ。
「その場合、あの2人、いつまでもそこにいるなら、最初に殺すしかないわね」
血なまぐさいことを更に続けてミリアが告げた。帯剣している。
(確かに生かしておく理由もない相手ではあるが)
アンセルスも思う。
当初はセニアから教練書について聞き出し、もし保持しているなら盗み出す計画だった。が、いざルベントに着いてみると、魔塔攻略に向かったセニアと行き違いになってしまったのだ。
離宮にいる人間を皆殺しにして、無人状態をつくり、ゆっくりと教練書を捜索するほうが現実的かもしれない。とにかく今のルベントは人手不足で手薄なのだから。
アンセルスもミリアに賛同し、いよいよ動き出そうというところ。
「はぁ、シェルダン様、早く帰ってこないかしら」
気が変わったのは、紺色の髪をした女性がシェルダンの名前を口にしたからだ。
おそらくシェルダン・ビーズリーのことだろう。ドレシアでは、あまり聞く名前ではなかった。
「ちょっと」
ミリアの制止を振り切って、アンセルスは茂みから飛び出し、自らの姿を晒した。
「もしもし、すいません。美しいお嬢様方」
声をかけながらアンセルスは必死で考えを巡らせる。
「訪いを入れたのですが、どなたにも案内をしていただけず、こんなところまで入ってきてしまいました。魔塔へ皆さん、行ってしまって人手不足ですかな?」
禿頭の不審人物に対し、黒髪の少女が警戒を露わにする。
「あら、どこかでお会いしたことがありますか?」
悠然と微笑んで、紺色の髪をした女性が尋ねる。こちらは考えがまるで読めなかった。
「今、シェルダン殿の名が聞こえましたが、ご関係者で?」
質問に答えるための質問だ。アンセルスのほうは相手に会った覚えがない。
「ええ、照れくさいのですが。あの、婚約者で。私、カティア・ルンカークと申します。シェルダン様のお知り合いかしら?」
ますます、カティア始め離宮の人間を殺すわけには行かなくなった。
ドレシア帝国の軽装歩兵分隊長シェルダン・ビーズリーには、魔物に襲われていたところを助けられた、命の借りがある。それはアイシラに感じている恩義と同等のものであり、アンセルスにとっては重いものだ。
「そうでしたか。私はシェルダン殿に商隊を助けられたことがあるのです。商人のアンセルスと言います」
動揺を顔に出すことなく、アンセルスは丁寧に名乗った。
「あぁ、アンセルス様。名前を聞いた覚えがありますわ」
言葉を切って、カティアが記憶をたどるような顔をした。なおも隣の少女は名乗りもせず身構えたままだが。
「アスロック王国の方で、セニア様が以前、物資の手配で援助なされた方ですわね?あぁ、そういえばシェルダン様も、昔、お仕事で商隊を助けたことがあると仰ってたような」
かなり前のことをよくも覚えているものだ。
カティアの有能さにアンセルスは感心した。
「ええ、その商隊を率いていたのが私です。あのときはシェルダン殿だけでなく、セニア様にも大変お世話になりまして。物資の代金、半額を援助頂いたのです」
セニアの名前を出したがゆえに処断をされかけた。恨めしさを抑えて頭を下げる。
「あら、あのときのお金は、でも、本当はクリフォード殿下が工面したのですよ。当時から首ったけでしたから」
クックッとカティアが笑みをこぼす。
下を向いていて良かった、とアンセルスは思った。怒りがフツフツとこみ上げてくる。
自分は実際には金を出してもいない人間の名前を出して処断されかけたということだ。
「で、今日はどういったご用件で?またセニア様にご商談ですか?」
カティアがたおやかに微笑んで尋ねてくる。
一旦、セニアへの怒りは置いておかなくてはならない。目の前の女性二人にはなんの責任もないどころか、恩人の婚約者とその同僚なのだ。
隣りにいる黒髪の少女がなおももの問いたげににらみつけてくる。確実にアンセルスを疑っている顔だ。
「いえ、セニア様に頼まれまして。至急、聖騎士の教練書が必要だとおっしゃるのです。魔塔へ届けて欲しいと、兵士の方からの言伝でね」
1つ、アンセルスは大きな賭けに出た。セニアがもし教練書を持っていなければ、自分は不審者だと断定される。そうでなくとも怪しまれれば同じことだ。
(ミリアの言うとおり、この屋敷にいる人間を皆殺しにして探すしかなくなる。出来ればしたくはないが)
アンセルスは、たらりと流れる背中の汗を感じた。
黒髪の少女がカティアを見る。考えを窺うかのような仕草だ。
カティアが考え込むような顔をした。
(やはり、あるのだな。しかもこのカティアさんは、教練書の存在を知っているのだ)
美しく涼し気な顔からはいかなる考えも読み取れない。まるで考えを読ませないがために美しく整えたかのように、アンセルスには思えるほど。
「分かりました。でも」
カティアの口から出たのは了承だった。ゆっくりとうなずいて見せてくれる。
弾かれたように隣の少女が口を挟もうとするのを、カティアが一睨みで制止した。
(でも、なんだ?)
アンセルスにとっては、そっちが問題なのだ。カティアの言葉の先を待つ。
「でも、アンセルス様お一人で大丈夫ですか?魔塔の場所も分かりますか?」
たおやかに微笑んでカティアが気づかってくれる。
ほっとアンセルスは安心した。
「えぇ、大丈夫です。ミリア」
アンセルスは大声で、アイシラの護衛の剣士を我が物顔で呼んだ。
茂みから堂々とミリアが無表情に姿をあらわした。黒ずくめで帯剣までしている。
黒髪の少女がギョッとした顔をした。カティアに比べて肝が据わっていないように見える。まだ幼いので無理もないだろう。
「この通り、護衛もおりまして。恥ずかしながら元は裏稼業の人間だったので。怪しい格好ですいません」
出来るだけにこやかにアンセルスは告げた。あくまで芝居である。ミリアには怒らないで欲しい。
「それに、そもそも魔塔近くを通ってみたことも一度や二度ではありませんよ。今回だって魔塔から来たのですから」
ボロが出ないようにアンセルスは必死である。カティア達に勘付かれればすぐにでもミリアが2人に斬りかかってしまうだろう。
カティアも微笑み返してくる。
「あら、でしたら良かったわ」
うまく騙し仰せた。
アンセルスは内心でひどく安堵した。これでシェルダン・ビーズリーとも貸し借りはなしである。
瘴気のあふれる魔塔から、作者の私のほうが出てしまいたくなりました。
なお、シェルダンとカティアはまだ、婚約関係にはありません。似たようなものなのですが、厳密には、まだ。カティアお得意の外堀を埋める大嘘です。不審者相手にもやるのだな、と生温かく見守って頂けると幸いです。