40 幻術士1
ドレシア帝国から、ほうほうの体で帰ってきた使者は、名をミリアという女性の剣士である。隠密行動に優れ、身のこなしが素早いので、単独でもドレシア帝国皇都グルーンに辿り着けるとされ、選ばれたのだ。更に血筋も伯爵家であり、使者として申し分ない、と。剣の腕前だけなら聖騎士セニアにも比肩するという。
見た目は明るい橙色の髪をした、勝ち気そうなキリッとした美女である。26歳だそうだ。
「ありがとうございます、アイシラ様!本当に!」
ポロポロと涙を流し、気丈なミリアがひざまずいた。対するアイシラは正面の椅子にかけたままである。エヴァンズの執務室ではなく、王宮内のアイシラ自室だ。
実は初対面ではなかった。これまでにも何度かアイシラもミリアを王宮内で見かけたことがある。冷たい眼差しを向けられていたものだが、今、豹変した。
(無理もないわね)
アイシラは無表情なまま思う。
やっとの思いでドレシア帝国皇都グルーンへ辿り着き、そして親書の内容のせいで、向こうでは散々な目に遭ったに違いない。
母国のアスロック王国に戻ったら戻ったで、今度は要求を断られながら、おめおめと帰ってきたとのことで、先程、王太子エヴァンズに処断されかけたのだ。
幻術を使ってアイシラが助けなければ確実に死んでいた。
今、王太子エヴァンズの中ではミリアは既に死んだこととなっている。丁度、遺体を片付けた、と思いこんでいるところだろうか。
「今、この国では有能な人を失うことが、何より大きな損失ですから」
静かに述べるにアイシラはとどめておく。誰も貶めはしない。自分を、大きく見せたり小さく見せたりもしない。ただ自分アイシラがミリアの命を助けた、という事実だけが2人の間にはある。
「私も同じように助けて頂いた身です。この命の借りは我々の働きで返しましょう」
禿頭の商人アンセルスがミリアの傍らに立って告げる。
彼もまた、なかなか理不尽な理由で王太子エヴァンズに処断されかけていた。
エヴァンズとシャットンに対し、アイシラは幻術を見せてやり、その隙にアンセルスを王宮から逃したのである。何もない所を真剣な顔で、剣を幾度も振るう王太子エヴァンズの姿にアンセルスはすっかり怯えていたが。
(あれも楽しかったわね、やはり幻術を使っているときが一番楽しいわ)
物心がついて魔力を自覚できるくらいのときにはもう、アイシラは幻術を使えた。他の魔術はまるでだめだが。魔力の性質が幻術に特化しているらしい。
幼い頃はよく、父のトゥール男爵を喜ばせたくて、お金の幻を見せていたものだ。そして父にバレたものの、膨大な魔力を持っているということで喜んでもらえた。
そして弟ともども大事に育ててもらえたと思う。お金に執着しすぎるきらいはあるが、家族を大事にしてくれる良い父だった。
自分独自の協力者が増えれば父も楽になるだろうか。
「はいっ!喜んでっ!アイシラ様のためならこの命、惜しくありませんっ!」
まだ涙の残るキラキラした目でミリアが自分を見つめてくる。
エヴァンズに処断されかかった不幸な人々を救うことを思いついたのは、聖騎士セニアのおかげだ。日頃の行いが良くて、人助けを積極的にしていたセニアを、処刑される前日、人々は無条件で助けた。
(あのとき、私が助けていたら、あのセニア様が、このミリアのように、私に心酔してくれていたのかしら?)
時々思うものの、今となってはどうにもならないことだ。そのセニアの脱出によって、アイシラは人助けを思いついたのだから。
「2人ともありがとうございます。でも、事実、エヴァンズ様のせいでアンセルス様はともかく、ミリア様は以前のようには働けません。私の護衛となって下さいませんか?」
丁重にアイシラは頭を下げる。
「そんなっ、命の恩人のアイシラ様にお仕えできるなんて。もう王家への忠誠心はありません。でも、アイシラ様のためなら、私」
ミリアがひどく熱のこもった口調で、アイシラの要請を受けてくれた。
「顔も知られると良くないかもしれません。何か隠す手立てを考えましょう」
アイシラはミリアとの今後を思案しつつ言う。ただでさえ幻術を使える自分に腕のいい剣士が付いてくれれば、まず身は安全であろう。
ミリアが勢いよく頷いた。
「分かりました。でもアイシラ様。これからはあなた様が私の主人です。私のことは、以後ミリアと呼び捨てでお願い致します」
切迫した表情でミリアに言われて、アイシラはなんとなく頷いた。呼び方などアイシラにはどうでもいいことだ。アンセルスからも同じことを言われて了承した。
「ところで、聖騎士の教練書については何か分かりましたか?」
ミリアのことは一段落したと思い、アイシラはアンセルスに尋ねた。
以前に一度、聖騎士の教練書が古本市場に流れたかあるいは物流にでも紛れた可能性もあると思い、その道の専門家、商人であるアンセルスに聞いてみたのである。以来、精力的に調べてくれていた。今日も久方ぶりにアイシラの前に現れたので何か掴んだかと思ったのだ。
「レナート様が自らの修練を行うため、と聖山ランゲルから持ち出して以降の足取りがまったく掴めません。なくなった時の遺言なども公式非公式問わず探ったのですが、その中にも記録が一切ありません」
申し訳無さそうにアンセルスが答えた。
どうやら用件としては物資関係でマクイーン公爵のもとに行ってきたついでの顔見せだったようだ。
「そうですか、気になさらないで。むしろ自ら働いてくださっていつもありがとうございます」
がっかりした顔など見せるわけもない。アイシラは優しくアンセルスを労う。
エヴァンズに殺されかけてから、アンセルスが他国で買い叩いた物資をアイシラに寄付してくれていた。物資はアイシラの手からマクイーン公爵のもとへと流れていく。よくわからないが破格の安さらしい。結果、マクイーン公爵の周りだけがうるおっているのだった。
「もったいないお言葉です。しかし、どこから誰に聞けばいいかも見えてこないとは」
アンセルスが思案する顔で言う。
アイシラが聖騎士の教練書に関心を抱いているのも、父の属する貴族の派閥の長、マクイーン公爵が欲しがっているからである。アイシラ自身、エヴァンズが一冊でも手に入れたなら、すぐに幻術を使って盗み出せと命じられた。
アイシラにとってマクイーン公爵のことは好きでも嫌いでもない相手だ。ただの小太りな金持ちの貴族という印象である。が、父も自分もマクイーン公爵の意向には逆らえない。父の屋敷から何まで公爵に対する借金の担保となっているそうだ。アイシラがマクイーン公爵に逆らうと、家族が路頭に迷ってしまう。
(そもそも)
王太子エヴァンズへ自分を売り込んだのもマクイーン公爵だった。可憐で控えめな美しい少女がいる、と。茶色い髪に琥珀色の瞳をした、セニアに比べ地味な容姿の自分をよく可憐などと称したものだ。
あまりに恥ずかしくて俯いていただけだが、なぜかエヴァンズの覚えは悪くなく、幾度か会うようになった。
更にマクイーン公爵に言われるまま、セニアとどこぞの若い公爵との浮気現場を幻術で創り上げて見せてやったのである。相手の若い公爵は、マクイーン公爵の政敵だったそうだ。